Phase_002_「魔法のような魔術」
文字数 9,093文字
――魔の理を犯す者、罰を与えられむべし。
『最高位魔法十七条』第二条序文より抜粋。
魔術という力は、何故秘匿され続けなければならなかったのか。
秘匿されているからこそ、その神秘性を力の根源としていることはもちろんだが、旧来の魔術師達が恐れていたのは、力が失われることではなかった。
失われたうえで、さらに自らに危機が及ぶことを恐れたのだ。
ただ、溢れだした魔術という技術は、情報化社会の波に乗って、瞬く間に世界を汚染した。
魔導書が電子書籍で読むことの出来る時代を誰が想像しただろうか。
便利だ、素晴らしい。
そんな称賛の声ばかりが先行してしまったが、決壊するにはそう時間はかからなかった。
世界各地で、悪意や私欲を満たすために魔術を使う者が増えていった。
そして適切な使い方を学ばずに己の身を滅ぼした魔術師モドキの数は計り知れない。
そのために作り出された最高位の魔術。世界のあらゆる魔術を制御するための法律。
それが魔法である。
地球という惑星の規模で張り巡らされた巨大な魔術によって、魔術は
ただ、それは大きな網でしかない。
網目から零れだす違法魔術使いを取り締まるためには、公的な組織が必要だった。
そうして出来上がったのが、魔法士という組織である。
現代魔法社会において、魔術犯罪は数知れない。魔法や
現代魔法社会の秩序は魔法士によって支えられているといても過言ではない。
そんな魔法士を育成する教育機関には、もちろん選りすぐりのエリートが集まる。
諒世はそんな魔法士学校の内の一つである。国立魔法士学校第六校を受験し、倍率数百倍のところを見事合格出来たのだ。
今日はその入学式。
皺一つない制服姿とはいかず、制服の上着が少しばかり焦げていた。なので、諒世は上着代わりにパーカーを羽織ることにした。校則上問題はないらしい。
諒世は自転車のペダルを踏んでいた。
風で諒世の頭頂部のアホ毛が揺らめく。幼い頃から、どうしてもこの箇所だけはくせっ毛なのだ。
自宅から離れて、しばらくすると大通りに出た。
「うっわ……」
思わず声が出てしまう程の渋滞。
長年この街に住んでいるが、この時間帯でこの通りが、ここまで混んでいることは滅多にない。
バスではなくて、自転車を選んで正解だったと思わずにはいられなかった。
そもそも、渋滞にならないように自動車の自動運転機能が制御しているはずなので、何か別に原因があるに違いない。
周囲に気を巡らせながら、自転車を漕いでいると、一瞬静電気のようなビリッとした感覚が身体に走った。
かと思った矢先に、まるで雷でも落ちたのかと疑う程の音が、諒世の前方の電柱で爆ぜた。
「――ッ!?」
生命の危機さえ感じる現象に諒世はたじろぐ。
その物体は、例えでもなく、確かに目に見える程の電気を帯びていた。電柱は根元近くから、深い亀裂が入り、電線を巻き込みながら近くの雑居ビルにゆっくりと倒れかかった。
辛うじて、建物の壁部分に支えられ、電線も断裂することも無かった。
が、問題はその根元で
被害者でも野次馬でも無いその少年からは、微弱な電気が生じ、断続的に放たれていた。
諒世としては、ここで道草を食っている暇は無い。ここは、見なかった事にして先を急ごう。そう決断し、ペダルを踏むが、どうにも自転車の進みが悪く、挙句には車輪部分から不穏な音が聞こえだした。
「……パンク」
容易に断定出来た。車輪とタイヤ部分に空気感が無く、アスファルトの凹凸に対する摩擦を直に受けている。
学校までの距離は遠くないが、徒歩では集合時間に間に合わない。
仕方無くとりあえずの措置として、自転車を歩道に乗り上げさせ、ガードレールに沿って立て掛ける。
何が原因かは考えるまでも無い。目前で起きている事故の二次被害。コンクリートの破片が辺りに散乱している。運悪く、この破片に乗り上げてしまったのだろう。
破片の数に呼応して、野次もその数を増やしていく。
人混みと渋滞の中、件の中心人物がその身を起こした。
「いつつ……、こりゃまたやっちまったな……」
