Phase_009_「忘れない」
文字数 5,230文字
螺旋フロアの損傷は激しく、とても先に進めるような状況ではなかった。
そのため諒世はかえで共に、最下階へと引き返していた。
当然プラナリアハイエナがうじゃうじゃいるだろうと思っていたが、妙に静かだった。
降りてみると、まるで冷凍庫の中にいるような冷気が一階の空間に立ち込めていた。
「楫次!? 何でここに!」
「ごめん……僕には何も出来なくて、壱岐くんが……」
楫次は右腕を悔しそうに握りしめていた。
しかし、魔力消費や外傷のせいか、壁に寄りかかって立てないでいる。
「でも、これは……この状況は一体……」
諒世は凍結した床に視線を移す。フロア中央付近には大きな氷の塊が冷気を放っている。
よく見ると、その内部を構成しているのは、大量のプラナリアハイエナだった。
「――そうやって、また逃げるん?」
氷の中から声が聞こえた。
その声を始めに、氷が砕けていく。
全て砕けた時に、氷の結晶が混ざった強い風が、諒世達の視界を遮った。
「――下がって、諒世……《
「《
吹雪がより一層強くなる中、かえでを中心にそれを上回るような近寄りがたい冷気が生じる。
氷柱のような氷塊が飛び交い、衝突し、砕けた破片が辺りに飛び散る。
吹雪が吹き荒れる中、その中心は蒸気を放ち、床は所々炎上している。
その場所に立っていたのは、端山来晴。冷たく放ったその言葉は、諒世でもかえででもなく、楫次に向けられたものだった。
「ウチから逃げて、それで忘れて……」
「もしかして、端山さん――いや、その炎はやっぱり……来晴ちゃん!?」
楫次が信じられないとでも言うように彼女の名を呼ぶ。
「やっぱり覚えていてくれてなかった……」
「そんなことは……」
かえでの氷結魔術と来晴の氷結魔術、二つの魔術は拮抗して次第に激しさを増していく。
楫次と来晴の一方的な問答は続く。
「だったら、ウチも忘れて、一人になっても魔法士になる……!」
来晴が何に憤りを感じているか、それは当事者である楫次にしか分からないことだ。
諒世は、周りの氷が解け始めていることに気付き、彼女から発せられる熱気と冷気のバランスが崩れ始めていることに気付く。
来晴の右手首に下げられているブレスレットが光る。
路地裏で会った時、送り犬ゴーレムを吹き飛ばした魔石開放だ。
今思えば、公園で楫次が襲われた時に横から飛んできた熱線と酷似していた。
もし、あの時楫次を助けたのが、来晴なら、今目の前にいる彼女の行動は矛盾している。
諒世は二人の関係に、どこか納得が出来なかった。
氷結魔術に集中しているかえでは、来晴の攻撃の変化に対処しきれない。
このままでは、かえでどころか後ろにいる諒世も楫次まで、攻撃が直撃するだろう。
「……逃げちゃいないさ。楫次はずっと忘れないで、腕の火傷を治さないでいたんだよ」
一瞬、来晴のブレスレットの魔石が光を失う。
「……でも! 楫次くんは、忘れてた! ウチにくれたこの石のことだって覚えてないんやよ?」
来晴がそう言うと、再び魔石は光り出す。
しかし、来晴の言動は一致していない。楫次を否定しようとしているのに、彼からもらったであろう魔石の力を使おうとしている。
それは、きっと彼女がまだ楫次のことを諦めきれていないからだ。
どこかで、誰かに止めてもらいたい。好きだからこそ、忘れたいと思う。目を背けたい。
諒世にとって、その気持ちは痛いほど共感出来た。
「楫次……お前はそれでいいのか……?」
「それでいいって、これでいいんだよ。僕が全部悪い……」
どうしてこうも人というのは面倒な生き物なのだろう。
楫次は、魔法士になりたい理由が特にあるわけではないようなことを言っていたが、きっとそんなことはないだろう。
過小評価する癖が、楫次にはある。それなのに記念受験なんかで、魔法士学校を受けたりするものだろうか。
見栄なんて言葉とは程遠い友人のことだ。きっと、誰か認めてほしい相手がいたからこそではないだろうか。
それが、喧嘩別れしてしまった端山来晴という少女ではないのだろうか。
「楫次、逃げてたら、きっとずっと辛いままだ。だから、手を貸してくれ」
