Phase_011_「再起の剣(たて)」
文字数 7,537文字
諒世達は、オフィスビルの区画を抜け、本来秀策と合流する予定だった塔の屋上に着いた。
一面深い霧に包まれており、眼下には白い景色が広がるだけであった。風も強く肌寒さもあるからか、上着を失った景火がくしゃみをした。
螺旋状の階段は、フロア中央に空いた大きな穴の残骸で塞がれていた。
所々に瓦礫があり諒世達の進行を阻むが、楫次が魔術武装を一度振るうとそれらは粉々になる。自分のことを過少評価しがちの楫次だが、こうして役に立っている局面が多いことは事実だ。
対して諒世はどうだろうか。唯一の力である防御魔術を失ってしまえば、何も出来やしない。
屋上のフロアからは、新たに六つに枝分かれした塔へと続く橋が架かっていた。
その塔の中で行われたのは、幸か不幸か問題形式の試験であった。
五山系魔術の司る神と属性を答える基礎の問題から、高度な降霊の詠唱内容を答える問題まで。
五人の得意分野を活かしつつ連続で正解していき、その度に床が揺れ、頂上へと進む。
『――問一。単独で下級コボルトウォーリアー二体に敵対した際の攻略法を示せ』
何度目かのアナウンス。しかし、その内容は今までとは異なっていた。具体性を帯びていない。
窓一つない円形のフロアの外壁には、青白い照明が配置されている。フロア中央に、それら照明と似た青白く光る二つの魔法円が浮かび上がる。
黒い煙が生じ、それが形を為す。狼のような容姿だが、後ろ脚のみで立っており、前脚の指は物が掴めるように関節が多い。
脚というよりもコボルトに限っては腕だろう。右手に反りの大きい刀を持ち、左手には簡素な造りの盾を持っている。
コボルトウォーリアーは下位でも、強化術式を施した
「《我、
コボルト喚起までの時間に何もしない端山来晴ではなかった。
ここに来て初めて、来晴は、自身を象徴するであろう
本来、五山系魔術を行使する場合、遜りが無ければならない。しかし、五山家の血統にある者であれば、自身を神と仮定し、その力を行使できる。掌をコボルトの方に向け、前置きの詠唱、続いて本題の詠唱に入ろうとする来晴の表情に変化があった。
「……やっぱりね。《
彼女の詠唱が終わると、急に吐く息が白い程に寒くなる。下級コボルトは喚起を終え、その姿を現していたが、身動きが出来ないでいた。
「《傷つける鍬よ、剣の如く咲き乱れよ》」
そこに、かえでの魔術。コボルトの身体の至る所に裂傷が生じる。眼を凝らすとそのすべてが急所に位置する部位だった。
延髄近くの後頭部首筋、眼を中心とした顔、心臓近くの胸、性器を中心とした股間部。的確に無慈悲に行われた殺戮に、諒世は吐き気を催す。
ただでさえ諒世のメンタルは弱りかけている。それに加え、普段とは異なる女子の身体である。中身が景火自身ならまだしも、これではただの非力な少女でしかない状況であった。
「ちょっと諒世……大丈夫……!?」
普段はつっけんどんな景火も自分の身体を労わってなのか、それとも幼馴染として見過ごすことが出来ないのか、諒世に寄ってきて背中を擦った。
それでも嘔吐感は止まらない。彼女の好意が余計に諒世を苦しめる。そんな好意を寄せられたら、別れが辛くなってしまう。
きっと秀策にも、想いを寄せ過ぎてしまっていたのだ。これは呪いのようなものだ。諒世が想えば想う程に、相手は離れていってしまう。ちょうど近くにいる佐藤かえでという少女もまたそうだ。
二体のコボルトが今まで倒してきた試験者のように幻覚が見えてしまう程だ。白馬鑓導影という人物が目前で倒れた記憶がフラッシュバックされる。悔しい、辛い、悲しい。様々な悲痛の叫びが、ノイズとなって諒世の脳に届く。
どんな権利を持って、人の夢を妨害することが出来るのだろうか。美術館とオフィスビルのフロアで遭遇した金髪赤眼の少年は
「もう無理だ……誰かを傷つけるなんて……俺には無理だ」
胃からは何も出ず、本音と弱音が出る。それを誰かに訴えたところで救ってくれるヒーローなどここにはいないのにも関わらずだ。
「……そういえば来晴ちゃん、この氷結魔術って……。端山の名を継いだはずなのに、
