プリンの恨み:プリンを勝手に食うやつは地獄に堕ちろ8000字

文字数 8,102文字


 私は激怒した。
 必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した。
 思わずメロスの冒頭を(そら)んじるほど、私の魂は怒りに満ち満ちていた。
 目の前が真っ赤だ? そんな生やさしいものではない。私がその扉を開ける時、天国が待ち構えていると思っていた。けれどもそこにあったのはただ、地獄であった。

 嗚呼、なんという急落か。私の心は悲しみに咽び泣き、慟哭する。そして気がつくと私の両のまなこからは神の嘆きの如く滂沱と水が溢れ流れ落ち、その口はまさに地獄に繋がっているとしか思えないほどの怨嗟が迸っていた。

 ふう、落ち着け落ち着け。急いては事を仕損じる。まずは現況確認だ。煮え繰り返る臓腑を抑えて睨みつける。詰まった冷蔵庫の中身を全部とり出して一つ一つ調べた。

 それでも、やはり、ない。
 昨日、三時間並んで買ってきたデパート催事場、北海道大物産展1日限りの、しかもお一人様四個までの限定プリン。
 『十勝の風薫る天国への梯子、半生ふわとろ極上プリン』
 それがない。確かに昨夜、ここに奉られたはずだ。けれども、ない。

 畜生ッ‼︎

 怒声と共に思わず隣のシンクに手の甲を叩きつける。ステンレスにしたたかに打ち付けられた左拳に熱と激痛と痺れが走ったが、そんなものより張り裂けんばかりの心の痛みの方が重症で、私を死の淵に誘うのだ。
 だが。だが私はあえて、あえて過去を遡ろう。一体何があったのか。その可能性を絞り切るために。たとえ結論は見えていたとしても。

「今日、すっごい並んでようやく買ったんだよこのプリン」
「へぇ」

 へぇじゃねえ、へぇじゃ。
 昔から薄々感じていた諦念がそろそろ決定的になりそうな、そんな秋の夕暮れ。
 並べた食卓の端に皿に乗せたプリンを用意していた。目の前の男、つまり私の夫だが、神々しきプリンには目もくれず黙々と米と生姜焼きとサラダをかきこんでいる。

 あぁ、この男は昔からこうなのだ。人間としての本質的な価値観が私とは相いれぬ。そのように思いながら食事を用意し、同じ卓に着くようになってから幾星霜。最初はいずれわかり合える程度だと思っていたその無理解。それは最早モーゼが海と海を分ちたもうたかのようにその亀裂は高く積み重なり、もはやこの関係性を続ける限りこの高く聳え立つ断崖のような溝が埋まることはないのだろうと、そのように感じていた頃合いであった。

 不意に、くらりと世界が傾いた。
 突然のことだった。
 ガタリと茶碗を取り落とした音に反応したのか、男は不意に顔を上げてこちらを見る。

「どうしたの?」
「ちょっと目眩が」
「大丈夫? 食欲もなさそうだけど」

 そう指摘されて気づく。
 プリンへの期待のせいで生姜焼きに食指が動かないのかと思っていたが、よくよく自分の中を省みると確かに体はうっそりと重く、体表面には薄く汗をかいていた。
 この兆候はまずい。熱が出るかもしれない。

「今日は休んだら? 明日は休みでしょう?」
「でもプリン食べたい」
「大丈夫かな。プリンだけ食べる? 熱出てたら味わからなくない?」

 そうだった。
 思えば今口の中に入れている生姜焼きも増粘剤を食むように舌と歯に不快な粘り気を与えるのみで、あまり味覚の作用が働いていない。てっきりプリンへの期待が影響して味気なく感じるのかと思っていたが、全ては発熱のなせる効果なのだろうか。
 そうすると、このままあのプリンを食べてもこのミシミシとした不快な舌触りがやや滑らかになる程度で、その本来の馥郁たる香りも芳醇な味覚も感じ取れないのではないか。
 私は絶望した。

