ろくでもない人生と、ろくでもない幸せ:新しい幸せを求める8000字

文字数 8,027文字


 幸せになりたい。
 どうやったら幸せになれるのだろうと思いながら、バシャリとたくさんの百合の花が床にぶちまけられる光景を見ていた。なんとなく、百合というのは独特な香りがする。
 ようは安息香酸メチルとオシメン、ネロリドールの複合的な香り。この臭いは特に好きでも嫌いでもない。そう思ってカーペットを湿らせる百合をぼんやり見ていると、その白い先端が無残にヒールで踏みにじられてさらに香気が立つ。そして俺は頬を平手で張られてパンという高い音が部屋に響いた。

「いい加減にして」
「いい加減?」

 ぼんやり安穂(やすほ)の顔を眺める。
 いい加減。
 いい加減とは何だろう。働かない頭を緩慢に動かしながら、じんじんする頬を撫でる。人に殴られるのは久しぶりな気がする。

「どういうつもりなの?」
「どういうつもり。プロポーズをしたつもりです」
「あなたは、どうして」

 苦虫を噛み潰したような表情。
 どうして? どうしてといわれても。女性は花が好きなものだと認識していた。だから帰りに花屋さんで買ってきた。これまでも何度か安穂に花を送ったが喜んでいるように見えた。

「百合、嫌いだった?」
「あなたとは無理だといったでしょう?」
「そうですね」

 少し前にそう言われた。
 でも時間が経ったから、変わってないかなと思って。
 百合は好きじゃなかったのかな。おかしいな。
 安穂は俺の目の前でがなりたてている。僕と付き合えない理由を。そっか。うん。そうだね。けど、僕はその内容がよくわからないんだ。覚えてなくて。そうするうちにバタンと扉が閉まる音がして、気がついたら安穂は目の前からいなくなっていた。

 ……百合を片付けなくては。
 一本ずつ拾う。踏み躙られた部分の下の絨毯にはぼんやりと汁が付着していた。あとで洗濯するべきなのかな。触れると、百合の香りが指に移った。

◇◇◇

 辞書で調べた『幸せ』の定義。
 ①運が良いこと

「災難だったな」
「災難?」
「引っ叩かれたんだろ?」
「あぁ。でももう赤くないから平気」
「商売道具なんだから気をつけないと」
「うん、ごめんね」

 道生(みちお)の頬の腫れは確かにひいているようだが、触れると右頬に比べて左頬は少し熱を持っていた。
 道生は長いまつ毛を瞬かせて俺を見る。放っては置けない、そう思わせるどこか虚無的な表情で。
 道生は役者でよくカルト系の映画に出て、モデルもしている。三〇過ぎているのにその表情は少年のように透き通って妙にアンバランスで、顔がいい。だから引っ叩かせるなら顔以外がいい。

 俺は道生の幼馴染でマネージャーをしている。
 今日、昼前に迎えに行ったら、百合、いる? と聞かれた。半分はまだ綺麗だからって。半分の安穂に踏まれた百合はキッチンのゴミ箱に無造作につっこまれ、残りの綺麗な百合は流しのボウルに無造作につっこまれていた。

「ねぇ、こっちの捨てた百合の方がいい匂いがするんだ。こっちも踏んだ方がいいのかな」
「お前はどうしたい? 匂いを嗅ぎたいなら踏めばいいし姿を姿を愛でたいならそのまま眺めるがいいよ」
「どちらもいらない。いらないよね?」

 何かを考えようとしている道生の背中を叩く。道生は百合と自分を混同し始めている。安穂め。今日は仕事だっていうのに道生をぐらつかせやがって。不幸中の幸いは今日の仕事が美術モデルであることだ。安穂もそれを知ってて引っ叩いたんだろうけど、本当に引っ掻き回してくれる。いや、引っ掻き回してるのは道生の方なのだろう、けど。

