Phase_014_「矛盾なんてぶち壊せ」
文字数 10,285文字
作戦会議を終え、諒世は一足先に集合場所の扉の前に来ていた。
これで合否が決まる。緊張感は拭えない。
「吐き気は治ったか?」
「ま、まぁ何とか」
作戦会議中も、来晴はずっと口元を押さえていていたが、どうやらようやく酔いが醒めてきたようだ。彼女とは、しっかりと話しておかねばならないことがある。
「あの時はありがとう。何だかんだで、俺を叱ってくれて……」
「ウチとしては、ほんとに嫌やっただけやけどね」
来晴は少し恥ずかしそうにして、はにかむ。
「あと、これ持っとき」
「これは……盾型『グリップ』?」
来晴から手渡されたのは、角が少しだけ丸みを帯びている黒色の物体だった。片面は平らだが、もう片面は握りやすいように滑らかな凹凸がある。グリップという名前の通り、掌で握るとちょうど隠れるほどのサイズだ。魔法士の公式魔術武装として用いられるもので、来晴は諒世達と同様に、これを道中で拾っていたのだろう。
「それももう必要ないくらいに、諒世くんは強くなったと思う。でも、あるものは使う。ウチ間違ったこと言ってるかな?」
「いや、ありがとう。そうだな。いない秀策の分まで、全力を出し尽くす」
合否をかけた
これまで多くの問題に挑戦し、考え、悩み、苦しんだ。仲間を失い、自身の
それでも、扇谷諒世はここまで立ってこられた。
足の裏に直に地面の冷たさが伝わる。例えでもなく、諒世は現在素足だった。
来晴と以外のメンバーも集まり始めてところで、諒世は喋り始める。
「皆、作戦はちゃんと理解したよな?」
ボス部屋に至る扉を前に、扇谷諒世、佐藤かえで、羽生景火、端山来晴、奥崎楫次の五人は作戦会議や装備のチェック等といった一連の作業を終えた。作戦を考えた諒世が今一度各々に再確認を促す。彼が素足であるのもまた作戦の内の一つである。
「一つだけ質問」
「どうぞ」
五山家という象徴もあり、この五人の中では発言力の強い来晴が挙手する。
「ウチはもう魔石がほとんど使えないし、火の魔術は使えない。
端山来晴は、
「常識を問いただせ、というのが師匠の言葉でな。魔術ってのは認識に依存している。捨て問は無い。一発で終わらせるつもりだ」
人除けの膜の時もそうだった。塗壁の時も、美術館での認識魔術も同様。あらゆる局面において、諒世は“当たり前”を看破した。
「私んとこの師匠と同じこと言ってる……。それより、一発で終わらなかったら?」
来晴が言わなければ誰かが言う。景火は無垢で浅知恵だが、コカトリスに一度敗北しているからこそ彼女は警戒心を解かない。
「和製コカトリス関連の情報はかえでが言った通りだ。そこに結果論はない。かえでが俺たちを信じて言ったことなら、俺はかえでを信じたい」
何より諒世は、運命を変えられるかどうかを試してみたいのである。佐藤かえでという少女が何を見ているのかが、今は分かる。存在し得ない未来だ。だから、彼女の眼は虚像を見ているように思えてしまうのだろう。ただ、その眼に映る景色が喜劇や悲劇といった誰かに作られたフィクションではなく、紛れもない現実を写した時、彼女はどんな表情をするのだろうか。こういう時ばかりは、都合の良い想像に甘んじる諒世。
「んーいきってるねぇ諒世くん。それに良い顔つきになった。おっけ、ウチは賛成」
来晴は満足げに頷きながら諒世に賛同した。嫌いだと拒絶を示した彼女が、今は扇谷諒世という人物をしっかりと認めている。
「景火、頼む」
諒世は順を追って誠意を伝える。
「……今回だけだからね! その代わり一回だけ言うこと聞いてもらうから」
軽く頭を下げる諒世に、ぶっきらぼうに返事をする景火。頭を上げると、言葉とは裏腹に諒世の目を真正面から捉えていた。真っ直ぐな彼女だからこその表意の示し方だろう。
「楫次……」
この作戦は楫次と共に考えたものでもある。彼の力無くして成立はしない。奥崎楫次は人が気付きもしない事に着眼するほど聡明であるが、それに伴う自信が無い。
先の戦闘で、何も出来なかったことが
「大丈夫、たぶん」
身の丈に合っていないようにしか見えない巨大な戦鎚型の魔術武装。その柄の部分を楫次は強く握っていた。
「じゃあ行こう、かえで」
諒世はかえでに手を差し伸ばす。
「――うん」
