Phase_010_「灰色の涙」
文字数 6,242文字
諒世はいつもより二回り以上低くなった視界と、身体の感覚に逡巡していた。それは景火も同様のようで、二人はお互いの姿を見ては目を疑った。
「……その反応だと嘘ではないんね」
五山家
アタラクシア・フィールドで用いられているアバターは自身にそっくりな人形だ。
それを形成しているのは、事前に登録したデータで、本人が関与しているのは、その人形をどう動かすかである。
不具合によるものだろうが、ログアウトした際に、脳に悪い影響が無いか心配になる。
「まぁ……二人が無事で何よりだよ」
楫次が胸を撫で下ろす。
当事者の諒世としては、不思議と身体の感覚に慣れてきているのが、返って不安で堪らない。
そもそも、この状態で魔術は正常に機能するのか。
魔術は、強い意志、
つまり、諒世の
ただ、諒世の使う魔術は一つだけだ。『魔力壁』は、
景火が保持している
「《
両者が使える魔術であれば、魔術はキャンセルされない。
しかし、諒世の前には、いつもの半透明の盾が現れることはなかった。
「景火……これってどういう――」
そこから導き出される解。それは景火が防御魔術を使えないということだ。
諒世は、景火に説明を求めるため、視線を持ち上げる。
「って何やってんだ?」
僅かに赤みががった頭髪に、一八〇センチほどある身長。筋肉質な体躯。
そこまで露出していたつもりはないが、下半身に当たる部分が大きく肌蹴ていた。
諒世の制服のベルトの金具部分が音を立てて床と接触する。
中身である景火が、諒世のアバターで服を脱ぎ始めていたのだ。
その右手が、下着のさらにその先、男の大事な部分に触れていた。
「え?」
「はあああああああああああああああ!?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
異性と身体が入れ替わるなんて、この現代魔法社会でも、まるで魔法のようだと言ってしまいそうなくらい物珍しい現象だ。
その上、アタラクシア・フィールドは、現実との相違が全くないと言っても過言ではない。
その未知の現象に興味がそそられないわけがない。
「ごめんなさい」
何を思ったのか、景火は諒世の身体で気になる箇所を触っていたようだった。
胸板もそうだが、特に男の象徴たる股間部の突起に彼女は終始興味津々だった。
ベルトを緩めて興味本意で弄っていたのが、諒世にばれてしまい、暫しの説教を経て、今に至る。
「だって、ち〇こよ!? 初めて触った、気持ち悪い……」
ご満悦というよりかは、希望が絶望に変わったような表情の景火。
「えぇ……」
彼女が先に一線を越えなければ、自分がその立場だったかもしれないと考えると、平常心を保てたのは彼女のおかげだとも考えられた。
それに幼馴染である景火の新たな一面を垣間見ることが出来たのは、その場の緊張感を和らげることになった。
「ところで、景火の方は魔術、使えるのか? まぁ俺の身体だと
「と、当然出来るに決まってるじゃない! そんなの余裕なんだからっ……」
諒世の姿と声で、バレバレの嘘を吐く景火。
諒世の予想が当たっていた。
「ディ……《
「やっぱり……」
そんな気はしていた。路地裏で送り犬ゴーレムに追い込まれたときも、景火は防御魔術を使わなかった。
景火の詠唱に防御魔術は応じない。
「景火、防御魔術使えないのか……」
「別に、使えなくても、
そう言って、諒世がいつの間にか握っていたクラゼヴォ・モルを強引に奪い取る。
「ぐぬぬ……重い……どうして……」
景火の身長程ある大剣だ。諒世の男の身体でも、容易に振り回すことは出来ない。
しかし、不思議だ。諒世の身体で難しいのに、景火の身体では容易に取り扱える。
何らかの魔術が、景火と武器の間に残っているのだろう。入れ替わる前の魔術はその効果が適応され続けていると考えられる。
景火は止む無く、魔術武装を諒世に渡した。
そんなやり取りをしながら、諒世達は螺旋フロアとは異なるシンプルな階段を上り終え、踊り場に出ていた。
「壱岐くんはこの先だ……早く行かないと……」
楫次の言う通り、今にも秀策がピンチに陥ってるかもしれないのに、こんな場所で油を売っているわけにはいかない。
「あれ……何だろう?」
楫次が指を指した扉の反対側にある壁を、景火は指差す。
中央に陰という文字が描かれた魔法円に勾玉模様の発光。