「大丈夫、いる。いるから。この世にいらないものなんてない」
「そう?」
「うん。それより昼飯作ってやるから着替えろ」
「わかった」

 のろのろとシャツを羽織る道生を眺めながらフライパンでケチャップライスを作り、薄く焼いた卵を乗せてカットしたトマトとキュウリを添える。

「頂きます」
「召し上がれ」
「美味しい」

 簡素なテーブルに肘をつき、もぐもくと食事を口に運ぶ道生を観察する。大丈夫、かな。厳密にはよくわからない。心なんて見えないんだから。

「今日は美術モデルだ。やれそうか?」
「大丈夫」
「体は平気?」

 道生は両腕を動かして稼働部位を確かめ首を縦に振った。大丈夫というなら大丈夫なのだろう。美術モデルはあれはあれで大変な仕事だ。モデルをしている間、目線すら動かしてはいけない。頻繁に休憩を挟むとはいえその状況で何時間も石になる。普通は何かを考えてしまうと、ちょっとした動きが体に出る。道生は何も考えないからポーズが決まると動かない。それに何よりとても美しい。だから人気がある。

「ルールは?」
「笑って挨拶する。指定されたポーズを取る。返事は『そうですね』と『わかりません』と『確認します』。帰る時は『ありがとうございました』。無理に触られそうになったら叫んで(よう)を呼ぶ」
「そう。わかったら車に乗れ」 
 
 車はするりと動き出し、滑らかに坂道を下る。昼下がりの夏の太陽は車のルーフをジリジリ焦がし、頭上から熱が降り注ぐ。エアコンと同時にラジオをつけた。空疎な音を聞きながら街並みを抜けて大きな街道に入りしばらく進んで右折。だんだんと街並みが近代的なコンクリートの色合いから古い木の色に変化する頃には道生は車内の冷気とともに幾分生気を取り戻していた。
 まあ所詮、生気があるといってももともと生きてるなとわかる程度だ。

「結婚したい」
「うん」
「誰だったら結婚してくれるかな」
「そうだなぁ。少なくとも今は安穂は無理だよ。プロポーズはもう三回目だろ?」
「うん」
「その度にブチ切れられてるだろ? 安穂にとってお前は家族で見知らぬ男」
「家族なら結婚してもいいのでは」

 ルームミラーを覗くと道生はぼんやり窓の外を眺めていた。
 この丘を回ると画家のアトリエだ。涼やかな竹林に囲まれた道を入って一旦車を止め、インターホンを押して門扉を抜ける。車のドアを開けた途端ジージーと蝉の声がして汗が垂れたが、後部座席から出てきた道生の周りはやはりどこか涼やかで竹の葉が形作るサラサラとした影がその表面で揺れていた。

 古い日本家屋を改造したその家は天井板が取り払われ、太く黒い柱が直接ずしりと高い天井を支えている。応接の隣がアトリエで、今日は道生は合計四時間モデルをする。道生は早速画家とアトリエに消え、俺は低い籐のソファに座りながら時間が過ぎるのを待つ。
 道生のマネージャーは副業だ。本業はライターだからどこでだって仕事ができる。だからフラフラした道生の面倒を片手間でみている。放っておけない。電源を借りて仕事をしていると、冷えた緑茶の氷が溶けてガラスの縁にぶつかりカランと奇麗な音をたてた。

 途中休憩をはさみ、お手伝いさんが用意した茶菓子を道生と二人で摘む。今日は片手を上げるポーズだったらしい。道生はぐるぐると右肩を回していた。画家は今もアトリエにこもり、道生の絵を描き続けている。この後道生はもう一度アトリエに戻り、六時前ぐらいには今日の仕事は終わるだろう。

棚沢(たなざわ)先生がね、結婚したいなら女の人を紹介してくれるんだって」
「そうか」
「でもこれまで色々紹介してもらったけどうまくいかなかったじゃん。どうしようかなと思って」
「まあ、うまくはいかないだろうさ」
「やっぱりそうなのかな」

 道生は結婚したがっている。道生にとって結婚は幸せのイメージなんだろう。道生は幸せになりたがっている。けれども色々伴わない。道生は半分欠けている。事故の後遺症だ。だから結婚するには半人分足りない。足りないものというのは自分では理解できない。足りないんだから。

「まともに会話できないだろ」
「してるつもりだけど」
「そうだな」
「うん」

 棚沢画伯は抽象画家だ。キャンバス上に○や△を構成する。一度見せてもらったが、道生かどころか人なのかもパッと見わからなかった。だけど棚沢画伯の絵は現在の道生を正確に描写しているようにも思えた。
 今の道生はそのような抽象的なもの。情報が足りない。あやふやでのれんに腕押し。踏み込むとふわふわ姿が見えなくなる。