前輪部分を中心に大きく歪曲した自転車をその翠色の瞳で見つめる少年。
彼の傍らで、渋滞によって足止めされていた数ある車の内の、見るからに高級そうな外車の扉が開く。
目を凝らすと、その車にも細かい疵が多々見られる。
これは関わらない方が良さそうだと思い、諒世は事故現場に背を向けた。
「これはどういうことかね?」
車道の渋滞から、低い声が轟く。
突如、背後から向けられた言葉が、一瞬の硬直となって諒世を襲う。
――それは、最初根拠の無い罪悪感として表れたが、自分に落ち度が無い事は彼自身が一番よくわかっている。
その硬直は罪悪感や背徳感から生じる類の恐怖では無く、人間が本能から危機を叫ぶような純粋な恐怖から来るものだった。
魔術を扱う上で、媒体として使われる内の一つに詠唱がある。
詠唱には、しばしば古い言語が用いられるが、それは、その言葉や言い回しに蓄積されたある種の言霊を導き出すことに意義がある。
しかし、今、諒世の背後から聞こえた声には、それこそ、この一瞬に言霊を形成したかのような即時性を感じさせる。
一流の魔術師の発する言葉全てには、微量ながらも言霊が帯びていると言われている。
喋る度に微量の魔力が放出されるのだ。
そこから導き出されるのは、恐怖というよりは畏怖に近いだろうか。
諒世は恐る恐る振り返る。
声の主は、ビジネススーツ姿の上からでもはっきりとわかる筋骨隆々の中年男性だった
諒世の身長より少し大きい程度なのに、威圧感のようなものがあった。
諒世を一瞥し、肩を竦めた後、その男は金髪碧眼の少年に詰め寄る。
諒世は、声を出せずに、顔を横に振るだけで精一杯だった。
「
「いや……これはちょっと、そう! ちょっとしたトラブルで――そう遅刻しそうで急いでたんだよ」
「……今日は入学式で新入生以外は休講ではないか?」
「え……マジで?」
「……まぁ、話は帰ってからじっくり聞かせてもらおうか。それよりもまず、この状況をどうにかしなければなるまい」
孝晴と呼ばれた少年と、威圧感のある男は、どこか似ており、お互い親しげだ。親子なのかもしれない。
男は、ポケットからキャッシュカードサイズの紙を取り出し地面に並べる。
簡易的ではあるが、五芒星が描かれた紙――それも五つの三角形の一つに『雷』の朱印が記されたもの。
魔術の知識に疎くとも、一度は耳にすることがある。
『神産みの五芒星』――五山系魔術の発動のトリガーとしては隅に置くことは出来ないシンボル。
かつて武士が家紋を掲げたのと同様に、五芒星は魔術師名家『五山家』の象徴である。
各々が掲げる家紋は同じ『神産みの五芒星』でも、明確な違いがある。五芒星内に生じた五つの三角形のいずれかに、それぞれの象徴である属性が記される。
男は『雷』と記された札を、円陣を組むようにして地面に配置し、中央に右手の平を当てる。
「《術式解放、『
詠唱は言霊を纏い、静かに木霊した。それに伴い円内に文字や紋様が刻まれ、それらが青白く発光を始める。
「君、その自転車では学校に間に合わないだろう? だったら、
魔法円は、対象物とそれ以外のモノを隔てる境界だ。その上で、男は、諒世を魔法円の中へと手招きする。
威圧感のある体躯や声に反して、その表情が温和なものなのが返って怖い。
「ちょっと待てよ。“空間に干渉する魔術”を得意とするって言っても、それは俺ら築山でさえ難しいってことに変わりは無いだろ!?」
男の突拍子の無い行動に、身内だろうと思われる孝晴という少年も動揺する。
今一度、状況の成り行きを疑うが、諒世はこうなった以上抗う術は無いと半ば諦める。
「少年、少々強引ではあるかもしれないが、責任を持って君を学校まで送らせてもらう」
「え……」
「後始末は息子にやらせておくから気にしなくていい。何、瞬間転移魔術だから、一瞬だ」
容姿と不釣り合いな笑顔で、男は諒世の肩を掴む。
「……転移魔術!? いや、それ危ないんじゃ……そもそも――」
「では問おうか、魔術師の真髄とは何かね?」
男の急な問いに、諒世は考えあぐねる。
「“馬鹿と天才は紙一重であり表裏一体”だ」
その言葉には、どこか計り知れない力があるように思えた。