「プリンは明日食べればいいんじゃないの」

 私はその言葉にハッとし、光明を見出した。そうだ。賞味期限は大丈夫だろう。しかし食物というのは生成された瞬間から劣化が始まる。全てのものは腐り果てる運命にある。とすれば今食べるのが最も美味い。けれどもそれを私の味覚は感じられない。ぐぬぬ。
 ぐるぐると私の中を葛藤が渦巻く。そしてその渦巻きはとうとう私の脳神経と感覚野に影響を及ぼし始め、気づくとぱたりと机に突っ伏していた。髪が生姜焼きダレに少しかかっている。

「ほら、今日はもう寝なよ。ごはんは冷蔵庫に片付けておくからさ」
「プリン……」

 わずかに頷くと男はコップに風邪薬を用意した後、私に肩を貸し寝室へ誘った。そこで薬の苦味とともに私の視界は暗転する。

 そうだ、やはりそうだ。
 コキュートス(極寒地獄)のように私を凍りつかせる冷気を発するこの冷たい箱には、昨晩私が食べかけたのと同じ生姜焼きの皿がラップをかけられて鎮座している。
 けれども、左右を見渡しても、どこにも、どこにもプリンがないのだ。一つも。

 この失踪事件の謎は残念なことに明快である。
 プリンは二個あった。正確には四個あったが近くに住む夫の両親に上納した。あのお二人は美味を解する良き人だ。私とあのお二人は美味の喜びを分かち合う関係にある。なぜあの善きサマリア人のようなお二人からあのレビ人のような冷き男が生まれ落ちたのか理解に窮するところではあるが、問題は昨夜私の目の前に二つあったはずの方のプリンである。

 そうだ、答えは明確だ。
 一つはあの男が食った。
 もう一つも……あの男が食ったのだ。そうとしか思えぬ。

 その瞬間、かろうじて人のカテゴリの範疇にあったあの男の地位が一息で犬畜生を飛び越えおぞましき背徳者へと成り果てたのだ。いや、もはやソドムとゴモラのように神の業火でこの世から消滅すべき悪徳である。

 プリン……。

 この落とし前はどのようにつけるべきだろうか。熱い液体と冷たい液体を混ぜればやがて中間的な温度の液体に落ち着く。それが世の摂理だ。そう考えると、私は某少年漫画の強化系主人公の少年のように主観的に怒髪が天をついていたが、その熱や高まりを抑えて平常の温度を取り戻すためにはやはり冷き試みが必要だろう。
 つまり復讐だ。冷き復讐によってこの怒りを収めねばならぬ。

 そこまで考えてふと、頭の冷静な部分がひとりごちる。果たしてあの尊きプリンの対価となりうる復讐がこの世に存在するのであろうか。
 プリン。プリンとは私にとって何であるのか。そしてあの男は。……命。……プリン。少なくとも今の私にとって背徳者と成り果てたあの男の命よりはよほど価値のあるものである。
 そして……命というものは一度失われれば二度と取り戻せない。プリンも同様である。それならばその命を持って贖ってもらうッ!

 これが最後の審判だ。そうだ、そうに違いない。かのマキャヴェッリも『やむを得ず人を傷つける場合、その復讐を恐れる必要が無くなるまで徹底的に叩き潰さなければならない』と述べていた。つまり最善は死。これ以上の哀れなプリンの犠牲を免れるにはそれしかない。
 黙示録にならい私の中の天使が高らかにラッパを吹き鳴らそうとした時、私の中の悪魔が小さく囁いた。

『あの、ちょっと宜しいでしょうか』
「何でしょう」
『その、殺してしまってその後どうするというのです?』

 その後? 全く考えていなかった点を突かれて狼狽えた。その後? プリンにはその後なんてなかった。

『あの、プリンは食べたら無くなっちゃいますけど殺したら死体が残りますよね?』
「はい」
『それはとても困りませんか?』

 ……それは困る。困ったな。
 だがそれでは私の復讐はどうしたらよいというのだ? とりあえず私の中の天使が無意識に握り込めた出刃包丁をそっと棚にしまう。

『価値相対主義という言葉がありまして』
「はい」
『あなたにとってご主人が無価値であってもご主人にとってご自身は価値があるでしょう』
「うん」
『けれどもご主人にとってプリンはあなたが考えるほどの価値はなく、だから食べてしまわれたのでは?』
「え?」

