Pause_002_『出会い』
文字数 3,551文字
この日は何か悪いことが起きる予感がしていた。
正夢というものだろうか。朝、目が覚めた瞬間に、薄っすらと、何か良くないことが起こると感じる。
こういう日は顔をよく洗いたくなる。
夢なのに、嫌な気持ちが眼前に張り付いたような気持ち悪い感じが続く。だから、何度も何度も入念に顔を洗う。
ふと鏡に写った自身の顔を眺める。
昨夜ゲームをし過ぎて、完全にロールプレイにのめり込んでいたからか、自分が誰だか認識するのに少し時間がかかった。
名前は
反面、
元々、そこまで個性的な方ではないから、そういったスパイスが程よい塩梅で悪くない。
水で濡れた前髪をいじりながら、かえでは「黒いな」と思った。
これに限らず体型も容姿も、そこらの中学生とさほど変わらない。別に非凡を望んでいるわけではない。
顔を洗ってもなお、嫌な夢の内容が身体中にこびりついているような気がした。
かえでは、もういっそ、シャワーでも浴びてしまおうかとも思い、服を脱ぎ始める。
下着まで脱ぐと、重大な見落としにようやく気付くことが出来た。
これから成長する余地がありそうな、起伏の少ない体型。そんな当然とも言える華奢な体躯に似合わない異形が彼女の腰から生えていた。黒くて艶があり、先端が矢尻状になっているそれを、かえではゆっくりと指でなぞる。
すると、ピクリと動いた。正確には、かえで自身が動かした。
「忘れてた。わたし……ハーフなんだっけ」
かえでは、黄色人種と白色人種の間くらいの色白だが、論旨はそこではない。その色白の肌から悪魔のような尻尾が生えてくるというのは、非凡にも程がある。
この世には、魔術というものがある。だから、悪魔がいても何ら不思議ではない。それに、悪魔と人間との間で交配が行われないとも限らない。
悪魔との子かどうかを証明するには、親の顔を見ればすぐにわかるのだが、かえでは両親を知らない。
気付いた時には叔母に育てられていた。
「あれ? わたしって普通じゃない……?」
普通ではない。非凡を望んでいるわけではないのだ。望む望まないに関わらず、佐藤かえでという少女には、半人半魔という肩書きが纏わりつく。
だからだろうか。常に周りとの間に距離感がある。
「友達欲しいなぁ……」
溜め息を吐いて、我に帰る。
「何やってるんだろ……わたし……」
少しだけ、寝よう。同居している叔母は朝早くから出勤しているため不在だ。二度寝なんてだらしないという口出しもない。
寝れる時に寝ておく。これはゲーマーの基本だ。
今日も帰ったら、いつもと変わらずゲームにのめり込むのだろうと、この時はそう思っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ラーメン万次郎」と書かれた看板を前にして、かえでは唾を飲んでいた。
空腹なわけでも、ラーメンが食べたいわけでもない。
彼女が意識しているのは、その脇から伸びる路地裏だった。
地図アプリを見ると、ここが学校までの最短ルートだ。
朝のラッシュとは対称的に、少し足を踏み入れるだけで、異世界のように感じられるほど暗い道だ。
わざわざこんな場所を通る必要もないのだが、今は手段を選んでいる余裕はない。
――何せ、入学式から二度寝で寝坊して遅刻しそうになっているのだから。
スクウェアフォンの地図アプリを開きながら、小走りで路地裏を進んだ。
しばらく進み、かえでは急いで、曲がり角を曲がる。
まさか自分以外がその先から走ってきているとは思わず、勢い余ってぶつかってしまう。
「わ、ご、ごめんなさい」
「わるい、急いでて――」
相手の少年も酷く急いでいるようで、お互いの顔を見ることなく、そのまますれ違う。
「……全然反省してなさそうだった……」
かえでは、彼が去った先を振り返りながら、つい口を尖らせる。
そんなこんなで、学ぶことなく再び前方不注意になっていたかえでに、この日一番の不幸が降り注ぐ。
「もー、またー!? ……、」
ぶつかった相手は、先ほどの少年とは違い、微動だにしない。
その違和感と、妙な獣臭さと血生臭さに、かえでは咄嗟に、その
