Phase_013_「かえでの告白」
文字数 6,948文字
カポーンという音が辺りに響き渡る。
「一つ質問いいかな……」
大浴場。西洋風の街並みを一望出来る露天風呂は何処かミスマッチで、今回の試験のフィールド設定を担当した責任者の感性を疑う。
楫次が落とした桶を拾い、質問した。
それに応じたのは来晴だった。
「さっきので服濡れちゃったし、このままじゃ戦い難いでしょ?」
彼女の言う通り、その判断は正しい。ただ湯船に浸かる必要まではないのではという率直な疑問がある。
「何事も効率的に。どうせ扉の謎も解けないし、ついでにここで一旦休んでおいても損は無いでしょ?」
端山来晴はこうなると止まらない。それも承知の上で、半裸姿になっている。
親切設計なのか、しっかりと脱衣所まで完備されていた。その代わりなのか、心折設計もある。
「混浴なんだよなぁ……」
諒世はアバターこそ景火なので、男湯と女湯に分かれていたら一体どちらに入れば良いのかとまで考えていたが、その悩みは徒労だった。
ここまでねじ曲がった方向性であると、着眼する点も来晴の流れに沿ったものとなってしまう。
天空に
そして、扉の中央にある窪みの傍に刻まれた「杯を満たせ」という謎かけに誰一人として解を導き出すことは出来なかった。
かえでは先の戦闘で意識を失って以降目を覚まさない。魔術汚染による一時的な身体機能のシャットダウンだろうが、それ程になるまでの無茶を強いてしまったことに後ろめたさが無いわけでもなかった。もし、彼女がその場にいたのなら、ぬりかべの時やプラナリアハイエナの時のように先導してくれるかもしれない。そう思ったが、それこそ今まで彼女に強いてきた無茶なのではないだろうか。
何よりも彼女の容体を第一にすべきだということは全会一致だろう。
「ほなって、この温泉、清血の効能があるみたいやし! というか温泉いいじゃん!」
一名を除く。尽くマイペースな人間だと溜息を吐く。
ここに来るまで、来晴の説教に何かしらの形で答えようと機を窺っていた。諒世のそんな不断を気にも留めぬ勢いで、来晴は湯船へと走る。
「諒世、この子はどうすんのよ?」
大きな図体から見下ろすようにして景火が訊いた。その背中には、白髪の少女が無防備に瞳を閉ざしている。
アタラクシア・フィールドにも魔術汚染は存在する。魔術を行使し続ければ、何かしらの形でデメリットが生じなければ、試験として成立しないからだろう。
「ありがとう……じゃあ後は俺に任せてくれ」
外傷こそあるものの魔術汚染や残りの魔力などを鑑みて、最も余力があったのが景火だった。合理的に考えれば、かえでを背負う役目は適任であったが、指示するよりも先に景火が名乗り上げたのは驚きだった。周りの事など見ていないようで、彼女にとってもまた佐藤かえでという少女に何か気になることがあるようだった。
それに何より、彼女の声が無ければ立ち直ることが出来なかった。景火の言葉は確かに諒世の背中を押してくれた。その事実は変わらない。彼女とまともに話していると礼を言いそびれてしまうから、多少素っ気無く会話に潜ませるのが有効なのである。
「てかお前はまた何しでかすかわからんから、ここで楫次に見張られてろ!」
「はぁ?」
普段本心を露わにすることが少ない諒世にとっては、経験の浅い事だった。昔からの知り合いだからこそ言えることだが、同時にその分の恥ずかしさはある。お茶を濁す形で言葉を連ねる。そうすると、いつも通りの彼女の反応が返ってくる。計画通りである。
「まぁ落ち着いて。羽生さん、扉の手掛かり見つけるの手伝ってくれない? 僕の予想だけど、きっとここに解がある」
ここで楫次による制止の手が入る。彼は所々気が利く場面がある。扉の溶接だったり、細かい作業だが、周りをよく見ていないと即時判断出来ないことだ。
「あ、補足だけども。――お客さん……ごゆっくり女同士のアレを堪能していってください」
ただ、余計な憶測も含んでいる点は難点である。物事を知り過ぎれば、その情報を盛ろうとするのが人間だ。的外れではあるが――。
