天気輪の丘:不思議な夜の4000字

文字数 3,999文字

 私は目が見えない。生まれた頃から見えなかった。私の頭の中には色というものは存在しない。光も、闇というものも存在しない。私は生まれた時から、目玉がなかったのだ。
 私の脳にはもともとは視覚を感じる作用があったのであろうけれど、生まれてから15年も経つ頃にはすでにすっかりその機能も衰え、そのうちの未来に私の目が神の作用で回復したとしても、私はすでにその光や闇を受け取ることはできなくなっていた。

 そのような私を皆は憐れむ。かわいそうに、ふびんだねぇ。
 けれでも私はその嘲笑になんら影響を受けることはない。私の家は裕福で、だからこそきっちりと医療というものの診断を受けることができたのだけれど、つまり私の目が見えなくてもその暮らしになんらの不満や不測はなかった。
 目は見えずとも耳は聞こえる。勉学は滞りなく私の脳に蓄積される。目は見えずとも舌は味を捕らえ、皮膚はものを捉える。目が見えなくとも私の中に滞りなく人生の楽しみというものは流れ入ってくるのだ。
 目が見えれば何か違ったのかもしれないが、私はもともとそれを知らないのであるから比較しようもない。畢竟、私は何を言われても確かに幸せであった。

 ある日、私は久子(ひさこ)に話しかけられた。
 久子というのはこの家の女中であり、私の2歳年上の女だ。実家が食い扶持に困り、つてを頼って一昨年からこの家で奉公をしている。
 農村育ちで学がない。だから主に私の雑務をこなしていた。ようは私にお茶を入れるだとか、私の衣服を洗濯室に持っていくだとか、そういった細々としたことだ。

「十三夜を見に行きましょう」

 ある風の強い日、久子は私にそう告げた。
 面食らう。そしてその声音から、他意はないのだろうと思われた。そして近くに誰もいないであろうことを認識し、ほっと胸を撫で下ろした。誰かに、特に女中頭に聴こえていたらきっと大目玉だろうから。

 私の家では毎年月見会を行っていた。中秋の名月だ。満月に集まり名月を祝う。私は見えぬものの、この家の者の役割として何度か出席し、親類縁者に挨拶をしたことがある。そしてこの家では十三夜も祝うが、私がこれに誘われることはない。

 十三夜。
 十三夜とはつまり満ちる前の月を愛でる祭りだ。
 中秋の名月、十五夜は長雨の季節で見られないことも多い。そこでその約1ヶ月後の十三夜を、少し欠けた月を愛でるのだ。
 そう、少し欠けた。私と同じように少し欠けた月。不完全さを愛でる会。そして月は満ちるが私の不具は満ちることはない。
 その暗喩が直截すぎて、私はこの祭りに呼ばれることなどなかった。
 だからその十三夜の夜は私はいつも部屋にいた。その静かな夜だけは、私が不具者であることが身に染みた。

「一人だけ仲間はずれなんて寂しいです」
「仲間はずれ、か」
「今年は私も一緒ですので」

 今年の私の当番は久子なのか。
 おそらく久子は十三夜の意味をよく理解していないのだろう。会には菓子などが興じられる。会に出ればそのお相伴に与れるのに、部屋にこもる私に付けばそんなおこぼれがないことに腹を立てているのだろう。
 けれどもきっと誰かが止めるだろう。そう思って曖昧に頷き、それから二週間ほど忘れてしまっていた。

「十三夜です。お出かけしましょう」
「何?」
「前に行ったでしょう?」
「たしかにそうは言われたが……」
「こっそりお勝手からでかけましょう。料理番にお願いしてお菓子も持ちました」

 私は戸惑いながらも久子に手をひかれ、柔らかな絨毯が敷かれた廊下を抜けて屋敷の裏方の様々な匂いのする勝手口を抜けてぱたりという音とともに入る夜の静かな香りの先の土の地面に足を置いた。

「久子、どこにいくんだ」
「天気輪の丘です」
「天気輪?」
「そう、ちょっと開けた高い丘で、きれいに空が見えるのです。ほら、今日はとても晴れていて明るくて、きっと月が綺麗に見えますね」

 綺麗に見える。
 久子は私が目が見えないことを知らないのだろうか。まさかそんな馬鹿な。
 そう思ううちにも私の足は交互に地面に接地し時折腕に紙の感触と暖かさがふれた。おそらく行灯だろう。私にはすでにその温度しか感じられないけれど、私の進む道の先を照らしているのだろう。私にとって世界は全て同じだが、久子にとっては異なるのだ。
 どこに向かっているのだろう。天気輪の丘というのは童話でしか聞いたことがない、道なき道を進むような不安感と、久しく感じたことがなかったまるで冒険をしているような少しの高揚。

 30分ほど歩き、その合間に人の営みの匂いが消えてすんと清涼な木の香りが増え、それから湿った土の香りに変わった。ひば林だろうか。そのような独特の香りがする。やがて地面は傾斜をもち、ゆるやかな坂道を登る。