 画家の家は高台にある。夏の六時はまだ明るいけれど、陽炎のくすぶる帰り道の坂を下る。そうするとほんのり明るい白が灯り始めたどこか懐かしい木造建築郡が姿を現す。それを大きく迂回しながら問いかける。

「晩飯は何食いたい?」
「ハンバーグかな」
「じゃあファミレス行くか」
「うん」

 街道に入ってしばらく、目についたファミレスにじゃりりと車を入れると西の空はほんの少しだけオレンジ色にざわめいていた。

「それで安穂と道香(みちか)ちゃんと一緒に暮らしたいの?」
「うん」
「そっか」

 道香ちゃんは安穂の娘だ。道生は運ばれたデミグラスソースのハンバーグを静かに切り分けながらそう答える。

「全然覚えていないのに?」
「うん」
「他の人と結婚するのでもいいの?」
「うん」
「結婚してどうする?」
「一緒に生活する」
「誰とでもいいの?」
「知ってる人がいいな。怖くない人」

 ステーキを切り分けて口に運んでいると道生が俺に問いかけた。

「一緒に住むだけなら住んでもいい」
「一緒に住むのは家族がいい」
「そっか。美味い?」
「うん」

 道生は一年半ほど前に事故に遭った。もらいの追突事故だった。半年ほど意識不明の時間を過ごして、もうダメかとみんなが思った時、幸運にも目を覚ました時にはここ二〇年ほどの記憶を失っていた。
 幼馴染の俺はその圏外だった。俺が覚えられていて自分が忘れられていることに安穂は随分切れていた。だが覚えられているといっても存在が辛うじて記憶に引っかかっているだけで、失われたことは変わりない。

 道生は事故に合う前も役者をしていて、役者としては平凡で顔が良かったから女にモテた。今はとても非凡で顔もいいがモテてはいない。目を覚ました道生は人間性を特別なものと認識しなくなっていた。道生にとって人間というのは世の中でたくさん存在する生き物で、それぞれの価値の相対性が失われていた。喜怒哀楽も情動の動きとしてしか感じられず、喜びと怒り、哀しみと楽しみは同じものとしか認識できない。

 命は大切で喜楽は怒哀より好まれるべきという認識はあるものの、真の意味で道生にとって生命の価値は平等で、感情に差異を見出せない。というか区別がつかないのだと思う。
 だから安穂も道香ちゃんも俺もそのへんに歩いている老若男女も等価で、相手が喜んでも怒っても悲しんでも楽しんでもその違いがわからない。それが発言の節々から漏れている。つまり誰かを特別と認識することも感情に共感することもできない。だから道生に結婚という特別を作る行為は向かない。まぁ、安穂がブチ切れる理由はそれとは別なのだけど。

 ともあれ道生が『結婚』したいだけで自分を大切にするつもりがない、ということが相手に即バレする。しかもこの顔だからなぁ。他に女を作るとでも思われるんだろうな。

「結婚ねぇ。俺も結婚してないけど困ってないよ」
「そっか」
「他に方法はないの?」
「わからない。幸せになりたいだけ。結婚すると見つかるかなと思って」
「そうか」
「それから誰かと一緒にいたい。そういうものかなと思って」

◇◇◇

 辞書で調べた『幸せ』の定義。
 ②その人にとって望ましく不満がないさま

 道生は無意識に事故前の生活を追いかけている。でも喜怒哀楽が同価値の今の道生の隣に誰かいたとしても『幸せ』が発生すると思えない。少なくとも相手に不満がないとは思えない。そんな道生の結婚がうまくいくとは思えなかった。
 仮に誰かと結婚したとして、そのこと自体に道生は満足するのかもしれないが、相手はドライに割り切ったのだろうから、外から見ると道生が幸せになったようには見えないだろう。相手が喜んでも悲しんでも同じにしか見えない生活は想像するに痛々しい。そんな姿は見たくない。だから俺は道生じゃなく俺のために道生に結婚して欲しくない。
 誰かといたいならもっと単純に同居人ではだめなのかな。