そして、その光から浮かび上がるようにして現れた骸骨。所々に甲冑や刀などの装備が施されているが、錆びていたり部分的であったり不完全である。
しかし、こういった屍を用いた魔術霊魔の特徴としては死なないということがある。そもそも屍を利用して行われるもので、これ以上の死はその肉体にはない。ものによっては再生するため、非常に厄介な敵であることに変わりはない。
景火は魔術も何も使えないのに、ファイティングポーズを取り始める。
「こんなもん相手にしてられるか。捨て問だ。逃げるぞ!」
こういう時に景火の猪突猛進な性格は活きない。諒世はそんなマイペースな景火の服を強引に掴んだ。
襟首には手が届かず、袖を引っ張る形になって、今は自分の方が身長が低いと思うと、諒世は、もどかしい気持ちになった。
「よし、じゃあここで溶接するよ!」
全員が扉の先へと移動すると、楫次は扉を閉め、魔術符を扉本体から外枠にかけて貼り付ける。
すると、魔術符が発火し、扉の金属が変形し溶接される。
「楫次くん、昔からそういうマメなとこあるんよね」
「まぁ僕にはこれくらいしか出来ないから……それに問題はここからだから」
扉の先の薄暗い通路を抜け、角を曲がると異様な光景が広がる。
「うわ、何これきっも……」
合流した先で景火が諒世の声で一言放った。
オフィスビルのデスク室や会議室を繋ぐ狭い廊下。そこには、蜘蛛の巣のような白い糸が放射状に展開されており、見渡す限り全室に張り巡らされていた。
景火は言葉とは裏腹に、ナイフを鞘から取り出し、一人で突き進み始める。
「ちょ待って羽生さん!」
「ふぇ……うわ、この糸すごい貼りつく……!」
普段の小柄な体型とは違って、今の景火は諒世のアバターだ。
ナイフで蜘蛛の巣を切ろうというところまでは良かったが、予想以上に身体糸に触れてしまっていた。
身動きをして解こうとするが、景火から糸は剥がれ落ちるどころか、飲み込まれそうになっていく。
「これは……まずい! 景火、服を脱げ!」
「え……」
「何でそこで顔を赤らめるんだよ! いいから脱げ!」
何か勘違いをしたのか、景火は顔を赤らめる。さっきは自分から服を脱いでいたくせに、こっちが脱がせようとしたら、この反応である。
少女に無理やり服を脱がされている少年という、何ともシュールな光景に、楫次と来晴は苦笑いする。
景火にパーカーを脱がせることで何とか脱出することが出来たが、当のパーカーはみるみる糸に包まれていき、最終的には原型を留めず毛玉のような形状となった。
「一旦隠れましょ、これはあかん」
景火以外は全員ある程度状況を掴んでいるようで、曲がり角の前まで後退する。
「何で? そのまま突っ込んじゃえばよくない?」
「何が何でも!」
こうなったら景火は聞く耳を持たない。適当な言葉を投げる諒世としては、説明している時間も惜しいため、何人かで強引に一八〇センチの巨体を引き戻す。
曲がり角の陰に身を潜めていると、先程のスケルトンが二体ほど新たに現れ、糸玉の中身を確認し始めた。
スケルトンには蜘蛛の巣の効力が無いのか、透き抜けている。
「やっぱり。蜘蛛の巣がセンサーみたいになってるんな」
景火以外の全員が確証を得たところで、後方の扉から激しく音が鳴り響く。
「溶接用の魔術符はもうないよ……」
楫次は後方のスケルトンの襲撃に備えて、魔術武装を構える。
逃げ場が無くなってしまった。諒世も景火も魔術が使えない。対して、来晴やかえでのような有力な切り札もあるが、蜘蛛の巣が持つセンサーに見つかる可能性が高い。
考えがまとまるよりも先に、動いたのは状況の方だった。
蜘蛛の巣の先、廊下の奥から何度か爆発音が鳴り響く。それに釣られ、囮パーカーの近くにいたスケルトンが動き出した。
諒世の感じていた不安が一気に跳ね上がる。この先でも戦闘が起きている。秀策が心配になる一方で、目前のスケルトンという障害が取り払われた。
「これで行けるんじゃないの?」
一足先に駆け出した景火を止めることが出来ず、四人もそれに追随する。
しかし、結局蜘蛛の巣の前で足が止まってしまう。そこで諒世が何かに気付いたように話し出す。
「縦糸が千切れてる……」
蜘蛛の巣が張り巡らされている中でも、いくつかは床に落ちていて効力を失っている。縦糸にあたる部分だけが一定間隔で分断されている。
蜘蛛の巣の構造は、粘着力の強い横糸とそうでない縦糸で成っている。縦糸をクラゼヴォ・モルで突くがビクともしない。