「つきました。月が綺麗ですね」
「……そうか」

 すうと長い風が吹いた。冬の初めの丘の上はくるくると風が舞っている。私は目が見えない。だからあまり外に出る機会はなかった。だからその風が舞い私に触れる感触はとても新鮮で、まるでそのままふわりと空を飛ぶような幻想を抱いた。
 ふいに手が何か硬いものに触れる。壁のようだ。何かの建物だろうか。その壁はゆるやかに湾曲している。冷たいそれに手を触れながら回るけれど、その湾曲を保ったままいつまでも終わりはこなかった。
 とすればこれは柱だ。円柱だ。この湾曲の具合から考えると直径はおおよそ5メートル程度だろうか。なぜこんな丘の上に柱が?
 そう思いながら、柱に背中を預ける。その柱は大理石のようにつるつるとつやめき、夜の湿度をしっとりと私の着物に移した。

 天気輪の丘。
 それならこれは天気輪の柱なのだろう。妙に可笑しさが込み上げてくる。
 天気輪とは天の川のことだ。久子はよく晴れていると言っていた。それならば空に浮かぶミルク色の流れもよく見えているのだろう。私は見えていなくとも天の川に触れているのだ。見えない私にとって確かにこの柱こそが天気輪。それはそれで一つの答えだろう。

 ぼんやりしていると、不意に耳の端に音が聞こえた。シュシュという蒸気の音、がしゅりがしゅりという硬く強い鉄が触れ合う音。みしりみしりとまるで轍が軋む音。
 まさか。
 それらの音は次第に大きくなり、最後にカンカンという鐘の音とともにキキィ大きく何かが軋み、シュウと蒸気が上がる音とともにぶわりと大きな風が吹いて丘の上に舞っていた風を吹き散らした。

 一体何が起こっている? 何故機関車の音がした。今の音は機関車の音……だよな?
 この近くに鉄道が走っている話は聞いたことがない。それに第一、その音は上からやってきた。この背中にもたれている柱の真っ直ぐ上から。

「銀河ステーションです」
「久子?」

 その声は確かに久子のようで、けれども拡声器を通したようにその外縁は少しだけぼんやりしていた。
 不意に右手を取られる。その手は先ほどまで繋いでいた久子の手と同じ感触を持ち、けれどもどこか遠くから来たようにじんわりと冷たかった。

「久子、どういうことだ」
「お客さま、ここは銀河鉄道です」
「なんの冗談だ」
「さあ、こちらからお乗りください」

 促されるまま右足をあげると、靴は地面に到達せずにカタリと金属の音をたてた。さらに反対側の左足を上げると右足より高いところで金属を踏む。タラップ?
 混乱と共にさらに足をすすめると二段ほどで不意にあたたかな空気に包まれ、伸ばした手は壁に触れた。
 汽車の、車内?

 私は一体どこにいるのだろう。
 導かれるままコンパートメントに入り腰を下ろす。柔らかで毛並みの揃った上品な座面。そのうち静かに世界全体が大きく揺れ、ゴトンゴトンという振動が体に伝わった。
 久子は銀河鉄道といった。そしてこれは上空からやってきた。銀河鉄道なのか。

 振動は滑らかに体に馴染み、手を伸ばした先のツルツルした表面の向こうを眺める。広がるのはやはり闇。このような超常であればと思って少し期待したが、やはり星の煌めきというものは私の中には生まれなかった。

 しばらくすると鳥捕りがあらわれ、男の子と女の子と家庭教師が現れて少しだけ話をした。鳥捕りからは菓子の甘い香りが、3人からは冷たい海の香りがした。けれども私には巨大なオオハクチョウも鯨の彗星も、光り輝くススキ野も何も見えなかった。
 けれども私はその光景を思い浮かべることはもともとできなかったのだ。その話を昔に聞いた時も。光景という概念は私の中にはなかったのだから。けれども私は確かにこの銀河鉄道に乗っている。私は私が有する全てでその事実を肯定した。
 私の心には振動と共に、ただただ、真っ暗な中で同色の闇が輝いていた。

「お客さま、切符を拝見いたします」

 私は何も持っていない、そう答えようとすると、久子は私の何も持っていない手から切符をもぎ取った。

「これはどこまで行ける切符かな」
「そろそろ起きてください」

 その声と共に体が揺すられた。先程までの心地よい鉄道の振動と異なる強い動き。

「久子、痛い」
「ここで寝たら風邪をひいてしまいます」

 気がつくと私は地面に横たわり、指先や耳にかさかさとした草の感触と香りを感じた。体を起こすと着物はしっとりと夜露に濡れていた。
 先ほどまでの柔らかな座面や背にしていた天気輪の柱の感触は何もない。そうすると全てはただの夢、か。何か少し、つまらない気がした。
 起き上がると先程の通り丘の上では小さな風がたくさん舞っていた。

「そろそろ帰りましょう。とてもよい月でした」
「久子、俺は月が見えないんだ」

 少しの空白。そして続く不思議そうな声。

「知ってます」
「なら何故」
「満月だと月が明るすぎて天の川が見えないんです」
「天の川が」
「そうすると銀河鉄道がきません」

 銀河鉄道が?
 そうすると先程の夢は。

「私の切符はどこまでいけるのかな」
「どこまででも。何も欠けてなんかいないんですから」
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