楫次はああだこうだと反論を並び立てる景火を抑えつつ、親指を立てながら小さくそう言った。
「ちゃうわボケ!」
諒世のアバターである景火から降ろされたかえでを支えながら湯船へと向かう。
かえでと二人きりで話しておかなければならないこともあるため、他の三人より離れた位置にある岩場の陰で浅い場所を選んだ。
ここに至るまで異性の身体で如何わしいことをしていない諒世だが、楫次の憶測はあながち間違いではないのかもしれない。
これまでは、誰かしらの目があったものの、今は意識の無いかえでと二人きりである。加えて身体を覆うのはバスタオル一枚のみ。
腰程の水位までお湯に浸かり、かえでの身体を支えながら、彼女も入浴させる。そのためにはどうしても身体と身体が密着してしまう。
自身が好意だとか拒絶とかの段階で立ち止まっている人間で性欲などといった邪な気持ちがあるとは思えない。
しかし、この瞬間ばかりは何かが外れていた。
こればかりはアバターに依存していると言い訳してしまおうと、都合の良い解釈をする諒世。
いつもの自分とは違ってきていることすら気づくことなく、彼はかえでの身体を引き寄せ、布越しに乳房同士を擦り合わせる。
性的な刺激としては導入に近かったが、理性を失うには十分だった。
アタラクシア・フィールドでは痛みはないものの、こういった人の快楽にとって良きものばかりが残されている。それが都合の良い理想郷なのだろう。
それに甘んじて身を沈めようとした時だった。
抱き寄せているかえでの身体がピクリと動く。
「ん……ぁ」
彼女の声を聞いて目が覚める。意識ある相手を目前にすると、どうしても『拒絶逃避』が邪魔をする。もし一線を越えようとしたら、必ず拒絶されるか、あるいは受け入れられてしまう。
欲望よりも
しかし、それをかえで自身が許さなかった。
ふらふらとした動きで諒世は止められず、ただ身体だけは離そうとしなかった。そのままかえでも一緒に立ち上がると、諒世彼女の身体に変化がある事に気付く。
黒くて艶のあるひも状の何かが彼女の腰から生えている。例えるならば、悪魔の尻尾。浴場に入るまではなかったものだ。
「それって……」
諒世が、その異形から視線を彼女の顔に戻すと同時に、彼女の全体重が倒れ掛かってきた。
「もう、いなくならないで……」
小さく、儚く、彼女らしくない明らかに弱い声。
湯気と水飛沫が立ち込める中、その虚ろな瞳からはうっすらと涙が流れていた――。
「――私は……何度も同じ時を繰り返してる」
「それって、どういう……」
かえでの急な告白でたじろぐ諒世。言葉の意味が理解できなかったが、ふと先の戦闘で見た時間停止の魔術を思い出した。
「時間を操る能力?」
「諒世……こんなことを言うのも信じられないかもしれないけど、私はずっとあなたのために生きてきた」
「俺の……ため?」
時間を操る能力がどうこうよりも、人生をかけてまで自分のために尽くすということそのものが諒世には理解出来なかった。
「諒世は
かえでは具体的な数値を並べる。
残り一年を切っている。ただし、すぐというわけでもないので、そう言われても今一実感がない。
「ごめん……ごめん……私じゃ救えなくて……もう」
ひたすらに謝る彼女の姿。掌で顔を覆っても、その隙間から止めど無く溢れる。
「そっか……そうだったんだ」
彼女の言っていることには何の根拠も無い。しかし、彼女がここまでして意地を張り続けるのも、そうでなければ納得が出来ない。
繰り返し見る悪夢の意味も説明できる。
「ようやくわかった。あれは悪夢じゃなかったんだって。そっか、やっぱりあの声はかえでだったんだな。ありがとう……」
佐藤かえでの言っていることが真実かそうでないかを見極める材料はいくつかある。今まで偏った拒絶や好意を見せてきた彼女が、疑いようもない涙を流している。俄かには信じ難いが、全く信じないという判断は諒世の選択肢には存在しなかった。
