Phase_006_「覚悟」
文字数 6,270文字
ひんやりとした水が勢い良く諒世の両手の汚れを流しきる。
顔を見上げて、鏡に映る自身の顔を見て、緊張感がないように思えた。
どうにも、入学試験というものが本当のことなのか信じ切れていなかった。
もし、魔法士学校に入学出来なかったら。そんなことを考えたことはなかった。
他の新入生がどうかは判断し兼ねるが、諒世にとってここまで来ることは決して簡単ではなかった。
魔術の腕を磨いて、知識を培って、それを形にする。
しかし、諒世にとってそれは苦痛ではなく、むしろ気休めのようなものだった。
何か目標があれば、どうにもならないことも、どうにかなるように思える。そう錯覚することが出来る。
それでも、あの日の兄との隔絶は、諒世の胸にしっかり傷痕を残している。
癒えない傷だ。治そうにも治せない。だから、痛み止めで気を紛らわせる。
この試験もまた苦痛なのだろうが、それ以上に諒世にとって、もう誰からも拒絶されたくないという気持ちが強かった。
そして、ここに来て、再び他者からの拒絶を垣間見た。
佐藤かえでという少女から放たれるそれは、常に諒世を押し潰そうとする。
諒世は、この煮え切れない感情を拭いたいと思って、顔を洗おうとした。
しかし、それは洗面所の外で諒世を急かす声で遮られた。
仕方なく外に出ると、景火が口を尖らせていた。
「せっかちなんだよ、景火は……もう少しゆっくりしてもいいだろ」
「諒世がぼんやりし過ぎなだけよ。ん? ぼんやりって、よく考えるとボン槍? 槍? ぼ、んやり?」
「何、わけわかんないこと言ってんだよ……まったく」
景火も景火で、全く緊張がない。こんな彼女だが、内心、実は試験に対して物凄く怯えている――なんてこともないだろう。
本当に特に何も考えないで、その場の流れだけで動くような性格だ。
話にも脈絡とかオチとかが全くない。
しまいには、どこから取ってきたのか、バナナを剥いて食べ始めた。
否――どこからなんて当然決まっている。
諒世達が今いる場所は、世界中どこを探しても、最も物に困らない場所だからだ。
それは、このアタラクシア・フィールドという仮想現実でも変わらない。
人々は、その叡智の結晶を「コンビニ」と言う。
しかし、そんなコンビニのあらゆるものを正確に描写し、バナナの熟し加減まで表現しているこの“異世界”には感服する。
思わず「魔法科学の力ってすげー」と声を上げてしまいそうになるくらいには、アタラクシア・フィールドという技術は現実味を帯びていないのだ。
たとえ、魔術や超科学が普及していて、VRなんて当たり前という認識があっても、だ。
「ほんと、まほうカガクってすごーい」
「確かに……これ、魔術媒体まであったよ。しかもちゃんと使えそうだし」
景火が口をモグモグさせながら、アホさ全開フル回転させていた。
対して、レジカウンター近くに立っている三人の内の一人、楫次が紙幣サイズの紙切れのようなものを持って、しげしげと眺めていた。
「魔術符が数枚に、これはソルトフォース社製のナイフか……」
秀策がカウンターに粗雑に並べられた品々を整理する。
今となっては、日用魔術という言葉があるくらい、魔術は、魔法や
魔術武装という明確な武器より、それだけでは凶器になり得ない魔術を媒介するものが、魔術媒体だ。
魔術符と呼ばれる札状の紙には、精巧な術式が印刷されている。日用魔術を使う上で、あると手助けになる便利アイテムだ。
電池やライターなどの代替にもなる。
諒世はレジカウンターに近付き、革製の黒い鞘から刀身を取り出す。滑りにくく加工された円柱状の柄と同様に、片刃が鋸刃になった刀身も、黒々と重厚感を放っている。その、円柱状の柄の底面には「SALT FORCE/2033 KUROGANE-SAQ301」と彫られている。
ナイフの方は、試験のために配置されたものだろう。
三本あるナイフは、魔術武装を持っていない諒世、かえで、秀策が持つことになった。
「それにしても、ここまで順調に物が揃うとゲームみたいだよね」
「――ゲームなんかじゃない……」
諒世と同様にレジカウンターの外に立っていたかえでが小さく呟いた。
確かに、この時までは、緊張感というものに欠いていた。
しかし、それも次の瞬間までだった。
「――何か、聞こえ――ッ!?」
景火が急に声を張り上げる。
直後、店内に衝突音が響き渡り、道路側の窓ガラスが弾け飛ぶ。
諒世は咄嗟に、後ろのかえでを庇う形で手を伸ばしていた。防御魔術は間に合わない。
対して、逸早く異常に気付いていた景火は、レジカウンターの内側にいた楫次と秀策を力づくで伏せさせていた。
「――くそ、何だ急に……」
秀策は舌打ちをしながら、立ち上がり、飛び込んできたものを確認する。
「とりあえず、ここから出よう!」