「幸せってどこにあるんだろう」

 ぽつりと溢れる幸せに応える言葉を持っていなかった。
 道生を家に送り届けて最後にコーヒーを入れる。少し甘めのエチオピアの華やかな香り。この香りは俺に幸せを運ぶ。この幸せを飲み切ったら、俺はこの家を出る。

「瑤はコーヒーを飲むと幸せなんだよね?」
「そうだな」
「今幸せ?」
「まあな」
「飲み終わったら幸せではなくなるの?」

 丁度コーヒーは空になる。道生の中では俺は幸せでなくなったのか。愉快だ。幸せと不幸せの区別もついていない。

「これ以上飲むとぶくぶくになって不幸になる。……前みたいにお前と酒が飲みたい」
「そうなの?」
「わからないけど、その時幸せだった気がする」

 道生は今は酒が飲めない。事故で色々変わった。今の道生は前の道生と違う。だから俺も安穂も道生との付き合い方を少し変えた。だけど道生はもとの記憶がないから何も変わらない。それは誰かにとって幸せだったり不幸せだったりすることなのかな。

「酒を飲んだ記憶がない」
「そうだな。じゃぁ、また明日迎えに来るよ。だから生きてて」
「わかった。お休み」
「うん」

 パタリとドアを後ろ手で締めて鍵を閉めると道生は部屋の中に閉じ込められた。虫かごの扉を閉めたみたいだ。なんとなくそう思う。見上げた空には辛うじて北斗七星が輝いていたけど、そのほかの星は街の灯りでかき消されている。
 なんだか妙に感傷的な気分になる。俺もつられて色々無くしたのかな。道生と酒を飲む時間とか。

◇◇◇

 早朝、憂鬱なシーンがよく似合う雨が降っていた。今日は映画のロケ。
 台本を捲る道生を車に乗せて朝飯のパンを渡して海に向かう。これから道生は夏の海で女を刺し殺す。
 映画の冒頭シーン。浮気した妻が夫に刺し殺された後にゾンビになる映画。道生に求められているのは世界観への没入で、観客を映画の世界に引き摺り込む橋渡し。

 男は刺すつもりでナイフを用意し、刺す前に逡巡して悩んでそれでも刺して後悔して苦しんで、それでも愛していたから死を区切りにして生き返ってほしい、と願う役。
 ドラマ的にはよくあるけれども通常人には到達し難いその心境と行動について、監督はわずか十分足らずのシーンのために三時間ほどかけて道生に説明していた。

 この監督の映画は三本目だが役作りも何もない。道生は説明を詰め込めば詰め込むほど忠実に再現する。例えば生き返って欲しいなら刺さなきゃいいじゃんとか普通は疑問に思うけど、記憶がない道生は疑問に思わずそのまま非凡に再現する。冒頭でうまく映画に引き込むからこの監督の作品はヒットを飛ばしている。

 そう考えていると現場にたどり着き、海岸に立つ道生は仕込みナイフで女優を刺した。女優はくずれて砂浜に沈み、それでリテイクはなしで仕事は終わり。昼前にはまた車に乗り込んで窓をあけて海岸道路沿いを進むと強い風が舞い込み、淀んだ空気を吹き飛ばしていく。
 今日の夜は予定がある。

「ねぇ、瑶は人を刺したことある?」
「ないよ。お前もないと思うよ、多分」
「そうか。この人にとって奥さんを刺すのが幸せなのかな。結婚してるんだよね」

 なんとなく道生は気にするのかなとは思っていた。

「わからん。結婚しても刺すことはあるだろうし幸せでないこともあるだろう」
「まぁ。そうか。刺された人は幸せなのかな」
「どうだろうな」

「刺したけどよくわからない」
「わからなくてもいいんじゃないかな。俺もわからないことだらけだよ」
「わからないけど結婚したい」

 元の道生が幸せだったかはわからないけど、俺たちと過ごした二〇年分の道生の幸せと不幸せはなくなってしまった。欠けた部分を追いかけてももう、仕方がないんだなとその頃にはすでに思っていた。
 今の道生は前の道生と違う。
 けれども俺も安穂も結局のところ道生が好きで、今なんとか残っている道生を失いたくはなかった。道生はとても不安定だ。二〇年という時間は道生の人生の半分より随分多く、ともすればその喪失の方に精神が偏ってしまう。嬉しいことと悲しいことの区別がつかない道生は死んでいる状態と生きている状態のどちらがいいのか判断がつかない。だから生きてる方につなぎとめるために、道生自身に残った何かの残滓が幸せとか結婚を求めているのかなと思う。それが昨晩電話で安穂と話し合った結論だ。
 俺も安穂も道生に死んでほしくなかったし失うのは耐え難かった。