楫次は、この寒さで身体を僅かに震わせながら言った。
その震えの中に、彼もまた負の感情を抱えているのかもしれない。
楫次もまた、秀策を助けられなかったことを悔いているはずだ。
チーム全体の空気が、悪い感情へと向かい、凍りつき始めていた。
「扇谷諒世」
フルネームで名前を呼ばれ、顔を上げる。その声は冷たく淡々と発せられたものだった。
過呼吸で白い息を振りまいている諒世に対し、来晴の固い表情からは、最低限の吐息しかなかった。
眉間に向けられた氷柱の剣。来晴の魔術で作られたものだろう。
その姿を見たかえでが目にも止まらぬ速さで、来晴の首筋にナイフを突き立てる。
「……殺させない」
「止める必要ないんやない? かえでちゃんはこれの何?」
来晴は、さらに氷柱の矛先を近づける。
来晴は、いつ裏切るか分からないと言った。しかし、これは裏切りというよりも、諒世に一人に向けられた拒絶だ。
五山家で元々力を持っている彼女には理解が及ばないのだろう。
人は自分を支える力を全て失えば、こうも簡単に弱くなってしまう。今の諒世がそうだ。
かえでは言い返すことが出来ず、俯いた。
「答えられない。結局そう、ウチが正しいってこと。これは自分の理念すら貫けず、逃げるだけの……、いやそもそも人間として壊れてる」
感情の変化に乏しいかえでだが、この時ばかりは少しだけ目を吊り上げた。楫次が何かを言いかけるが、来晴に妨げられる。
「楫次くん。今だから答えてあげる。ウチは
来晴は左手に小さな火を灯し、それを握りつぶして、再び右手に持っている氷柱の剣を諒世に強く突きつける。
「それでも、わたしは……」
あれほど、他者を拒絶していたはずのかえでが、ここにきて擁護しようとする。途中で口を噤み、曖昧な言葉を選んだ結果、来晴の攻勢は翻らない。
「自分の意志すら守れない、こんなん魔法士になれるわけないやろ!」
「そうだよ。俺は……端山の言う通り。魔法士を目指す資格なんてない……」
擁護のしようがないということだろう。秀策との約束も果たせず、今では魔術一つ使えない有様だ。誰かを救った気になって、結局導影との戦闘では汚れ仕事をかえで一人に押し付ける。
何て都合の良い自己満足、現実逃避、拒絶逃避だろうか。
そんな自分が嫌いで、もう誰とも関わりを持ちたくないとまで諒世は思う。
今になって、兄が自殺を図ろうとした理由が分かるようなきがしてきた。
「諦めないで!!」
「さすがにそれは傲慢過ぎる。こんな使い物にならないもの引きずっても意味が無いよ……」
来晴には到底理解できない。この場にいる誰もが、かえでの矜持を理解できなかった。
彼女の拒絶に手を伸ばした結果が、返って執着に変わってしまった。諦めるも何も、諦める術すら見失ってしまっているのである。
諒世は、ならいっそ諦めさせてほしいとまで感じる。自力で進むことを諦めた人間の面倒まで看ようというのは、それこそ来晴の言う通り傲慢そのものである。彼女のその自信は一体どこから来るのか。ここまで来て、かえでが掌を返す理由が諒世には分からない。
「あなたが差し伸べた手は何? あなたが大切に思ったものは何?」
「かえでちゃん……何でそこまで……」
仲間なんていないと彼女は言った。仲間ではないのに、何故ここまで彼女は意地を張るのだろうか。そんな疑問が浮かぶ。
「だって、私は諒世のことが――」
『――問二。神霊魔術霊魔クラスと敵対した際の攻略法を示せ』
かえでの声を遮るアナウンス。
今度はコボルトの時とは比較にならない程の術式がフロアに展開される。立ち込めていた冷気が、喚起の風圧で吹き抜ける。
堅牢な四肢に巨大な胴体、首は二つに分かれている。プラナリアハイエナとは異なる禍々しさを秘めた狂犬。その黒い体毛の一本一本が生き物のように騒めいており、この世のものとは呼べない恐怖の具現が目前に現れた。
「なっ……これは神霊オルトロス……っ」
来晴が驚くのも可笑しい話ではない。神話に登場する冥府の番犬オルトロスは、最上位の魔術である神霊魔術に分類される魔術霊魔だ
神霊魔術は五山家も使うことが出来るが、それは神の片鱗でしかない。