セーブ地点は無い。ここから先に行けば引き返せない。
それでも彼女は手を取り、今度は一人ではなく、仲間と共に一歩前へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
扉の窪みに刀を差し込むと、発光と共に扉が開いた。中に入ると、やはり円形のフロアで、これまでと変わらない薄暗い場所だった。ただ違う点があるとするなら、頭上は吹き抜けとなっており、紺碧の空から光が差し込んでいる。そして、いくつかの緩い段差を下ったフロア中央には、五角形の
円や正五角形は魔術的な力を集約させるには最も効率の良い形状とされている。頭上から差し込む光はちょうど祠をライトアップするような加減になっており、この空間に何かしらの陣を築いているようにも感じられた。陰となっている場所には所々シダやコケが生殖している。
「何もいないんだけど……?」
鍵の役割を終えた聖剣を携えながら、景火は段差を降りる。
「五山家のルーツとなる地。
来晴にとっては馴染みのある場所なのか、含みのある言葉を連ねる。
一つの作られた試験であり、
来晴曰く『来光の祠』は、
扉を開く鍵は、温泉の湯でも窪みに合う剣でも構わない。しかし、どちらか一方しか選べないような仕組みとなっている。
かえで曰く、八塩折があれば、和製コカトリスの動きを封じることが出来て、天羽々斬でなければ和製コカトリスの尾羽を構成するヤマタノオロチを断てないという。試験の模範解答としては、矛か盾を補う解を受験者が見出し撃破することだろう。しかし、この和製コカトリスに関しては、先の神霊オルトロスより遥かに上位の捨て問――ゲームにおけるバランスブレイカーであるとかえでは言った。
正解出来ることを前提としない意地悪な問題というのは様々な試験に存在する。この世に存在するテストにおいて、合格基準が満点であるものはほとんどないだろう。
それでも、佐藤かえでがこのゲームのクリアを目指すのであれば、諒世はその意志に従いたいと思うのだった。
「さて、おいでなすったな」
頭上から激しい風圧が襲う。和製コカトリスが二本脚と尾羽の蛇で祠を蹂躙する。
途中からは落下だったため、その衝撃で壊れた祠の木片がいくつか飛散した。各々防御や回避をするだけで精一杯だった――ただ一人を除いて。
「《オン・マリシ・エイ・ソワカ》《タイ捨羽生流一の太刀『
人間離れした跳躍力と身のこなしで、和製コカトリスの尾の一つに切りかかる。大きな切り傷が浮かび上がるのと同時に、赤い血が噴き出し、
空手の型として存在する『燕飛』であるが、彼女はその考え方を剣術や魔術に組み込む事によって飛躍的な移動を可能としている。人は地上での戦いには長けているが空中での戦いには不向きである。この『燕飛』は対空戦闘をベースとしてタイ捨羽生流に転用されたものである。かえでの見せた飛行魔術の類には勝らないものの、地空両刀の敏捷性を得ることが出来る。重く感じない魔術武装に、水面に浮くほどの軽さを得る性質。それらは、諒世がアバターの入れ替わりで実感していたことだった。
作戦会議中に景火が打ち明けた能力はこれ以外にもある。
「《オン・イダテイタ・モコテイタ・ソワカ》《タイ捨羽生流二の太刀『
景火は迷うこと無く次の一手に入る。
タイ捨羽生流には四つの性質がある。四つのタイ――体・待・対・太を“捨てる”ことにより一時的な自身の強化や神仏の加護を得る。今では魔術という
二回目の斬撃で、景火は和製コカトリスの尾の一つを完全に切り落とした。
体を捨てる『燕飛』の次は、さらなら速さを得るために“待”を捨てる。そして唱えられる
「《ウン・ハッタ》!」
力を強め、解き放つ意味の真言を所々に挟みながら、景火は目にも止まらぬ速さで、コカトリスの全身に傷を負わせていく。
一方、諒世達は外壁を伝って、フロアをぐるりと回っていた。
楫次が壁面にひしめくシダやコケを触れながら、ここだと呟く。楫次は景火のような超感覚は持ち合わせていないが、彼は誰もが見落とすような点を補うことが出来る。掌に魔力を集約させ、三〇センチ程の杭を作り出す。
作戦の要石でもある彼のその作業の脇では景火が時間を稼いでいる。
景火の剣舞は終わらない。彼女一人でも倒せてしまうのではないか。しかし、その考えとは裏腹に、彼女の顔が大粒の汗と血と険しい表情で埋め尽くされていく。
