Epirogue_001「この時から始まる物語」
文字数 4,507文字
夢を見ていた。
内容はよく覚えていない。ただ、心地良い夢だった。
静かな平日の朝だ。今日は暖かい。新しい春の日がやってきた。
結論から述べると、入学式の試験は、最終選考試験ではなく
複雑な気持ちもあったが、この日の目覚めは不思議と悪いものではなかった。
カーテンを開け、日差しを取り込む。歯を磨き、顔を洗い、朝ご飯や身支度を終え、初めての授業日に向けて玄関に向かう。
途中、諒世は扉の閉まった部屋の前で足を止めた。今朝も母親からの連絡で、灯世の様子を確認して欲しいという依頼があったのだ。
ノックを数回する。何と言葉を掛けて良いか分からず、しばらく沈黙するが、諒世は自分なりの一歩を踏み出した。
「行ってきます、
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
自転車は先日の不幸によってお亡くなりになったので、早めに家を出る。
自宅アパートに隣接する公園を脇目も振らずに通り過ぎると、その方向から聞き慣れた声が響いた。
「《オン・マリシ・エイ・ソワカ》」
「え、ちょ待て。《
爆炎が公園の中心から放たれる。諒世は両手に展開した防御魔術で防ぎ切り、難を逃れる。
「殺す気か! 景火!」
かつての諒世では
しかし、今の諒世は何かが変わっていた。その何かについても諒世は薄っすらとしか認識していない。それでも、この力は自分のものらしく矜持を抱かなければならないとも彼は思った。
ピンク色の髪、赤い瞳の彼女は敵でも何でもなく“ただの幼馴染”である。諒世は何故急に攻撃してきたのかを問いただす。
「だって、諒世かなり
どういう理屈だと突っ込みたくなるような返答。だが、諒世としても自分の実力を試せた良い機会だった。
それでも人に害を及ぼす魔術を躊躇い無く使うことには感心出来ないので、彼なりの仕返しを言葉にする。
「こんなことしてないで、さっさと行くぞ。どうせ、道に迷ったとかだろ……」
「べ、別にそんなことないし! そっちが学校までの道覚えてないかもしれなから、迎えに来てやったのに」
方向音痴であることには変わりはないが、この場所まで来たことだけは否定しようのない事実である。
ある程度の譲歩が無ければ、彼女を無事学校まで届ける前に喧嘩別れしてしまいそうなので、ここは身を引く諒世。
「ここ地元なんだけどなぁ……まぁいいやごめんごめん」
景火を宥めて、二人は公園を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
この日も交通量が多かった。繁華街から離れた場所でもそれは変わらなかった。平日で、この時間帯であるのにも関わらず、通学路は数えきれない程の車が渋滞を作っていた。
「もしかして、また違法魔術使いでも暴れてるのか……」
不穏な空気を感じ取って諒世が言った。
横断歩道にまで侵入してしまった車の隙間を掻い潜り、青信号を渡る諒世と景火。
横断歩道を渡り終えようとした二人のすぐ目の前を擦れ擦れで横切る物体。微量だが、静電気のようなビリッとした感覚が身体に伝わった。
「ッ――!?」
身構えた諒世だったが、すぐ近くの電柱に衝突して、動きを止めたその人物には見覚えがあった。
「あ……」
「――よっ、今日は彼女連れてるのか」
築山孝晴。築山家次期当主であり、馬鹿である。諒世が抱く印象はこの程度の曖昧なものだった。
「おい! 何か今変な説明いれただろ!」
「え……何この人……諒世、この人馬鹿?」
景火は正直者だが、建前という言葉を知らない。初対面の人物にも言われてしまえば孝晴としてもショックだったのか、その場落ち込み始める。
そんな孝晴に気付いたのか、一昨日の入学式の朝と同様に、渋滞の中の一つ、黒塗りの外車から築山流一が現れた。
「またか、孝晴」
孝晴に向けられる高圧的な言霊。
「少年。先日の自転車の修理が終わったので、この場を借りて改めて謝罪する」
「あ、いえいえ……」
流一は軽く頭を下げると、何もないところに手刀を入れ、空間を引き裂くようにして、携帯魔術を起動した。造作も無く行われる高等な魔術に驚きを隠せないが、そこまでして取り出したのが自転車だったのが妙に笑えた。
「この間は見逃したが、今回は一緒に来てもらおうか?」
「あ、助けっ――ああああああ死にたくねぇえええええ」
先日壊れた諒世の自転車を歩道に置き、流一は孝晴の制服の襟首を掴み車に戻った。
断末魔が車の中から聞こえるが、諒世は聞こえなかったことにした。
「――しかし、すごい発電魔術だな……」
「お、秀策」
騒動が収まった後、近くに自転車に乗った短髪の少年が立っていた。壱岐秀策、試験で途中まで行動を共にしていた人物だ。
彼もまた発電魔術の使い手だからか、同属性の魔術を察知して見物していたのだろう。電柱に入ったひびを見て興味を示していた。