魔法すらも凌駕する神霊クラスになると、現実ではあってはならにものとして扱われる。しかし、それを実現できるのもまたアタラクシア・フィールドという仮想現実だからだろう。
問題は攻略法を示すこと。しかし考えている内にも、オルトロスはたったの一歩で、諒世達の目前まで迫った。
「《
今度こそ終わりだ。やっと逃げられた。そう思ったが、諒世の逃避を阻むのはやはり佐藤かえでの凛とした声だった。いつか聞いた「助けて」という声とは程遠い一途な声だ。
フロアの至る所に術式が展開され、そこから無数の鎖が伸びる。鎖は見る見るうちにオルトロスを縛り上げる。
唸り声を上げるオルトロスと、それを魔術で拘束するかえで。しかし、それでも暴れ回り、鎖がめり込もうが自身の肉を引き裂く勢いのオルトロス。
「《魔石開放》! 《全魔力出力》!!」
この好機を逃すわけにはいかないと、来晴は腕に着けている数珠状のブレスレットを一つ右手の中指に引っ掛け、掌をオルトロスに向け叫んだ。
火や炎、爆発、そんな表現ではなく、光線だった。それも今まで見たものとは比べ物にならない規模である。
彼女の掌から出たエネルギー体は数を数える前にオルトロスの頭部含め半分以上を消し飛ばした。後ろ足を始めとした残りの部位はけたたましく燃え、その場で炭と化していく。貫通した光線が直撃した外壁には何の変化もなく、何らかしらの特殊な加工がされているものだと思われた。
「何それ……」
「
神霊を
来晴から開放された諒世はとうとう両手を地に着ける。明確な力量差を見せつけられ、今度こそ自分には魔法士としての資格が無いと悟る。
『全問正解。ステージクリア――』
再びアナウンスが流れると、今までの密閉された空間に光が差し込む。天井が開け、床が上昇する。
来晴は差し込んだ光を遮るようにして眉間に手を
次第に揺れが収まり、塔の頂上に着く。相当高さがあるからか、若干酸素が薄い。辺りには霧も雲もなく青と藍のグラデーションが広がっているのみ。六つの塔の頂上はさらに、空中に聳え立つ一つの区画へと続いているようだった。視認し得る限りでは、中央に大きな円形の神殿のような建物があり、それを取り囲むように西洋風の建物が統一的に並んでいる。
「ウチは、自分の正しさを貫けない人間が一番嫌いやよって」
既に来晴の眼中に諒世の姿は無い。彼女の中ではもう結論が出ているようだった。その足は、空中に浮く小さな街に向かっていた。
『最終問題――敵一チームと対峙し、殲滅せよ』
全ての問題が終わったと思い込んでいたが、アナウンスはまだ続いていた。
急に、諒世と景火の足元が光り始める。この雰囲気を諒世は経験していた。
瞬間転移魔術。今朝登校する際に、築山親子が使った魔術である。これほどの魔術を何の前触れも無く行える者は受験者にはいない。もしいるのなら、それこそ考えが及んだ時点で敗北が決定している。どちらにせよ諒世には抗う余力が無かった。
「え、何これ……ちょっと」
矢継ぎ早に高位の魔術を見せつけられ、困惑する景火。
楫次が手を伸ばそうとするが、術式の方が一足早かった。
全身を光が包み込み、やがて景色が真っ白になる。
僅かに唇に残る何処か甘くて優しい感触。それで思い出すことがあった。
「拒絶から逃げないで」というかえでの言葉が聞こえる。あの夢の続きだ。
夢を見た。それは悪夢だった。永遠に繰り返される命題。答えが出ずに、何も決心出来ないまま保留を繰り返して、また同じ夢を見る。
夢は現実を写すと言われている。髪が抜けたり、歯が抜けたり、そんな内容の夢だと、自身の中で何かが変わろうとしている兆しという。
諒世の見る夢は必ず誰かが死ぬ。避けられない死である。それが誰かまでは分からないが、何度も性懲りも無く死んでしまう。目を背けたくなるほどに無残だ。
今朝見た夢も悪夢――今の状況も悪夢であって欲しいと願うばかりだった。
眼を開くと、そこは目的地である西洋風の街の中だった。石畳の地面に、水路。全体的に斜面が多いが、この辺り一帯の高低差は落ち着いていた。
目前には橋が架かっており、さらに顔を上げるとそこに見知らぬ少年が立っていた。
魔術変異は、水色の髪となって表象されている。その立ち姿には、落ち着きがある。