男は、魔法円の外で、作業をし始めている孝晴の方を見て、続ける。
「私には、こんな馬鹿にだからこそ信じてみたくなる。魔術とは、何よりも使う者の心に左右されるのだからな」
野次のボルテージが満ちてきている。そう長居は出来ないと察した男は、再び渦中に視線を戻す。
「ったく……馬鹿で悪うございました。《我、
孝晴と呼ばれたその少年は、少しはにかみ、声色を変えた。
その瞬間、今まで発していた雰囲気とは異なり、スーツの男と同様の畏怖が彼から感じ取れた。
「座標指定が終わった。学校まで転移させるからそこから出るなよ」
孝晴は、近くで魔法円を覗いていた諒世の背中を押して、強引に中へと入れる。
今まで青白く光っていた魔法円は、一層にその光を強調させ、断続的に眩い光を放った。
時折、静電気が生じた時のような弱い音がバチバチと響いた。その音が途切れた瞬間、諒世の視界は、瞼で塞がれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――いつもの日常へと戻った。電圧も野次も無い。
「起きたか……」
風を割くような、まるでプロペラか何かが近くで回転しているような音で、その声が曖昧に聞こえた。
諒世の目の前にその顔が現れ、それが孝晴という少年の声だと気付いたのと同時に、重力のかかり方に違和感を抱く。
「あれ、何で……」
「悪い。どうも、座標が上手く合わなくてな。ギリで気付いて、何とか止めたんだが、……具合は……?」
彼は、それを失敗とは言わなかった。恐らく、成功はしたのだろう。まるで想定外かのような口ぶりだった。
こんな賑やかな朝は生まれて初めてだと、そう思わずにはいられない。同時に諒世は、なんて運の悪い日だと嘆息する。
「大丈夫……だと思います。……何かもう疲れた」
ここまで振り回されては、誰であろうと身が持つはずがない。それに、辺りを見渡して、確信したことが一つだけある。
この機体は飛行している。それも数枚の板を高速で回転させながら。
「はは……、むちゃくちゃだろ築山流一は。“転移魔術が使えないならヘリを使えばいい”なんて、馬鹿はどっちだって話だ」
「馬鹿とは何事だ。まだ説教が足りなかったか。あの場を収拾出来たのは、五山家築山あってのことだからな。これからは血筋に囚われずにと言った矢先に……」
奥の操縦席から、顔を覗かせたのは、黒いビジネススーツを着た男だった。しかし、先程までの喧騒に見せた厳格な趣は無い。
「あー、はいはい、さーせんしたー」
「まったく……。度重ねて君には申し訳ないことをした。この通りだ」
「い、いえいえ……」
むしろ、ここまでの対処を想像すらしていなかった諒世にとっての選択肢は、言葉を濁しての返答のみであった。
「……瞬間転移魔術が効かないという疑問は残るが……」
「え?」
「いや、こちらの話だ」
やはり、転移魔術は失敗していたようだ。諒世としては、遅刻と引き換えても、いち早く平穏な日常へと帰りたいのだが、未だ状況は変わらない。
「何あれ、自己紹介をしておこう。私は五山家築山当主、築山
五山家築山氏族の現当主といえば、その名を『雷公』と恐れられ、一代で『築山』という錆びれた家柄を改革したと言われる、一人の魔術師としては、その名を知らぬ者はいない程だ。
「何で俺が生徒だってことを……、それよりも築山流一って――」
「……謝罪ばかりで申し訳ないのだが、最低限の身元を確認させてもらった。制服も第六校のものだろうし、概ね察しはついた」
孝晴が「ほらよ」と、諒世に、キャッシュカード状のものを投げる。
諒世の顔写真や住所等がプリントされた学生証だった。
「話が逸れてしまったな。君には散々迷惑をかけてしまった。自転車の方は、こちらで預かっている。修理に出した後、こちらから返却する。もし、早急に代わりのものが必要であれば、こちらに連絡してほしい」
そう言って、取り出したのは今となっては珍しい紙媒体の二枚の名刺だった。
一枚目に手渡されたのは、電話番号とメールアドレスくらいで飾り気の無い印象を受けたが、二枚目になるとその印象も掻き消えた。