悠長に何が飛んできたかを確認している時間はない。
視界の端に写ったそれは明確な殺意を持って動いていたからだ。
幸い出入り口には、件の動く物はいない。
諒世達は、急いでその場から脱出した。
「魔術霊魔……!? 何でこんなたくさん」
「完全に囲まれてるな……」
コンビニを孤を描くように囲っているのは、大量の猛犬。
黒く逆立った体毛。獰猛な四肢の爪と頭部の牙。
その体躯自体は送り犬ゴーレムほど大きいわけではないものの、スマートな体つきをしていて、より俊敏な動きが出来るような構造になっている。
防御魔術しか使えない諒世は当然だが、大きな武器を持っている楫次も決定打を与えにくい。
景火が飛び込んできた一匹を剣で迎え撃ち、叩き切った。武器の重さからして、楫次の武器と同程度はあるクラゼヴォ・モルを、景火は軽々と振るう。
前足部分と後ろ足部分で、押し潰されたように分断され、その黒い体毛が血色で染め上げられる。
「どうよっ! ……って、え、えキモイキモイ何これ!?」
景火が切ったはずの箇所の血が突然沸き立ち、生じた気泡がそのまま形を成していく。
やがて二つに避けれた魔術霊魔は、元通りになった上に、二体に増殖した。
「――プラナリアハイエナか。なるほど……だったら、こっちを縛る魔法も
秀策は魔術符を取り出して、複数枚地面に並べる。
「《
魔術のトリガーとなる詠唱。
秀策の足下に置かれた札状の魔術符が焼失し、代わりに秀策を囲むように円形の魔法陣が展開される。
対して、本能行動なら人間を上回る魔術霊魔は、手早く秀策の正面から身を引く。
しかし、所詮は本能だった。
雷神を由来とする雷電が、魔法陣から放たれ、複数の魔術霊魔を感電させるのは、正に瞬く間であった。
知恵に特化した人間、さらにはその知恵を力に変換出来る魔術師の前では、先存的な本能など、あって意味を成さないも同然。ましてや、神の恩恵を得た魔術師の前では、その差は雲泥だ。
「こっち!」
景火は物理では効果がないと分かったのか、発火魔術で対応し、残りのプラナリアハイエナをなぎ倒していく。
その隙に景火を先頭にして、諒世達はビルとビルの間を駆けていく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ビルとビルの間を縫うように進むと、開けた場所に出る、草木や土の臭いが辺りに充満している。
都会という砂漠の中に、突如として現れたオアシスのような場所だ。
街の所々にはもちろん街路樹が点々と生えてはいたが、この自然公園は少し道から外れれば、まるで森のように木々が生い茂っている。
大きな池に沿う形で続く道を進むと、屋根とベンチだけの小さな休憩スペースが目に入った。
「何とか……逃げ切ったか……?」
「そんなことより、扇谷……腕を見せろ」
「え?」
無理やりベンチに座らされた諒世は突然、秀策に上着を脱げと言われる。
灰色のシャツが袖を赤黒く染まっている。
言われるまで気付かなかったのは、このアタラクシア・フィールドでは、極度の痛みを感じることは出来ないからだろう。
「割と深いな」
「いや、どうしようもないだろ……」
「黙って腕を貸せ!」
半ば強引に秀策が諒世の腕を取る。
袖を巻くって、傷の程度を確認し始めた。
一段落すると秀策は、傷口に手をかざし詠唱をする。
「治癒魔術……? どうして」
「どうもこうもない。俺は必要なことしかしない主義だ」
治癒魔術は難度の高い魔術だ。加えて、素人が誤った施術をしないように
チームメンバーが持つ
「もしかして、ここは魔法が効いていない……?」
「今更気付いたか」
魔法は世界に広がる超巨大な魔術であるが、その反面異世界であれば、その効力の外であるということにもなる。
アタラクシア・フィールドには、魔法も
プラナリアハイエナは本来、増殖機能の暴走故に魔法によって固く禁じられている魔術霊魔だが、ここには普通に形を成し、喚起に応じている。
秀策は治癒魔術の知識や技術があっても、
痛みも無ければ、人々を縛る法もない。正しく、この場所は煩い無き
ただ、治癒魔術は、デメリットも大きい。魔力消費即ち、使用者の身体への魔術汚染が著しい。
傷が塞がったところで、秀策の顔を見ると、一面汗を垂らしていた。
「これが必要なこと……か」
「出来ることはやる。それだけのことだ。それが魔法士だろう?」
秀策の言動に悪意がないことが、何となく分かったような気がした。
彼には、常に魔法士という明確なビジョンがある。
そして、魔法士であるためには、あるいは理想の魔法士になるためには、自分はどうあるべきかをしっかりと定めている。
だから、彼にとって、人を救う治癒魔術も出来て当然なことなのだ。
「……霧が出てきたな……」
一仕事終え、汗を拭いながら、秀策は静かに呟いた。
公園に入ってから、薄っすらと霧のようなものがあったが、今はそれが数歩先の視界をも遮るほど深い。