「信じるよ。ただ、何でここまでして俺を……」
なぜなら、挫折を味わって、再起を経ても、彼の中にある拒絶逃避の核心は揺るぎないからだ。その逃避は決して負の感情によるものではない。
そして、彼女を信じるということは、彼女をそこまでして突き動かす理由そのものを認めるということである。
それが拒絶にしろ、好意にしろ、諒世はそれと正面から向かわなければならない。
「もう分かってるでしょ……?」
自分以外の死を避けるために、何度も時を繰り返す。それに伴う代償は時か命か、死よりも恐ろしい何かかもしれない。それでも尚諦めきれない気持ちを諒世は知っている。
兄が自殺をしようとした。高所から身を投げ出す彼を追い、諒世は共に身を投げ出した。自分の命を投げ出してでも守りたい気持ちがある。認めてもらいたいという気持ちは何処から来るのか考えたことがある。
「まぁ、うん……」
諒世はかえでの抱く感情に気付いている。しかし、あと一歩が諒世一人では踏み込めない。
彼女は何度も時を繰り返し、色々なことを知っているかもしれないが、諒世は彼女のことをほとんど知らない。その尻尾は何か。具体的にどうやって時間を操っているのか。あるいは、自分の事が何故好きなのか。どういうところが好きなのか。恋愛ゲームがあったとして、これでは最初から好感度マックスで物語も何もあったものではないのではなだろうか。彼女の気持ちを認めたい気持ちはあるが、それに応える勇気がほんの少し足りない。
せめて一度だけでも話を逸らしたい。ただ、一度だけで十分だ。
「……その死ぬ運命ってのはどうしようもないことなのか」
「……もしかしたら、可能性があるかも……」
死ぬ運命にあると知ってしまったのにも関わらず、一瞬の隠れ蓑にその話題を使う。必ず来る死よりも諒世にとってはこの一瞬を凌ぎきるだけの盾が欲しかった。彼女の気持ちから逃れることは出来ない。死が確定しているのであれば、彼女との縁もまた決して隔てることの出来ない運命だ。
ならば、その言葉を真正面から受ける覚悟を今用意しなければならない。
「……その前に一つだけ――私と付き合ってください」
かえでは泣くのを止め、しっかりとその好意を言葉にした。
諒世もその意志に沿って、答えを出そうとしたその時だった。
「諒世えええぇぇ!!」
聞き慣れた自分の声は頭上からだった。背丈の何倍かある岩場の上から景火が叫んでいた。楫次が目を離している隙に逃げてきたのだろう。
半裸で仁王立ちする姿はとてもではないが、普段の自分からは想像も出来ない。
中身が違うと、こうも違うのかと関心すると同時に、元の自分の身体を見て改めて思うことがあった。
「こんなとこで何――あ、」
身体を密着させていたことに不信感を抱いたのか、景火は問い詰めようとする。その一歩で足を踏み外し、そのまま諒世達の方へと勢い良く落下してくる。
ぶつかると思った時には既に、諒世と景火の頭は激しく衝突していた――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――頭が痛い。が、自然と身体には倦怠感が無かった。
意識は正常。身体はいつも通り。
「あ、戻ってる……」
諒世は木製の長椅子に横たえていた。頭上から照らす証明を遮るようにして翳した手は女性のものとは異なる逞しさがある。
「おはよう。調子はどう? 入れ替わりの不具合……も直ってるっぽいね」
まだ声変わりしていない少年の声。どうやら楫次がここまで運んだようだった。
「大丈夫、ありがとう助かった」
「僕しかまともに動けなかったからやっただけだよ。戦闘とかでは役に立てなかった分、こういうところくらいは頑張らないとね」
そう言って複雑な表情を浮かべる楫次。彼から服の置いてある棚を聞いて立ち上がろうとした時、隣の脱衣所から壁越しに誰かが嘔吐する声が聞こえる。
「……たぶん来晴ちゃん。他の二人はまだ寝てるよ。あの温泉、お湯が全てお酒だったみたいでさ……」