 その瞬間の私の驚きは表現尽くし難い。
 なんと、あの男はプリンの価値を知らぬというのか。私は目を皿のように見張った。あのプリンが鎮座ましましていた皿のように。
 だがあのレビ人のような、いやもはやパリサイ人と呼ぼう。確かにあの男は淡々と欺瞞的に生活を消費し、美味なる食物といった真に価値を持つものには見向きもしなかった。

『あなたがしたいのは復讐なのでしょう? 復讐というのは報復です。報いを与える行為です。相手にその行為によってもたらされたあなたの苦痛を知らしめる行為なのです』
「うん」
『けれどもあなたにとってあの男に価値がないように、あの男にとってプリンは価値がない。あなたがあの男を殺したとしても、あの男はなぜ殺されたのか理解できないでしょう』
「よくわかんなくなってきた」
『そう、つまりなぜ自分が死ぬのかよくわからない。例えるなら交通事故のようなものです。そこに生まれる思いは後悔や悔悟ではなくただの理不尽。すなわちあの男にとって殺害は復讐という対価性のある行為ではなく、ただむしゃくしゃしてやった、と同義です。あなたの中のプリンとはその程度の価値なのですか? あなたのプリンの価値の喪失を復讐という形であの男に刻みつけるのならば、その価値を知らしめる必要があるのです』

 目から鱗が落ちた。私の中の天使が慄いた。
 償い。ただ殺しただけではプリンの償いは果たされぬのだ。
 だが愕然とした。私はあの無知蒙昧な男にプリンの価値を知らしめる言葉を持たぬ。それであれば復讐は果たせぬのか。
 私が再び絶望の淵に立った時、悪魔は再びニヤリとその赤い唇を舐め回してクククと笑った。

『それであればあの男から奪うのです。あの男にとってあなたのプリンと同価値であるものを』

 ううむ、あの男の中で私にとってのプリンと同じ価値があるもの。私にとってあの男の生活なぞ何らの価値もない。けれども私にとって価値がなくとも対価性があれば償いの均衡はとれるのか……?
 目には目を、歯には歯をともいう。どこか釈然としないが、たしかに論理の流れを追えばそれも一つの帰結であろう。

 私がプリンの喪失によって与えられた痛みと同価値のもの。あの男は何を大切にしていたであろうか。そういえばあの男は帆船模型を趣味としていた。少々格好がよいなと思うこともあるが、流石に棚の上に10も乱雑に並べば鬱陶しいと思っていたもの。
 確かに私にとって無価値だが、あの男にとっては価値があるもの。

 そうであればあれらの帆船のいくつか又は全てを破壊すれば対価性は保たれるのであろうか。私にとってのプリンの喪失と等しい苦しみをあの男に与えることができるのだろうか。
 頭の中でしばらく咀嚼し、ようやくその方針に納得仕掛けたところ、天使が反対側の耳を引っ張った。

『それは悪手だろ』
「そうなの?」
『復讐とは何かを考えろ。あんたが復讐を終えた時、相手に余力があれば帆船を対価に据えた新たな復讐が生まれる。何せあの男にとってはプリンは無価値なんだからな。あの男の認識では一方的に自らの大切なものを破壊された、となるはずだ。そうすればあんたは復讐される側だ。あんたにはプリン以外にも他にも大事なものがあるだろう?』

 大事なもの……。確かにある。
 推しのサイン本とか絶版の同人誌とか。私はプリンを失ったことで魂が欠けるような苦しみを味わった。これ以上私から何かを奪おうというのか。ギリリと奥歯が噛み締められ、その喪失の不安に動悸が激しくなる。

『ほら、あんたにとってその新たな喪失は耐え難い苦しみとなるだろう? だが相手に復讐をするということは相手から復讐されることをも許容するということだ。自分は復讐して良くて、相手が駄目というのは道理が通らない』
「うーん」
『相手は自らの帆船の価値の対価を求めてあんたの大切なものを狙う。そうするとどうなる。あんたは更にその対価のためにまた新しい復讐をせざるを得なくなる。復讐を途中で止めることはできない。何故なら止めたら、それまで支払った苦痛の価値をすべて放棄することになるからだ。プリンも、あんたの趣味も、それまで失ったあんたの全ての価値の意味や重さを放棄することになる。それまでの犠牲があるからこそ、復讐は止められない。復讐の連鎖というやつだ。そうするとどうなる?』

