Phase_001_「夢を見ていた」
文字数 4,363文字
常識を問いただせ。問題を直視しろ。目を背けるな。
『――拒絶から逃げるな』
――何故なら、この世界は酷く醜く在って、矛盾ばかりだから。
アラーム音、鳥のさえずり、朝の支度で目まぐるしく動く人と物。
朝は何かと時間が無い。
当たり前で、何の変哲もない。一日で最も機能的な瞬間だ。
今日も起きてみれば、家族全員が笑って、皆揃って朝食が食べられる――。
そんな当たり前のようなことが、扇谷諒世の願いだ。
しかし起きてみれば、そこはあまりに静寂な日常で、慌ただしい朝はない。
ここまでの静寂に、諒世の肢体は凍えるようにして、掛布団に包まる。
決して良いアパートに住んでいるわけでも無い。春になっても朝が寒い時もある。間取りが良いというわけでも無いため、日差しはあまり取り込まれない。簡単に言うと、彼の自室には、季節外れの寒さが立ち込めていた。
「……くっそ、何でだよ……。また、あの夢か……」
夢を見る。同じ夢を何度も何度も。強制的に反芻される呪縛めいた夢。
もう一度瞳を閉じてしまえば、きっとまた同じことの繰り返しだ。こんな悪夢は繰り返したくない。こんな悪夢からはずっと目を背けたい。逃げ続けたい。
――そう思うからこそ、諒世は身を起こす。今日もまた、しどろもどろな起床に至る。
あの日、諒世の兄、灯世がアパートの屋上から飛び降りた時から、半年ちょっとが経過していた。
起きてから、それが悪夢ではないことに気が付く。
現実に起きてしまったことだ。
半年の間、諒世の背丈は異常なまでに伸びて、一八〇センチを優に超えていた。
身体が二回り近く大きくなり、目標だった魔法士学校の入学を果たしたところで、諒世の心はまだあの場所に置き去りにされている。
一通り支度を終えて、諒世が玄関を前にして身だしなみを整えている時だった。
制服のズボンのポケットから、不規則な振動とシンプルなコール音が伝わる。
「もしもし……」
右ポケットから取り出したのは、旧型の通信端末だ。
スマートフォンと呼ばれるタイプの世代程古くはないものの、大きく機能が変わっているわけでもない。
現在普及が進んでいる通信端末のスクウェアフォンは、超能力と見紛うほどの自動翻訳アプリが使えたり、魔術の補助が行えたりする。
しかし、諒世としては最低限の機能が使えれば良いので、旧式端末でも問題はない。
「もしもし……?」
通話相手と端末の世代が異なり、電波の送受信に支障を来しているのかと、諒世は再度丁寧に呼びかける。
ようやく繋がったと思えば、「ご飯ちゃんと食べてる?」「今日は入学式でしょ。遅刻しないようにね」と母親らしい心配事が連なって聞こえる。
「わかったって、大丈夫」
あしらうわけではなく事実を述べたまでである。しかし、次の一言でそれは翻る。
「灯兄は……いつも通りだよ」
諒世の表情が曇る。
父親は既に亡くなっており、母親は仕事の都合でほとんど家に帰ってくることはない。ということで、諒世の暮らしているこの家には、実質現在三人が暮らしている。
その内の一人である長男の扇谷灯世は引き籠りである。
母親は灯世の様子を知りたいということだったが、諒世はこれに関してはあしらってしまう。
ただ、言ったからには様子を確認する必要はあるだろうと、通話を切った事後確認となるが、諒世の足は灯世の部屋へと向かう。
扉の前まで来て、ノックしようと拳を握るが、それはほんの一瞬だった。
「
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
架夜を探すために、諒世は一頻り名前を呼んだ。しかし、自宅アパートにはいないようだった。
自宅付近は、至って普通の住宅街が広がり、その中でも廉価な六階建てアパートに居宅を構えている扇谷一家。アパートの隣に位置する、遊具といってもシーソーくらいしかない小さな公園。余暇の間、彼女は、この小さな公園で過ごしていることが多い。
そうして着いた先には、“赤い瞳”の女性がいた。タートルネックのカットソーにスキニーパンツといった装いでも、スタイルの良さを如何無く発揮している。淡い茶色の長髪で、大人びた落ち着きのある風貌、その立ち姿こそ目的の人物である扇谷架夜だった。
「やっぱここだったか、架夜姉……」
「あーくん、おはよう」
そう言って、架夜は柔らかい笑みを浮かべる。 諒世もそうだが、赤っぽい色味の瞳は遺伝のようだ。魔術を扱う人間、即ち魔術師は血の繋がりで、こういった特異な容姿が遺伝される。
瞳が赤かったり、赤みががった頭髪、年齢不相応の体躯、諒世はどれも当てはまるが、そのどれもが現代魔法社会では不思議なことではない。
「《オン・マリシ――」
これは魔術を行使するための詠唱だ。
高くてはっきりと聞き取れる声。
この類の詠唱は恐らく攻撃魔術。
これも現代魔法社会では、普通のこと――ではない。
「ッ――《
「――・エイ・ソワカ」
詠唱が重なる。
諒世は突然聞こえた声の方に向けて、手を突き出し、防御魔術を展開する。
防御魔術『
ありきたりな魔術、本来の諒世なら選択肢は山ほどあった。
でも、今はこれしかない。この防御魔術に縋る他ない。
諒世の手の先に、直径一メートル程の薄いガラスのようなものが現れる。