諒世は自分にも言い聞かせる。逃げることは悪いことではない。
それでも、逃げてはならない局面が必ず存在する。楫次にとっては、きっと今この瞬間がそうなのだ。
「……一度たりとも忘れようなんて思ったことはない。確かにそうだよ……」
楫次は覚束ない足取りで立ち上がる。
その間にも、かえでに来晴の魔石開放――高密度の熱線が襲い掛かろうとしている。
諒世は、かえでの前に出て、防御魔術を発動する。
防ぎきれる自信はない。
楫次に諒世の気持ちが届いたかは分からない。
「また会った時、自信を持って、ごめんねって言いたかっただけなんだ……」
楫次は小さく呟きながら、諒世達の後ろで何かを準備し始める。
手から落としてしまった戦鎚型魔術武装を楫次は、火傷の残る右手で持ち直す。
諒世の魔力壁に来晴の魔石開放が直撃する。
「謝るために用意した石なんだけど、お役御免だ。一点を穿ち、解を成せ――《魔石解放》」
楫次は制服のポケットから青く光る石を取り出し、床に置く。
来晴と同様の詠唱すると、戦鎚のヘッドでその石を打ち砕いた。
諒世達の足元は、氷と火によって水浸しになっている。
その水溜りが沸き立ち始め、生き物のように独りでに動き出し、諒世の魔力壁に被さる形で壁を成した。
汚染を代価に、魔力を蓄積し、一度に多くの魔力を放出することの出来る魔術媒体。それが魔石だ。
偶然にしろ必然にしろ、こうして二つの魔石がぶつかり合う。
魔石が万能の魔術媒体として扱われないのは、そのコントロールが容易ではないからだ。
来晴と楫次では当然、魔石開放の質は魔術師としての才能が高い五山家端山に軍配が傾く。
しかし、楫次はもう一つ魔術を使っていた。
来晴の魔術によって生じた氷と火の中間――水は彼女の魔術の範囲外であり、同時に無駄な要素だ。
欠点とも呼べるその一点の綻びに、楫次は杭を打った。
魔術は血統に作用されることはもちろん、
諒世の言葉、しっかりと楫次に届いて、彼は自身の為すべきことに答えを得たのだ。
水の壁は津波のようになり、熱線とその先にいる来晴に覆い被さり、飲み込んだ。
床に叩きつけられた水は、その反動で、辺りに飛散して、一部は蒸気となって霧散した。
「……ウチが負けるなんて……」
その中心で、来晴は腰を抜かして座り込んでしまっていた。
「ごめん……来晴ちゃん」
楫次が覚束ない足取りで、抵抗する余力も無い来晴に近付いて言った。
来晴の顔には心なしか涙が滴っているように見えたが、彼女のプライドとしてそれは許せなかったのだろう。
濡れてしまった顔を制服の袖で拭うと、彼女の前髪が少し乱れる。
「さ、煮るなり焼くなり、どうぞご自由に! まぁウチは焼かれへんけど」
来晴は潔く負けを認めて、瞳をゆっくり閉じた。
「違うよ。そうじゃない……。負けたのは僕の方だ。ずっと寂しい思いをさせちゃってたんだなって……そう思って」
「楫次くん、それは己惚れやよって」
「己惚れだね。確かにそうだ……でも一人じゃ出来ないことも多いんだ。だからさ……僕たちが他のメンバーと合流するまでの間だけ協力してほしい」
「それは、さすがにご都合展開過ぎ……でも、うん。他の誰でもない楫次くんの頼みなら」
楫次の提案には驚いたが、それ以上にその提案を受け入れた来晴に、諒世は驚いた。
確かにこの状況で、留めを刺すなんて、そんなことは出来ないだろう。
甘えた考えだが、こればかりは甘えさせてほしかった。
「一応、言っておくけど、ウチいつ裏切るかもわからんよ?」
「たぶんそんなことはないと思う」
楫次は決して楽観しているわけではないだろう。彼には、初めから確信があったのだ。
来晴に謝るまで、右腕の痛みも
楫次のように真正面から向き合えれば、今までの関係を変えることが出来るだろうか。
諒世の場合、気付いた時にはいつも手遅れで、相手を思えば思う程遠くへ行ってしまう。
自分こそ、重大な何かを見落としているのではないか。また、何かを失いかけているのではないか。
現に、景火と秀策とは離れ離れになっている。完全に信じているといったら噓になる。
きっと自分の知らない水面下で何か悪いことが起きている。
諒世の予感は的中した。
遥か頭上から、爆発。