つまり蒸気だけで女性陣三人は酔ってしまったことになる。かえでに対して感情が
対して、元の身体に戻ってみて特に気怠さも無いことから、自分が酒に強い体質だという自覚が芽生える。
今回知った酒の強さを始めに、毒に強かったり、風邪を引きにくかったりと、景火の超感覚に比べれば希薄な能力だが、入れ替わってみて初めてこれが魔術変異の一種だと認識する諒世。
ただ、言い訳にしたくないという気持ちも諒世にはあった。かえでとの話を再開させなければならない。
「そうだ。鍵に関しては無事見つかったよ」
変わった鍔の形をした刀。その形には見覚えがあった。扉の窪みである。
「どういう仕組みかは分からないけど、さっきの衝突の弾みでお湯が全部抜けたんだ。で、代わりに出てきたのがこれ」
杯を満たすのは酒である。しかし、同時にそれは剣でもある。人々は争いの前にも、その果てにもあらゆる杯を交わす。内に杯、外に剣。切っても切り離せない関係性がそこにはある。故に酒の代替たる鍵として、聖剣もまた、聖杯を満たすものとなり得る。
「なるほど、杯を満たすのは酒か剣か、どちらかだけというわけか」
謎が解け、着替えも終わったところで、脱衣所の暖簾の先に白い髪が垣間見えた。
「行ってきなよ。話すことがあるんでしょ。僕はここで待ってるから」
「かえで」
「あ……」
諒世が急に出てきたのが予想外だったのか、それとも酔いが醒めきっていないのか顔が薄っすらと紅潮している。
「あの……さっきは、酔ってて、えっと……私、もしかして全部言った……?」
諒世もその時の記憶は薄っすらとしかなく、酒の力は恐ろしいと思わずにはいられない。
「全部聞いた。試験の内容が全てお見通しなのはそういうことだったんだな」
「でも、今回はイレギュラーばかりで……最後のコカトリスには絶対に勝てない。それだけは絶対に――」
神霊オロトロスですら拘束した彼女の力量であっても敵わないとなると勝機が無いというかえでの主張には頷ける。何より、何度も同じ時を繰り返しているから言えることだろう。もしかするとこの場所についた時点で合格基準は満たしているのかもしれない。現在の残り人数は十数人に変わりはない。頂上まで辿り着けるだけでも十分である。これは捨て問だ。何も満点を取る必要など何処にもない。
しかし、諒世には点数など眼中に無かった。彼が求めるのはただ一つの解。
「――いや、勝機はある。楫次と話してくる」
お互い、先程の話は無かったかのように視線を交えず話していた。酒のせいだとしても、酔った勢いで踏み込んだ言動だったのは事実に変わりない。諒世は、もう少しだけ頭を冷やして出直そうと想い、踵を返そうとした。
「待って、一つだけ……。あの……付き合ってくださいというのは……やっぱりキャンセルで……」
諒世の逞しい手をかえでの小さな手がしっかりと掴む。彼女のその気持ちは紛いも無い恋心である。身体が戻って初めて痛むはずのない右脇腹の古傷が痛む。
それでも、出来る限りかえでの振り絞った勇気には応えなければならない。
「いや、それは無理だ。本心を聞いたからには食い下がれない。ってかっこつけてるけど、実は俺も心の整理が出来ていない。だから、全部終わったら答えを出すよ」
諒世なりの虚勢だったが、答えは決まっていた。
「指切り」
繋いだ手を一度離したかえではそのまま右手の小指を突き出して言った。
古典的な契約の一つである『指切り』。約束を破れば、指を切断したり、針を千本刺したりと、恐ろしい内容である。しかし、現代では親しい間柄だからこそ行える信頼の証でもある。破ることが無いとわかっているからこその内容である。
諒世の大きな小指とかえでの小さな小指が絡まって、指切りの典型的な詠唱が行われる。
「約束しっかり守るからな」
指を離し、契約を結ぶ言葉。諒世は今度こそ暖簾を潜って、楫次の下へと向かおうとしたが、一つだけ言っておかなければならないことを思い出し、背を向けたまま言い放つ。
「仲間として、俺からも一つ――まずはこの試験の運命をぶち壊してやろう」