しっかりと腰を据えている魔術師という印象だ。
制服を着用しているため、同じ受験者だろうと結論付けられるが、これまでの受験者とその面持が異なる。既に開始から丸一日、ほとんどの受験者が脱落している中でここまで来ているということは、彼もまた苦難を乗り越えこの場に立っていることになる。
「敵対者発見、状況を開始する」
どこからともなく太刀を抜いて、真っすぐに向かってくる。景火と同じ携帯魔術だ。
呪いのような言葉が脳内を搔き回す。
金属と金属が接触して、鈍い音が響く。
諒世は立ち上がっていた。正確には、景火のアバターが戦うことを諦めていなかった。
身体強化の魔術の効果が続いていたように、身体に景火の意志が残留していたのかもしれない。
考えとは裏腹に、無意識で動く身体に思考がようやく追いつく。
「誰だお前……誰なんだよ」
諒世は誰かに問う。この原動力をもたらす者は誰なのか、悪夢の中で囁く者は誰なのか。
「良い剣だ。名乗っておこう。
一旦距離を取り、仕切り直しと言わんばかりに水色の髪の少年は名乗った。彼が称賛しているのは、景火が身体に積み上げてきた経験と技術だ。それを無下にする解を問うているのではない。
「俺は……」
自分が誰なのかも答えられない。諒世の自意識は奈落に堕ちていた。
「だが、この
彼がそう言い放つと、石畳の路面から沸き立つように白く濁った液体が現れる。粘性があり、妙な重みのあるその液体の中では、上手く足が動かない。
「恭弥!! 準備オーケー!! こっちはもう片付くわー!」
液体が
「諦めるな、諒世!!」
同じ方向から自分の声が聞こえた。扇谷諒世本来の声である。ということは、その声の主、羽生景火が近くにいる。そして、もう一人の少年の口ぶりからして、彼女もまた敵と対峙していることだろう。
そう、体ではない。諦め切れていないのは、羽生景火としてではない。他の誰でもない自分自身、扇谷諒世そのものによる意志だったのだ。
夢の内容を思い出した。何度も繰り返す悪夢で、結果が死という絶望であろうとも、最後まで足掻く。もし運命が決定付けられているのなら、何も試さないより試す方が良い。未だ、試せていないことばかりだ。結局、自分に甘えていただけだった。諦める方が難しい。自殺すら出来ない程甘かったのだ。それは死を甘んじて受け入れるという事だ。それなら、最後まで足掻いて辛うじて受け入れる方が諦めが着く。
拒絶から逃げてはならない。そう言われて、逃げてはならないという気持ちばかりが先立っていた。今答えを出すべきことではなかったのだ。
諒世は改めて自身に問いかける。そして一つの解を掴み取る。
「俺は扇谷諒世だ! 逃げはするかもしれない……。でも、隠れはしない」
今まで重く伸し掛かっていた枷が外れる。羽生景火という外見で、扇谷諒世を名乗る。逃げるのに、隠れはしない。矛盾ばかりの答えだったが、今はそんな不確かなものでも、確かに彼の四肢を支えた。
景火の身体にある何らかしらの加護か、あるいは魔術変異か、どちらにせよ急に身体が軽くなる。彼女の異常なまでの視力もそうだが、この軽さも異常だった。粘性のある液体で身動きが困難だったが、それすらも押し退け、今では水上に立つほどの状態になっていた。
「ダイラタントスライムの拘束を解いたか、なるほど」
水上歩行しているのは諒世だけではなかった。恭弥もまた水面の上に立っている。
下級魔術霊魔であるスライムに新たな性質を加える魔術。戦闘において地形的有利は勝因の一つとなる。彼の脚が常に振動しているのは、この特殊な液体の性質を利用して水上歩行を可能とするものだろう。
「来い! その
恭弥は太刀を構えて言った。その顔には一遍の曇りも無い。
諒世は対峙する者が富士沢恭弥という人間であって良かったと思った。これだけ真っ直ぐな人間ならば、歪な自分が敗北しても言い訳は出来ない。諦める理由が出来る。そして何よりそんな歪な自分の気持ちを試すには好敵手だった。
ようやく同じ土俵に立った。諦めることを諦めることが出来た。ここからはただ前へと進むのみ。
剣を構える。身体が軽い。邪念は消えた。
「行くぞ! 俺の