諒世の怪我も癒えたところで、移動を再開する。
景火曰く辺りに獣臭さはないため、しばらく危険はないということだった。
コンビニでの奇襲もそうだが、景火はどうやら五感が著しく発達しているようだ。
魔術師にとっては珍しいことではなく、魔術を扱う上でこうした身体の変質はよくあることなのだ。
「……っ!?」
金属と金属が衝突する。そんな音が響いた。
やはりここでも逸早く気付いて対処したのは景火だった。
「敵か!?」
「……たぶんっ、人――」
諒世の問いに、景火は剣を大きく振りかぶり返答した。
襲撃者は、景火と長く鍔迫り合いをせず、再び霧の中へと消える。
「……霧、か。この中で発電魔術は厳しいな……」
秀策が魔術符を持って、俯きながら舌打ちをした。
心なしか、秀策のその表情はどこか強張っていた。
「――同じことを繰り返すわけにはいかない……」
度々、霧の中の襲撃者の攻撃を受け、苦悶の表情を浮かべる景火を見て、秀策は自身の無力感に歯噛みする。
この霧の中で、敵の攻撃に反応出来得るのは、景火だけだ。
諒世も楫次もまた、秀策同様に何も出来ない。
「《魔力開放》……」
もう一人いた。彼女の霧のさらにその先を見据えていた。
かえでの短い詠唱と共に、周囲に突如として強い風が吹き荒れる。
辺り一面の霧が消え、空の色がはっきりと見える。
しかし、風が生じたのは一瞬だけだ。チャンスも同様に一瞬であったが、秀策はそれを見逃さなかった。
襲撃者の姿も露わになり、それが諒世達と同様の受験者だということが分かる。
景火の大剣と打ち合える程と考えると、大きな体を想像していたが、武器もシンプルな西洋剣で、身体も平均くらいの少年だった。
少年の靴の裏に貼りついた紙から光が溢れだす。
秀策は躊躇なくその少年に放電した。
少年は背を向け逃げようとするが、青白く光る雷電は不思議と少年の足元へと向かう。
「誘電術式のトラップだ。こんなこともあろうかと、周囲に張り巡らせておいたのは正解だったな」
秀策の放った魔術が、少年に被雷する。
そのまま少年は倒れ、気を失ったかと思えば、砂塵となって消えた。
「なるほど、脱落するとああなるのか」
秀策は、立て続けの魔術使用によろめきそうになるが堪える。
視界の端に表示された脱落者数のカウントが一つ増える。倒れた少年は間違いなく諒世達と同じ受験者だったのだ。
きっと彼にも、魔法士を志す強い信念があった。だから、相手を蹴落としてでも前に進もうと思った。
この勝敗に信念の優劣はなかった。ただ、秀策が強かったに過ぎない。
「でも、この霧の正体は……」
「まだ敵がいることは間違いないな」
楫次の考えは正しい。辺り一面に立ち込める霧は襲撃者にとって都合が良すぎた。
相手が一人なら偶然だと考えられたが、相手も一人ではない。これはチーム戦だ。
「池の方に誰かいる……」
「あれは、五山家の端山……」
端山来晴。小さな容姿に似合わず、送り犬ゴーレムを容易に吹き飛ばす程の発火魔術の使い手だ。
「なるほど、池に発火魔術を使って霧を生み出してたってわけか……」
「仕組みはわかった。なら、次はこちらから攻め込む!」
秀策が来晴に向かって、走り出そうとした瞬間、景火がそれを制止する。
「――何か言ってる……。“しゅうじくん”?」
「え……何でそこで僕の名前が……」
「楫次なんか嫌われるようなことでもしたんじゃないか?」
「いや……そんなことはないと思うけど」
楫次が煮え切らない返答をしている間に、来晴の姿は消えていた。
彼女の魔術があれば、たとえ相手が複数人であろうと、何とか押し通せそうなものだが、そうしなかった。
突然、辺りで小さな爆音や金属音が響く。視界の端に写る脱落者の数も、時折数を増やし始めた。
「秀策、先を急ごう。ここは危険だ」
諒世の提案に、秀策は特に何を言うわけでもなく賛同する。
彼には戦う覚悟が出来ている。他者を蹴落としてでも、魔法士になろうという意志がある。
対して、諒世はどうだろうか。
今はどうしてか胸を張って言える何かが分からないでいた。
楫次はどうか。彼も言わないだけで、何か目的があって魔法士を目指しているような気がしないでもない。
景火は――分からない。彼女のマイペースっぷりには世話を焼くが、戦うことに関しては躊躇いは感じられない。
では、佐藤かえでという少女はどうだろうか。そう考えた時、前を走る彼女の後姿が目に入った。
協調性はない。しかし、肝心なところで手助けをしてくれる。ヌリカベの時も、彼女の何気ない行動が、ヒントになった。
つい先ほども、かえでの霧払いがなければ状況は変わらなかった。
魔法士になる理由、戦う覚悟、考えるべきことは多くあるはずなのに、彼女のことを考えると、そんなことを考えている自分がどこか小さく思えてならなかった。