「結婚してもわからないかもよ」
「それでもいい」
「お前が幸せになるにはどうしたらいいんだろうね」

◇◇◇

 辞書で調べた『幸せ』の定義。
 ③巡り合わせ、運命
 そもそも『幸せ』に結婚の意味は含まれていない。
 その夜、俺と安穂と道香ちゃんは道生の家に集まった。

 道生はもう戻らない。それがもうじっとりと身にしみていた。いない道生を今の道生に重ねても不協和音が大きくなるだけだ。比べるほど安穂は苦しむ。
 だからもう、過去から離れて進まなくては。
 俺たちと道生が幸せになるには時を止めたままでは駄目なのだろう。
 だから二〇年一緒に過ごした道生と別れて、新しい道生と出会って巡り合うことにした。
 俺は四六時中一緒にいたから、それほど難しくはなかった。既に道生がいないことが頭で理解できていた。

「おとうたん?」
「こんにちは、道香ちゃん」

 道香は三歳だ。道生が事故にあったときは一歳半で覚えていない。道生も覚えていない。だからその巡り合いは知らない者どうしで、ぎこちなかったけれどシンプルだった。軽く握手をして、道生は道香ちゃんを膝の上に乗せた。

「安穂さん、結婚してくれますか」

 道生は安穂が来ると聞いて性懲りもなく花を用意した。小さなブルースター。求婚には花。以前道生と安穂に求婚した時にも道生は薔薇を送っていた。道生はかつての結婚と安穂の記憶を無意識に辿っているのかもしれない。

 以前の道生と安穂の関係は傍目にも幸せに見えなかったし、結局の所、事故の直前離婚した。今の道生には腹を立てることと喜ぶことの区別がつかない。良し悪しの区別がつかない。結婚直後の幸せな記憶も離婚の直前の酷いいざこざも、道生には区別がつかない。だから道生の無意識では安穂との生活が一番強い印象を残しているんだろう。
 それでもやはり安穂が好きだったのはかつての道生で、今の道生は道香の親で家族だけど見知らぬ人間だ。

「お断りします」
「今日は怒らないんですね」
「私も道香もあなたは会ったばかり。少なくともあなたの記憶では」
「そう、ですね」

 安穂が好きなのはかつての道生で今の道生は中身が違う見知らぬ存在。混同すればするほど結婚なんて受け入れがたい。だけど、安穂は違う人間としてもう一度道生に巡り合うことに同意した。だからその前に、かつての道生と別れなければ。別れて、今の道生と以前の道生が違う存在だと区別する。
 頭ではわかっても心では違う。安穂の瞳から雫が落ちた。出会うために、別れている。

「私は道生が好きだったけど、あなたじゃない。だから今あなたにプロポーズされるのは数少ないいい思い出を汚さるたみたいで本当に腹立たしい」
「そうですか」

 安穂のひどく複雑な表情と道生のぼんやりした表情が対照的で、膝の上の道香が不安そうに眺めて上げている。
 安穂は歯を食いしばる。
 道生は死んだ。
 死んでしまったんだ。
 残酷な現実をつきつける、繰り返される道生のプロポーズ。
 かつての道生はもう戻らない
 安穂はフゥッと強く生きを吐き出し、瞳に力を取り戻す。

「……はじめまして」
「安穂さん?」
「私とあなたは出会ったばかりであなたは知らない人。だから、今は結婚とか考えられない」
「そうですか」
「知らない人とは結婚できない」
「うん、そうか」
「だから、知り合いになりましょう。話にならないわ」
「わかりました」

 安穂は今の道生と改めて巡り合って、この巡り合わせが良いものなら、おそらく幸せは訪れる、のかも。

Fin
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