 どうなる? 私は私の全てを失って、あの男もその全てを失って。それは悲劇だ。悲劇には違いない。けれども始まりの鐘はすでにあの男によって鳴らされた。かのネルソン・マンデラもこのように述べている。
 ~人間として、何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず、また、自分たちにとってのよい社会、よい生活を追い求めずにいることは、不可能なのです~
 だから、不当な弾圧に対して私は立ち上がらざるを得ないのだ。私は私の幸福追求のために。

「あの、でも、私は復讐したいんです」
『あんたの気持ちはよくわかってる。だから復讐をするのであれば

、だ。最初の一撃で反撃の気力もわかないほど相手のすべてを奪い尽くすのだ。神がその光でソドムとゴモラを滅ぼし、言いつけを守らぬ非保護者すら塩の柱に変えたように徹底的に! 僅かな可能性すら総て潰えさせる。それこそが復讐に求められるものなのだ』
「そうだ! 徹底的に!」

 天使は再びそっと出刃包丁を手にし、不退転の決意に揺らがぬ私を見た悪魔はそっと立ち去った。そして私は来たるべき時に備え、部屋でふて寝をすることにした。



 夜の帳が降りた。
 静かな夜だった。私の息遣い以外はもはや何も聞こえなかった。

 夜の使者が時が満ちたと私に告げに来た。
 それを玄関の鍵がガチャガチャという音で知った。
 やがてその運命の軛はゴロリと回され、キィという僅かな摩擦音が流れ込む。玄関の扉が開き、室内に夜の湿度が流れ込む。その扉が閉じられて、再びこの家が密室となった時。それがあの男の最後だ。
 そう思い、玄関扉に繋がる廊下の奥に身を潜めていた。

「あれ。電気ついてないや。寝てるのかな」

 その声と共にパチリという音がして、オレンジ色染みた光が灯る。その灯りはどこか彼岸の香りがする。

「うん? そんなところでどうしたの?」

 私は一歩だけ、足を踏み出す。
 背後に包丁を隠して。
 私とあの男のちょうど真ん中に灯る天上の光。それが私とあの男の影をそれぞれの背後に向けて競うように長く伸ばす。光があるところに影はある。だが、もはやわたしとあの男の影が交わることなど二度とないのだ。
 そのオレンジと黒はまるでジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵のように静謐だ。そうだ、この行いは正しき復讐である。神よ。わたしに力を与えたまえ。柄を持つ指に力が入る。うっすらと汗をかいた背筋がその行為の訪れを今かと待ちわびる。
 早く扉を閉めろ。それでお前の世界は終わる。

 けれどもその緊張は予期せぬ一言によって打ち砕かれた。

公晴(きみはる)、邪魔よ。入るなら早く入りなさいよ、どんくさいわね」
「ちょっと押さないで母さん」
「もうまったく。あら、明世(あきよ)さん。体はもう大丈夫なの? お悪いと聞いて伺ったのだけど」

 なぜだ? なぜお義母さんが。
 私は急いで仮面(ペルソナ)を被り、慌てて包丁を廊下の暗がりに隠す。あの男が油断をしているところを一撃で屠ろうと考えていた。そしてその後は風呂で細部にバラして骨は削って肉は煮こぼして少しずつトイレから下水に流そうと……。

「あらあら、やっぱりちょっと顔色が悪いわね。今日は私が作りますから安静にされてなさいな」

 お義母さんのご飯。真の美食の価値を知るお義母さんのそれは天上の美味なる調べを奏で出す。それはプリンとは異なる個別の絶対的な価値を有するものの、しかし今が果たすべきは復讐なのだ。その夕食が有るからといってプリンの価値は減じたりはせぬ。そうであるならば、そうであるからこそ、私はプリンの復讐を完遂せねばならぬ。
 そう思った瞬間、くうぅという音が腹から出た。

「あらあら、お腹すいてるの? ちょっとまっててね。おおよそは作ってきましたから後は温めて仕上げだけ。お口に合うとよいのだけれど」

 お義母さんの料理が口にあわないはずがない。それはすでに経験則から実証されている。プリン、夕食、プリン、夕食。その二つの価値は私の中で千々に揺れ動く。……夕食を食べてお義母さんが帰ってから遂行すれば良いのではないか? 嗚呼私はそう思ってしまったのだ。
 ニーチェの言葉が思い浮かぶ。
 〜あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう〜