「ちょっと! 『クラゼヴォ・モル』変に使わないでよね!」
武器への愛着は人一倍あるのか、景火に止められる。
「壱岐くんがいれば、何とかできるんだけどなぁ……」
秀策がこの先にいるということは、彼にはこの糸を断つ術があったということだ。
「ちょっと下がってて」
「かえで……?」
かえでは諒世達の前に出て、何かしらの魔術の準備を始めようとした。
「《傷つける
和語詠唱。普段のかえでの詠唱言語は、外国語だが今回は違った。
珍しい型ではあるが、北欧神話の記されている書物で度々用いられる語法ケニングであることまでは理解出来る。
詠唱は母語で行うものが最も効力が高い。例えば、北欧神話であれば、原典にある言語の古ノルド語で詠唱する方が効力は強い。
もちろん母語でもなく、現代語でもない分最効率は求められない。そういった言語選びの塩梅もまた
詠唱と同時に金属が擦り合う音が何度か聞こえ、廊下の縦糸が微塵切りされる。
魔術の
この縦糸の役割は、横糸の粘着力や構造自体を維持するための動力線で、魔術師と魔術霊魔を繋ぐ契約線に近い。
こういった構造の縦糸を切るには、
アタラクシア・フィールドでは、
思えば、メンバーの情報を見ても、かえでには
なのにも関わらず、来晴と同等の威力を持った氷結魔術を始めに、見たこともない魔術を使う。
ただ、そんなことが分かったとして、彼女のことを理解することは出来ない。
かえでは、螺旋フロアで諒世を突き放したのにも関わらず、未だにこうして手助けをしてくれている。
もしかしたら、そんな期待感を諒世は抱いた。ただ、それも一時の感情の揺らぎに過ぎない。
廊下を抜けると、そこには吹き抜けの空間とそれを囲うようにフロアが何層にも連なっている光景だった。オフィスビルのフロントだろうか。所々エスカレーターも動いている。
やはり蜘蛛の巣が一面に張り巡らされているが、先ほどの狭いフロアに比べると身動きが全く出来ないというわけではなかった。
秀策が通路を確保するために切り落としたであろう蜘蛛の巣を辿りながら進んでいく。
秀策は、階上を目指したのか、蜘蛛の巣の残骸がエスカレーターに続いていた。
「あれ何……?」
楫次は眼鏡を着脱したり、目を凝らしているが断定には至っていない。
彼が指す場所は遥か階上だった。吹き抜けは何十階にも連なっている上に、蜘蛛の巣がそれを幾重にも阻む。
諒世もその先に目を凝らす。
今まで狭い空間にいたからか、景火のアバターの視力の良さに驚かされた。
人種によっては数百メートル先の文字が読めるとあるが、彼女の瞳にはそういった人種と同等のものがあった。
巨大な蜘蛛と、人が一人。
蜘蛛の脚の一つに刺さっているナイフで断定に至った。
「SALT FORCE/2033 KUROGANE-SAQ301」。景火の視力は、ナイフの刻印まで明確に映し出した。
ただ、気付いた頃には遅かった。
さらにその階上にもう一人の人影。
美術館で会った。金髪赤眼の認識魔術の使い手だ。手に持っている手榴弾を無慈悲に蜘蛛の方へと投げる。
「秀策!!」
本来の自分の声ではない高い声が響いた。
同時に、理不尽な現実が爆発と共に訪れた。
「あ……ぁ」
自身の視界に表示される脱落者数が一つ増えた事で確信する。
爆風の先で何事も無かったかのように少年は立ち去っていく。
蜘蛛の魔術霊魔が絶命し、無残にも天から落ちて来るだけで、後には何も残らない。
所々ある蜘蛛の巣も根源であった本体が消えたことで、効力を失い消えていく。
「……気持ちはわかるんやけど、でもそんなに悲しむ必要は……ましてや自分やないんよ……?」
来晴のフォローは何処か価値観の違うものだった。
だからと言って、来晴を責める気にはならない。彼女の言うことは確かに正しい。
極論、自分さえ脱落しなければ問題はないのだ。
ただ、諒世にとっては、自分よりも他者が大事なのだ。
何より、秀策が魔法士になりたい理由を知ってしまった。そして、心の何処かで共感していて、知り合ったばかりなのに、他人事のようには思えなかったのだ。
これ以上、自分の知る人間を離したくない。実際に死ぬわけでもないのに、諒世はただ悔しいと思った。
「そうじゃないんだよ……そうじゃ……」
涙が出ない。きっとそれは、あの日に出し尽くしたからだろう。『拒絶逃避』の始まった半年前に。
力を失い、蜘蛛は原型を失い灰となる。散り散りになって降り注ぐ一粒一粒が諒世の見えない涙を代弁してくれているようだった――。