Pause_003_『不具合と拒絶』
文字数 3,004文字
佐藤かえでには、普通の在り来たりな喜劇を歩みたいという願いがある。
普通なんて人それぞれ。幸せと不幸せは隣り合わせ。この世は美味しいものだけではない。
誰かがどこかで声を上げているだろう。こんな表面上の言葉はネット上の呟きにいくらでも流れていて、目を塞ぎたくなるくらいに溢れかえっている。
何度――同じ朝を迎えたことだろうか。
何度――同じ道を通ったことだろうか。
何度――同じ人を想ったことだろうか。
かえでは、まだ僅かに寒気の残る朝の風を直に受けて、またこの春が来たと実感する。
道を往く人々は、この春を一度しか経験しないだろう。
かえでは、この春をもう幾度も繰り返している。二〇三八年の四月五日という日を、自分の年齢よりも多く経験している。
「ラーメン万次郎」という看板が目印だ。
かえでは空腹なわけでも、ラーメンが食べたいわけでもない。
目的地がこの先にあるという話なだけだ。
スクウェアフォンの地図アプリは必要ない。
もはや、何度も攻略したダンジョンで、何処で何が沸くかさえも理解していて、効率的な狩りさえも容易な状態と言える。
しかし、これはゲームではない。それだけは認めざるを得ない明々たる事実だ。
雑居ビルの屋上伝いに、見晴らしの良いところまで移動する。
そして決まった時間、決まった場所で、いつもと同じように、ある人物が“助けに来る”前に怪物を倒す。
それが、この季節の恒例行事だ。
しかし、何かがおかしい。
時間になっても、怪物もその人物も現れない。
同じ時を繰り返したところで、同じルートで事が進むわけではない。
が、この結果は、いつも変わらず、同じ時間同じ場所と決まっているのだ。
それが絶対のルールであり、かえではその変え得ぬ事象を「運命」と呼んでいた。
この日は、その運命が歪み始めていたのだ。
変わらぬと分かっていても、ずっと変えようと努力してきた。
それがこんな形で、呆気なく変わってしまうと、返って胸騒ぎがした。
髪が真っ白に染まっていることから、この魔法のような魔術による永遠の時間も最後なのだと確信をしていたはずだったが、まさかそれが今訪れるのでないかと不安な気持ちでいっぱいになる。
本当は夢でも見ていた。夢から覚めると、寝言のようにかえでは、同じ時間を繰り返したと言って笑いものにされる。
そうであってほしい。これは性質の悪い夢だ。
何度そう思ったことか分からない。
でも、これは夢でもなく、ゲームでもない。
非現実的なことをずっと体験してきたのにも関わらず、こんな小さな変化が怖い。
怖いと思うと同時に、希望のようなものを僅かに感じつつあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一通り、その路地裏を見て回って、かえでは、やはり自分がかつて「助けて」と言った場所まで戻って来た。
そしてようやく彼を見つけることが出来た。
怪物、送り犬ゴーレムの姿も確認する。
魔法士を構成する魔法派と呼ばれる派閥があり、その組織と対立関係にある魔導派という組織が、今朝の事件の主犯だ。
魔術が表の世界に露呈して、魔法が世界を拘束する以前は、魔導派が実権を握っていたが、その体制は瓦解せざるを得なかった。
未だ、魔術は限られた人間のみが扱うべきだと主張する魔導派による魔法士への挑発行為。
この日の渋滞は、魔導派による魔術のジャミングが行われ、魔法科学で成り立っている自動運転システムに支障を来したせいだ。
もちろん、魔法派による人払いの陣の影響もある。
そして、そんな中、少年の自転車は必ずパンクをして、近道を余儀なくされる。
「ラーメン万次郎」という看板の脇から路地裏へと入り、事件へと巻き込まれる。
これはそういう運命なのだ。
しかし、そんな運命のただ中にいる少年と怪物の間には、かえでが見たこともないピンク色の髪の少女がいた。
あり得ないなんてことは、大概あり得ないのだ。
どんな世界であろうと、矛盾が起こらないように回るように出来ている。
そう――目の前にいる彼女の存在はまるで矛盾そのものだった。
ゲームの中に生じた不具合を奇々として眺めるように、その少女のことを目で追っていた。
不安と期待感が胸の奥でせめぎ合う。
しばらく見守っていると、少年が必死に少女のことを守ろうとしているのが一目で分かった。
彼は相手が自分でなくとも、多少のイレギュラーがあっても、やることを曲げない。
彼が誰かを守ろうとする限りは、この運命――そしてこの先、彼に降り注ぐ悲劇は避けられない。
「《
小さな不具合だ。対象の時間を縛る魔術で、少し手を加えれば、彼はきっといつものように乗り越える。
安心感と共に、やはり何度やっても同じ結末を辿ることに変わりはないのだと、諦めのような気持ちを抱く。
かえでは、普通なら骨折でもするような高さの屋上から何食わぬ顔で飛び降り、地面に着地する。
最初とは大違いだ。何度も繰り返している内に、自分の内にある悪魔の力を自由に扱えるようになっていった。
しかし、上手に扱えるに連れ、自分が自分ではなくなっていくようなそんな感じもしていた。
少なくとも、普通ではないだろう。送り犬ゴーレムに怯えることもない。
路地裏から出て、登校して、いつものように入学試験が行われる。
そして、そこで諒世と出会い、最後に戦う巨大鶏――和製コカトリスに敗北する。
これが一連の流れだ。かえでにとってはおおよそ全てがネタバレ状態なのだ。
「やっぱり、いた……さっきはどうもありがとう」
「え……?」
一連の流れに変わりはないはずだ。そういう仕組みで、この世界は構成されている。
その一部の歯車でしかないのに、ここで少年から声を掛けられることは決してないはずなのに、彼はそこにいた。
「それと……助けて、ってのは? いやこっちが助けられちゃったからさ……」
苦笑しながら、遠慮がちに彼はそう言った。
「助けて」など一言も言っていない。言ったのは、ずっと昔のつい先程だ。
ではピンク色の髪の少女が言ったのと聞き間違えたのだろうか。
そんなことはない。かえでから見ても、彼女がそんなことを言うタイプではないことくらい分かっていた。
だったら、“もしかすると”――そう思ってしまった。
「もしかして――覚えてる?」
「覚えてる? ……何を?
「私の名前……
「なんか甘そうな名前だな……。どっかで会ってたっけ……ごめん物忘れが激しいってわけじゃないんだけど――」
早とちりだった。何を期待してしまったのだろう。
過去ではなく、別の時間のことを覚えているわけがない。
そんな当たり前のことすら見落としてしまう程に、かえでは消耗しきっていた。
もういっそ諦めてしまいたい。何をすれば良いのか、どうすればこの想いが彼に届くのか分からない。
「――やっぱりおぼえてない。期待したわたしがバカだった――ッ」
そうだ。いっそ彼を否定して、彼の
もう、こんな期待感に振り回されるのは嫌だ。
だったら、とことん運命も、運命を決する彼の魔術理念も、全てを拒絶しよう。
それが諒世を――扇谷諒世を、死という運命から遠ざける唯一の方法というのなら、かえでは諦めない。