対して、迫り来るのは、魔術の師匠である神庭裕紀が作り出した発火魔術にも似た炎の群れ。
考える余地もないまま、諒世の|魔力壁《ディフェンスと火炎が衝突する。
「くッ――」
熱い。未完成の防御魔術では太刀打ちが出来ない。
上手く距離をとって逃げるしかない。
後ろには架夜がいるが、いつの間にか気配がなかった。架夜は事前に危険を察知して、自分の魔術で難を逃れていたのだろう。
なら、自分も正面からの衝突は避ける。
不幸中の幸いというのか、相手は、諒世が苦戦しているのを見て手加減をしたのか、火力が下がっている。
卸したての制服が焦げることだけは勘弁願いたい。
ここからは魔術ではない。とにかくフィジカルに、且つしっかり頭も動かしていく。
「ぬ……おらッ――」
言葉にならない声と共に、諒世は発火魔術に軌道から逸れ、その脇をすり抜ける。
火の発光と煙によって視界は遮られていたが、何となく気配のあった位置に諒世は全力でタックルし、持ち前の体格で地面に押さえつける。
「――きゃ」
「……え?」
女の子の声が聞こえる。それも諒世が押さえつけた人物から。
当然、身体が密着しているため、相手の様子が事細かに窺える。
諒世の目前には、諒世と同年代だと思しき少女がいた。
小さな顔を紅潮させ、その赤い瞳は諒世を睨みつけている。
「えっと……?」
「何すんの!」
「いや、先に仕掛けてきたのはそっちの方だろ!」
ピンク色の長髪が乱れている。諒世が覆いかぶさるように華奢な少女を押さえつけている。
ただ、正当防衛を主張すれば、諒世はきっと法の下で最適な処理が行われる。
きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、彼女の視線が動いたのに気が付いた。
「あーくんと
まるで他人事のように放れた位置から架夜の声。
諒世はその声でようやく自分の過ちに気付いた。
そう、右手が柔らかい何かを握っていた。
「はっ――すまん景火」
諒世は、急いで身体を起こし、少女から離れる。
「まさか二人がそんな関係だったなんてお姉さんびっくりしちゃったなぁ~」
「違う!」
否定する声が重なる。
「た……たく、なにやってんのよ全く……」
景火は声を震わせながら、立ち上がる。明らかに動揺しているように見える。さすがに諒世としても、か弱い女の子を押し倒してしまったのだから、しっかり改めて謝ろうと思う。
が、そんな気持ちより先だったのは、彼女のその服装だった。
赤を基調としたブレザーに単調な黒のスカート。
「あれ、その制服って確か……第六校の」
「そうそう、景火ちゃんも同じ学校だからねー。あーくんをよろしくお願いします」
そう言って架夜は軽く爆弾発言をして、景火に寄って、何故か背後から抱きついていた。
「景火、よく合格できたな……」
「バカにしないでくれる!? こう見えて、掛け算くらいは出来るから!」
既に調子を取り戻したのか、気持ちを切り替えて自信満々に言い放った景火だが、大きく空振りしてしまっている。
架夜は抱擁から逃れようと抵抗する景火を、その抜群のスタイルで押さえつけている。
「……こう見えて、景火ちゃん頭ハッピーセットだから、あーくんもよろしくね?」
「お、おぅ……」
架夜も言う時は言うのだと感心していると、扱いの酷さに耐え兼ねた景火がプンスカし始めた。
「二人して酷い! わたしそんなに頭悪くないし! もういいもん、先行ってるからね!」
「ちょ……待てって!」
架夜の抱擁から強引に脱出し、諒世の制止を振り切って、そのまま走り去ってしまった。
「幼馴染かぁ、いいなぁ」
「って言っても、架夜姉に言われるまでわからなかったよ」
「大きくなったもんねぇ……」
胸でないことを祈ろう。架夜程でもないし、平均くらいの大きさだった。
ただ身長も高いというわけでもないから、どちらとも言えないのがまた難儀だ。
だったら、容姿ではなく、中身かもしれない。
頭は悪いが、あの発火魔術が挨拶程度なら、恐ろしい才能だ。
いつの日か、幼い頃に喧嘩別れをして、それっきりだったので、彼女がここまで魔術が使えるというのには驚きだった。
「あーくん、そういえば何か用事があったんじゃない?」
「そうだった……」
すっかりと本来の目的を忘れ、再開に上書きされたが、問題を先延ばしにするわけにもいかない。
「灯兄のことだ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一度自宅に戻った二人は、灯世の扉の前で固まっていた。
架夜が軽くドアをノックする音が三度、決して長くはない廊下に響き渡った。
しばらくの無音が続く。
「やっぱり、ダメか……」
肩を
「諦める?」
「俺がいたらいつまでも出てこない」
灯世が心を許していないのは、家族の中では諒世のみだ。彼が今この場で外に出ないのもそれが理由である。
「俺には、この扉を開く事は出来ないんだよ……」
たったの扉一つが開けられない。届かない距離ではない。
忘れてはいけない事がある。
砂時計は傾いた。
「今日から、中学生か……」
魔法士になるという夢がある。
ただ、家族の一人ともまともに話せない自分が誰かを守ろうというのは、おこがましい話なのではないだろうか。