 だが、だがよく考えるのだ。この復讐は成し遂げることには大いなる意味はあるが、時的な制約はない。この心に炎が燃え続ける限り、その復讐はいつまでも熱を持ち、その対価を満たすであろう。
 そうだ。あろうことか私は揺らいでしまったのだ。

 価値……相対主義……。
 悪魔が囁いたその言葉に私は苛まれていた。
 価値は絶対ではなく相対。その意味が私の中に毒のようにじわじわと広がってゆく。かつてあれほど絶対的に私の中に聳え立っていたプリンの頂きに薄く雲がかかっていた。

「たくさん食べてくれて嬉しいわぁ」
「お前、昨日の夜から食べてなかっただろ。急に食ったら腹壊すぞ」
「とても……美味しいです」

 思えば昨夜から一滴の水も飲んでいない。その乾ききった私の心と身体にお義母さんの作ったお粥が染み渡っていく。お粥といってもこれは佛跳牆(フォーティャオチァン)だ。美味すぎる香りに修行僧も寺の塀を飛び越えてやって来る。
 数十種類の乾物や高級食材が煮込まれて芳香で部屋が満たされる。昔は煮込みや乾物の戻しに数時間かかっていたはずが圧力鍋という文明の利器が時間を跳躍させるのだ。ああ、やはり科学は信仰を駆逐してしまうのか。
 ともあれその頃には私の心中には1つの思いが去来していた。
 この男を殺せばお義母さんの食事は二度と食べられない。

 嗚呼、何たる堕落であろうか。私は少し前には原理主義者というほどにプリンの価値を奉っていられたというのに私はすっかり堕落してしまったのだ。不決断こそ最大の害悪。デカルトの言葉が思い浮かぶ。
 そうだ、私は決断をしなかったのだ。プリンに殉じることも、お義母さんの軍門に下りプリンを唾棄することも。軍門に下ると決断していれば、プリンに対する後ろめたさは感じたとしてもこれほど行き場のない思いに苛まれることはなかったであろうに。プリンへの慟哭と佛跳牆がもたらす抗いえない快楽の狭間で私の魂は深く灰色に塗りつぶされていった。
 もはや私は全ての価値から目を背け、パリサイ人のように欺瞞に満ちた生活を送るしかないだろうか。心の奥底に真なる価値を閉ざして。いや、それがこの男の妻として相応なのだろうと自嘲する。

「あ、公晴、そろそろ冷蔵庫から出して」

 そんな声がぼんやりと鼓膜に届く。しばらくして私の前に何かが置かれ、それに焦点が合うまでしばらく時間がかかった。
 
 ん?
 何度も目をこする。幻? いえ、まさか。なぜ此処にこれが。
 その瞬間、欺瞞に満ちた世界は全て溶け崩れ、新たな世界が創生された。

 『十勝の風薫る天国への梯子、半生ふわとろ極上プリン』

 まさに天啓、神託、お導き!
 その瞬間、世界は光に溢れた。世界は歌に満ちた。その喜びたるや! ハレルヤ!
 What a Wonderful World!
 世界は光と音と色を取り戻した。光が舞い、花は満ち、全てのものが歌い賛美する。清らかたるこの世界よ!
 プリンはやはり世界の中心にあり、天からその頂へするすると降り立ったヤコブの梯子を天使が行き来するのが見える。

「な、なんで?」
「うん? ああ、お前冷蔵庫一杯にしてただろ。プリン入んなかったから実家に預かってもらってた」
「食べたんじゃ」
「お前怒るじゃん」

 そうか。そうだ、プリンは私をお試し申されたのだ。私めのプリンに対する思いを。そして悩みながらも決してそれを放棄しなかった私めに再び姿をお現しになられたのだ。おお、プリンよ。高らかにホルンの音が聞こえる。
 全ての罪が止揚され、永遠の救いが成就されたのだ。
 けれどもこれで1日分、新鮮さから遠のいた気がする。

 だから私は1日だけ夫の帆船を隠すことにした。
 対価的腹いせに。

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