「試験、最後まで残ったそうだな」
途中でバラバラになり、最終的には良い結果にならなかったものの、秀策は遠回しに諒世達を祝していた。
諒世は、どう返したら良いのかと複雑な気持ちになるが、素直に受け止めることにした。
「まぁ、な。いや何というかまぁ――学校でもよろしく!」
「言わずとも分かっている。先行ってるぞ」
相変わらずの態度に苦笑いしながら諒世は見送った。
「あ、ヤバいこんなことしてる間に時間が……」
「え? うわっ。ちょっと諒世のせいだからね!」
「何でだよ!」
時間は思いの外すぐに過ぎていく。騒動が終わってから、人々の絶え間ない往来が戻る。それでようやく時間を気にし始めたかと思うと、また一触即発の空気になったので、諒世は掌を返す。
「うーん……しゃあないなぁ。これ使ってけよ」
「自転車久しぶりなんだけど……ってうわ! 何これたーのしー!」
先程流一から返却された自転車を景火に差し出す。
景火は何の躊躇いも無く諒世の自転車に跨った。そのまま何かしら文句を連ねるかと思えば、ご満悦の様子で自転車ごと駆け抜けていった。無垢というか、子供のようにはしゃいでいた。
「あ、そういえばあいつ方向音痴じゃん……まぁ、いっか」
諒世はその場を後にして、いつも通りの街並みを早歩きで進む。
近道をしようと路地裏を通るルートを選ぶ。
路地裏に入ろうとした時、何処かで見たような白い髪の少女が立っていた。同じ学校の制服ということは、何処かですれ違っているのかもしれないとも考えたが、そうとは言い切れない既視感があった。
彼女とは何処か隔ち得ぬ深い関係にある。
「おはよう」
諒世は無難な挨拶を選んで、彼女に声を掛けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
佐藤かえでは、諒世と出会った路地裏で佇んでいた。
この場所から色々なことが始まった。
そして、今もまた、後ろから聞きなれた声が聞こえて、かえでは振り返り応えた。
「おはよう、諒世」
かえでは、諒世が試験の記憶を部分的に失っている事を、教師同士の会話から知っていた。どこまで覚えていて、どこまで忘れているのかと不安な気持ちがあった。
「あれ? どこかで会ってたっけ」
扇谷諒世は何度もかえでの事を忘れる。試験の不具合であると知っていて、慣れていることだとしても、この時はどうしても苦しかった。
「ナンパか、可愛いもんな」
「口説いてるの?」
「そうかもなぁ」
笑いながら応える諒世に、かえでは無表情を崩さない。
「じゃあ――私とお付き合いしてください」
全てが終わったら答えを出すという約束だ。試験は終わった。一つの運命を変える事が出来た。だったら褒美くらいあっても良いのではないだろうかとかえでは思った。
しかし、諒世の答えは決まっている。
「ごめん、“まだ”わからない」
「そういう人だった」
佐藤かえでが告白して、一度たりとも諒世が答えを出したことは無かった。何度同じ時を繰り返そうと彼の答えは変わらない。扇谷諒世はそういう人間なのだ。
一つの運命を変えたところで、最後の結末が変わるわけでもない。結局、“全て”が終わらなければ、彼の口から答えは聞き出せない。
「優柔不断って意味か……辛辣だなぁ。えーと、君……名前」
「あ……」
「ストップ! ……思い出すから、ちょっと待って入学式かどっかで会った気がするんだよ。甘そうな名前だったんだよなぁ。えっと、砂糖? メープル? サトウカエデ……いや違うな……」
頭を抱えながら、必死で思い出そうとする諒世。思い出せるはずがない。そう思ったかえでは、とうとう自分の名前を名乗った。
「――
同時だった。高い声と低い声が重なった。
何もかも忘れてしまう事が決定付けられた運命なのにも関わらず、諒世は覚えていた。
かえでにとって、そんなほんの少し甘いだけの現実でも、奇跡のようなものに感じられた。
時を繋ぎ止める鎖を作るには、感情も贄となっていた。アタラクシア・フィールドでは流せた涙でも、魔法の下では流せないはずだ。それがこの世に、この時に縛られた少女にかかった呪い。しかし、一筋だけ涙が流れた。
「え?! ごめん泣かせるようなこと言ったかな……」
心配そうに声を掛ける諒世。まだ気遣いが拭えないような関係だ。何しろ彼にとっては今日立っている場所こそがスタートラインなのだから。
「いや違うの……ただ嬉しくて。それより遅刻しちゃう」
かえでは、いつかこの嬉し涙を笑って流せる日が来れば良いと願った。
「あーそうだな。スクールライフ初っ端で遅刻なんて勘弁だ」
諒世は微かに笑って、そう言った。
拒絶も好意も示さない。いつだってそんな届かない人物。
でも、それでも――その“まだ”をいつか掴みたい。
運命は変えられる。
夢の時間は終わりだ。その先に願うのは夢のような時間。
矛盾している。それでも少女はもう一度歩み始める――。