「私は、こういった店を営んでいる。何かあれば無償で利用してくれて構わない。ここからもそう遠くはないだろう」
住所や連絡先、アクセス方法等が記載されている点までは疑問も何も無かったのだが、問題はキャッチフレーズだった。
何度読み返したところで「アットホーム! 初回無料! 思い立ったら吉日! 何でも相談、魔法事務所『築-KIDUKI-』」というブラック企業なのか詐欺なのかどうとも形容し難いフレーズに思わず苦笑いしてしまう。
「少々……胡散臭いと思われるかもしれない……が、私たちはいつでも君の力となろう」
本人すら、自信が揺らいでいる所を見る限り、それなりに苦労しているのだと、同情が胸中に過った。
「こいつの秘書が変わり者でな。だが、これでも実績だけは確かだ。まぁ、多くは前任のおかげだろうけどな」
「――え?」
単純に高いというよりかは、荒削りの楽器が奏でるような濁りのあるソプラノボイスが操縦席の方から発せられた。操縦席に取り付けられているミラー越しに見えたのは、タヌキに似通った容姿の生物だった。
動物に運転免許はあるのだろうかという疑問が過り、単純な声が漏れた。
「本題に入るが、この機体は、今、魔法士学校第六校に向かっている。――」
操縦士が人語を発する謎の生命体によって担われている事には何の補足も無かった。突拍子も無く話が中断された思えば、身体が重力に反して、若干浮かび上がった。それに比例して、機体のバランスが大きく傾き、急降下を始める。
「
「あぁ、こりゃ参ったな……」
「こんな時に勿体ぶるなって、震のおやっさん!」
「少なくともメインローターがやられた。墜落は免れない」
そうこうしている間に落下速度は加速していく。諒世は、身体を支えるだけで、自力で事に対処するどころか、口を開くこともままならなかった。
「少し荒療治になるが私が何とかする!」
短い詠唱と共に、流一の姿が機内から消えた。
次の瞬間には、降下が停止していた。
反射的に閉じた瞼を持ち上げる前に、まず五体満足であることに安堵した。残った微弱な回転音を聞いて、僅かな機動能力のみでホバリングを続けられている事に疑問を抱いた。
「この高さなら普通に降りられるな」
既に体勢を戻している孝晴が扉を盛大に開いて、そこから身を投げた。
「はぁ!? え、この高さから!?」
開いた口が塞がらない。
「あんちゃんよ……よく見てみな……」
操縦席から、またも人間らしからぬ声が聞こえる。
恐る恐る扉の方へと足を運ぶと、目前には人一人分程度先に公道のアスファルトが敷かれている光景が映った。
機体はそれほど高い位置にはなかった。
あれだけ身も心も揺さぶられた挙句、締め括りが絶叫マシンもどきというのも当然のようだが、心なしかこれら一連の騒動はまだ始まったばかりだろうという、根拠の無い不安が再来する。
心臓の鼓動を子守唄に眠りたい程、心底この人たちには付いてはいけないと、諒世は投げやりな所感を抱くのだった。
地上に降り立ち、まず諒世の目を奪ったのは、両腕を天に突き出す形でヘリを支える築山流一だった。
「何、簡単な術式だ。落下によって生じたエネルギーを電力へと変換し、またそこからベクトルを反転させ、元の状態へとエネルギーを還元させる」
「要は、人間発電所ってことだな。発電も出来るし、その逆も然り」
ドンッと音を立てて、ヘリコプターの脚部が地面に置かれる。
得意げな顔をしている孝晴に対し、流一の表情には剣幕が脈打っていた。
「圧縮された魔力の潮流……、なるほど、原因は違法魔術使いか」
辺りに人の気配が無かった。元々人通りの少ない二車線の道路に過ぎないが、この時間帯の交通量とは合致しない。車一つどころか人一人として見当たらない。
今朝の平穏な空気とは違う。先程までのドタバタコメディとも異なる、異次元。諒世の見解としては、それ以上でもそれ以下でもなかった。
ただ、常人では感知する事の出来ない“臭い”に諒世以外は鼻が利いているようだった。
「大通りに出る。震は彼に付け。孝晴は私に追随しろ」
「了解」と両者一様に応え、早々に築山父子は建物の間を潜っていった。