天井がその衝撃で壊されたのか、瓦礫が次々と落下してくる。
当たれば確実に死に至らしめる程、大きなものも落ちて来る中で、諒世の足は中央へと走り出していた。
根拠の無い胸騒ぎがする。
かえでや来晴が魔術を使いながら、瓦礫を防いだり、回避したりする中、諒世は頭上から迫り来る気配を明確に捉えていた。
顔を見上げるより前に、彼女だと分かった。
「《オン・マリシ・エイ――」
諒世の最も古い友人で、きっと彼女なしの生活なんて想像出来ない。
アタラクシア・フィールドで死ぬことが実際の死に繋がることなどない。しかし、諒世にとってこの光景は死ぬよりも苦しいことだった。
目の前で、自分の知る人間が消えようとする。もう二度と、諒世は手の中にある大切なものを失いたくないのだ。
景火は発火魔術で衝撃を打ち消そうとしているが、上階までの高さは少なくとも百メートルはあり、それは不可能に等しい。
諒世が使える魔術は、防御魔術だけだ。ずっと疑問に思っていた。
防御魔術しか使えないのには、きっと何か訳がある。
その意味を、今ここで証明出来なければ、他の力を失った意味がないと思った。
「《魔力壁》!!」
不思議とイメージがあった――それは、あらゆるものを防ぐ盾。
諒世は自身に残された唯一の可能性を揮った――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ある程度の痛みまでしかないアタラクシア・フィールドで、あり得ない激痛が頭から始まり全身へと至る。
ほんの一瞬、数秒にも満たない時間、昇天したかのような暗転と浮遊感が嗚咽感を誘った。
正座をし過ぎて足が痺れる。そんな感覚が全身を駆ける。目が回ってしまっていて、正常な視線を保てていない。
そんな中でも、身体は少しずつ回復の兆しを見せていた。
正常な思考が戻りかけてきた頃には身体、目前に横たわる自分以外の体躯を必死に動かそうとしていた。
かえでと来晴が、自由に身体を動かせないでいる諒世と景火を瓦礫の雨から守りつつ、安全地帯へと進む。
安全地帯と思われる非常階段の方へと移動している最中、楫次が突然この世の終わりかのような恐怖の眼差しで虚空を見つめていた。
背後から大きな地響きが聞こえ、ようやく気付く事が出来た。
背後に何かしらの危機が迫ってきている。同時に甲高く、耳を劈くような鳴き声。
ただ無意識に走った。手を引っ張ってくれるかえでの手には、拒絶は感じられなかった。むしろ、その逆だろう。
非常階段までは長いようで短かった。今度は息切れによる酸欠で、とても状況の把握をする余裕はなかった。
「《我――」
「和製コカトリスは絶対に倒せない……」
来晴が声の元に魔術を向けようとするが、かえでがそれを止めようとする。
「よかった……全員無事みたいだね。どうやら、フロア中央からは出られないみたいだね、あれ」
楫次が今まで走ってきた場所を指さして言った。
直径百メートルはある円形のフロアの四分の一を占める程の巨大鶏。景火を連れ去った魔術霊魔だ。
生き物のように蠢く八つの尾は、それは蛇の顔をしていた。
「――っいった……」
来晴に連れられた図体ばかり大きい身体が目を覚ます。
異常だった。魔術という不思議な力は現代では当たり前のように扱われているが、そんな常識すら覆す現実が目の前にあった。
そんな彼もまた、彼女の姿を見て、同じ表情を浮かべる。まるで鏡に映し出された自分自身のようだった。
「……どうしたの?」
珍しくかえでから切り出された質問。
生憎、対面する二人には、その質問に答えるための情報はなかった。
ようやく身体の感覚が完全に戻り、本来あるべき状態に戻ろうとしていたが、そこで初めて自分の身体の変化に気付く。
下半身を吹き抜ける開放感と、部分的に感じるフィット感。上半身、胸にいつもとは異なる重みがある。
何より視界である。いつもより二回り程低く、隅々にちらつくピンク色の髪。後頭部にも妙な重みがある。
そして、真正面に立っている自分自身に問いかける。
「もしかして……」
自分で発した声であるはずなのに、それは彼女の声だった。
「入れ替わってる……」
扇谷諒世と羽生景火はアバターが入れ替わってしまっていた――。