「嫌な予感……的中……」
気が動転してしまって、思わずスクウェアフォンを落としてしまう。
狼のような巨躯に、灰色の体毛。暗闇の中、赤い瞳がギョロギョロと
魔術霊魔。それも醜悪な姿をしているから、いかにも敵キャラの手先だろう。
しかし、かえではゲームの中で無双は出来たとしても、ここは現実だ。
たとえ、相手がスライムのような序盤の雑魚敵だとしても、それに対抗し得る技を持っていない。
魔法士学校に受かったからといって、誰もが有力な魔術を持っているわけではない。
ゲームの序盤で、適正レベルではない敵と遭遇した場合の対処法が一つある。
「逃げる……」
かえでは、運動神経だけは他より優れている。
なら、出来る限り安全な場所まで逃げて、魔法士の助けが来るのを待つ。
シンプルだが、今かえでに出来ることといったらそれくらいしかなかった。
「あっ……」
地図アプリ頼りだったがために、なくなってから、現在地がどこか全く分からなくなっていた。
何度も、元の大通りに戻る道を曲がり損ねたと感じてしまう。
地図はゲームに必須だとも言える。たとえ、地図の機能がないゲームでも攻略サイトに先駆者達が標を築いてくれている。
地図のない生活がここまで苦だとは思わなかった。
かえでと魔術霊魔の距離は変わらず、咆哮と独特の臭いが背筋に貼りついて離れない。
路地裏を右へ左へ。自分が今どこにいるのか、どこに向かっているのかすら不明瞭だ。
息が切れ切れなったところで、背後の気配が消えていたことに気が付く。
「逃げ……きれた?」
呼吸が整ってきたかえでは、辺りを見回す。
見事なまでの袋小路だった。これでは、もし見つかった時に逃れようがない。
そして、かえでの嫌な予感というものは、尽く当たってしまうものなのだ。
遠くから、次第に近くへと響く魔術霊魔の吐息。
「噓……っ」
かえでは思わず口元を押さえ、戦慄した。
やがて袋小路に至る曲がり角に、魔術霊魔の横顔が現れた。
その眼は焦点が合っていないのにも関わらず、しっかりとかえでの姿を捉えていた。
こんなことなら、二度寝なんてしなければ良かった。
「……助けて――」
ゲームのような展開なんて望んでいない。
ただ、普通の生活、普通の友情、普通の恋、普通の人生を願っただけだ。
こんな悲劇に救いの手を差し伸べてくれる主人公なんていない。
これは夢でもゲームでもないのに、どうしてこんなにも残酷なのだろう。
魔術霊魔がじりじりと詰め寄る。
定められた死が、今生きていることさえも苦しいと思わせる。
実際の時間としては一瞬なのに、まるで永遠の時が過ぎ去ったかのような錯覚に陥る。
かえでは全てを諦めて、瞼を閉じた――。
その時だった――。
「――ここらで休憩にしようぜ。犬っころ!」
天から、声が聞こえ、物凄い衝撃と共に、魔術霊魔の首元が押し潰された。
「……さっきの人」
曲がり角でぶつかった時、その声だけは覚えていた。
覇気こそないものの、低くて落ち着きのある声。
「防御魔術でも倒せるもんだな……」
魔術霊魔は弱点を突かれたのか、その場でピクリとも動かなくなった。
その巨体に覆いかぶさるように着地した少年の身体も大きい。
身長一八〇センチくらいはあるだろうと思われるその頭頂部にはアホ毛がちょこんと立っている。
「ほい、これ落ちてたぞ」
そう言って少年は、小型の通信端末をかえでに投げつけた。
突然のことで、落としそうになったが、何とか持ちこたえた。
「これ、わたしの……」
「やっぱり、路地裏の方が騒がしいと思って、心配になって来てみたら正解だったな」
「どうやってここを……?」
「声だよ」
確かに、「助けて」と言ったが、遠くに聞こえるほど叫んだわけでもない。
不思議だ。
「その制服、もしかして第六校?」
かえでは、何度も頷く。理由は分からないが、気持ちが昂っているからだろう。
「そっか、じゃ学校でも会うかもしれないし、その時は――」
「名前――わたしは
「サトウカエデ? メープルの原料か……何か甘そうな名前だな」
「あなたの名前は?」
「扇谷諒世だ。噛まないでくれよ」
そう言って苦笑いする彼の名を、かえでは決して忘れない。
これが、かえでと諒世の