その場に留まったのは、諒世と、一匹の謎の生物だった。
「さて、オレの仕事はあんちゃんを学校まで無事に送る事だ。遅刻したくなけりゃ、寄り道は薦めないゼ」
恐らく、魔術師の使役する使い魔――『魔術霊魔』の類だろう。
これらは、古くから伝承に存在する空想上の生物だと思われていたものがルーツである。
魔術が、俗世と切り離されていたのと同様に、魔術霊魔もまた主や独自の隠遁術によって、奇異の目から逃れていた。
今となっては、それら魔術霊魔も生活に根付きつつあるが、人語をここまで使い熟す魔術霊魔は世間一般でも例は少ない。
気になるわけでもないが、否定する程の思い入れも無ければ気力も無い。黄金色の毛並を追うと、彼の短い四本脚がぴたりと止まる。人が全くいないという点を除いては何の変哲も無い十字路だ。
「よく見てみな」
“見る”――
形而上のものを指しているのかもしれない。本質とは、目に見えないものだ。
熟考の末、諒世は目を閉じる。当然ながら、瞼の内側が視覚情報として脳で処理されるだけだ。
人はブラックアウトした視界から、休眠へと至る。そこで生じる“夢”には、無意識下の心理が抽象的に表れることがある。
例えば、座禅によって無心へと誘い、悟りへと至ることは意識的に“夢”を引き起こすことであるとも言える。
無に近づくに連れて、淘汰される情報群。そこから、たった一つの本質を絞り出す。
「あんちゃん?」
タヌキに似た魔術霊魔が怪訝そうに諒世の顔を窺う。
「……見えた」
目前で、膜のようなものが視界を遮っている。今は、その膜がほとんど透明に見える。
魔法士が緊急時に使用する魔術。人除けの効用を持つ術式の膜、その先に見えたのは人々の往来だった。一応、「通行禁止」と書かれた立て看板によって道路は封鎖されているがそれでも、一人たりとも諒世達の存在に気付いていない様子だ。
「いやいや、あんちゃんよ……。今、一分くらい目ぇ瞑ってたが、オレには何が見えたのかサッパリだゼ。もしかして、あんちゃん……、膜の外がやっと見えたのか……」
「やっと……?」
「……こりゃすごいな。あんちゃん、魔法士になるんだろう? この程度の隠遁術に、これだけの時間を使うのか。魔術師としてはポンコツだな」
「色々あって防御魔術しか使えないんだよ……」
「あぁそうか。だったら尚更、その目は大事に使いな。きっと、あんちゃんは……良い魔法士になる。あんちゃんが馬鹿である限りそれは変わらないゼ」
見えないものを見ろということが無理のある話なのかもしれないが、世の中の多くの大人達は、異能とは関係無く、その力を持っている。悪く言えば、諒世は他者よりも幼いのかもしれない。ただ、大人らしさが正しさとも限らない。
このタヌキモドキが何を言っているのかは、図り兼ねたが、悪い意味ではないのだろうと、諒世は快く受け取った。
魔術霊魔の震は、全身の毛を逆立たせ、僅かに震わせる。
「空間に施された
膜の一部分が空気に融けて、人一人分程の穴が開けた。
諒世でも解る。この術式の構造は容易く壊すことは出来ない。しかし現状として、目の前には通勤通学ラッシュの何気ない景色が映っている。いつもと変わらないはずの景色が少しだけ淀んで見えた。
膜の外へ出ると、震は足早に姿を消した。
諒世は膜に背を向けて、ゆっくりと歩きだす。
学校は、走れば間に合うくらいの近さではあったが、すぐに行動へと移せなかった。
「……――けて」
「――ッ?!」
疲労感の中、突如として声が聞こえた。
渋滞で、尚且つ通勤通学で行き交う人々が幾重にも音を重ねるが、それでもはっきりと聞こえる女の子の声。
諒世は、確かに「助けて」と聞いた。
声は、「ラーメン万次郎」という看板の飲食店の脇から伸びる路地裏からだ。
「行かないと……」
声の正体は分からない。「助けて」という声の方向には、既に魔法士が駆けつけているかもしれない。
でも、それでも、諒世は、そこへ向かわねばならないと思った。
根拠はない。
強いて言うなら、運命的なものだ。
決して抗えない強い力に引っ張られるかのように、諒世の足は、再び魔法の膜の中へと駆けていった。