羽生景火には防御魔術が使えない。彼女は攻撃の手を止めれば、自身を守る術が無い。攻撃を最大の防御とするしかないのだ。
「《エルフの誉れよ、陽光の如く照らせ》」
暗がりから放たれたかえでの発光魔術が、景火に四人の位置を伝えるシグナルとなる。
景火は一旦攻撃を中断し、全速力で四人のいる位置へと向かう。
コカトリスは傷を負った尾を背にして景火を追う。鶏頭の瞳が一瞬だけ煌めいた。
「《タイ捨羽生流三の太刀『
現実では起こり得ないことでも、アタラクシア・フィールドでは起こり得る。鶏頭の眼から高密度のレーザーが射出される姿は異様そのものだった。糸のように細い光の束は、祠の破片や段差の一部を両断していく。景火もまたその視線に入っていたはずだが、その姿がどこにも見当たらない。これが、三つめの
どこからともなく
第二射が景火を襲う。景火は立つのもままならない程に消耗しており、認識魔術も解けていた。
「《
二つの声が重なる。諒世と来晴の防御魔術がよろめく景火の前に展開された。来晴は詠唱を問わずに、自身の中でイメージのしやすい言葉で盾を形成出来るが、そうしなかったのもまた作戦の一つである。同じ詠唱を同じタイミング、ほぼ同位置に展開させることで、本来打ち消し合う関係にある魔術同士の衝突を避ける。それにより同一の盾だという認識をしやすくし、二人分の魔力壁を展開することが出来る。また、来晴の盾の性質は氷であり、彼女の内なる
彼女の残りの魔力や魔術汚染の度合いではカバーしきれないため、諒世がその補助に回る形でレーザーをいなす。完全に威力を殺す必要は無く屈折させる程度で良い。形成された氷の盾に当たったレーザーが屈折し、楫次の近くの壁面を破砕した。
「ここまで距離が詰められたら十分だ、景火。あとは――」
諒世は楫次の方を見つめる。そう遠くはない距離だから彼の手が震えていることにも気付くことが出来た。
こんな時、彼に向ける言葉は何が最適かと考えてしまうのが彼の『拒絶逃避』の性質を如実に表している。
「何びびっとんのな、楫次くん!」
対し、自身の考えに真っ直ぐな端山来晴の理念がフロアに響いた。
奥崎楫次にはどんな言葉でも良かったのかもしれない。彼は自身の背中を押す強い何かさえあれば動ける。
楫次は鎚の頭を杭に強く打ち付けた。一見、単に杭が打ち込まれるだけだが、彼の魔術武装は欠損を大きく広げる力を持っている。白馬鑓導影がソードブレイカーの性質を建物にまで適応させたのと同様に、楫次は全身全霊でその力を壁面に押し込んだ。
レーザーによって作られた一筋の亀裂から次第に小さい亀裂がいくつも生じ、そして大きな爆音と共に砕けた。
暗くて先の見えない大きな穴から蒸気が立ち込める。それに次いで水飛沫がコカトリスのいる方へと噴出し始めた。
「近くに温泉があるなら、そのための源泉があるに違いない。シダやコケはじめじめした場所を好む。比較的多く茂ってる場所ほど源泉が近い。そこを叩いて、八塩折を強引に呼び出す。良かった……僕は正しかったよ……」
楫次は全ての力を使い切ったのか、そう言って力無く壁面にもたれ掛かる。
要石は投げられた。矛と盾が揃う。ここからが勝負だ。
「しかし、よく思いつくわね、こんな作戦。馬鹿なの?」
コカトリスが動揺した隙に景火は苦無を両目に投擲する。見事二本とも眼球に命中し、翼を羽ばたかせ、のたうち回るコカトリス。そこにかえでの拘束魔術が展開され、動きが封じられる。伝承通り、八塩折の酒気は、尾羽の蛇に眠りをもたらした。それでも鶏の部分は荒ぶり、羽が辺りに舞う。
「馬鹿で《結構――」
「――コケコッコー》!」
寒いオヤジギャグだが、これもある種の詠唱であり魔術である。対象である鶏を意識させる言葉と、寒いという氷結魔術の能力を強める要素。魔術師の真髄を築山流一は「馬鹿と天才は紙一重であり表裏一体」と言った。馬鹿であるということは同時に才を持つことでもある。
来晴は流石に恥ずかしいのか、顔を赤く染め上げながら鶏の鳴き声をまねた。しかし、これは彼女の持つ言霊あっての強みである。
すると、今までにないほどの魔力の潮流が生じ、辺りの蒸気さえもダイヤモンドダストのように結晶化させ、対象であるコカトリスのみを脚から胴体にかけて氷漬けにした。
「《タイ捨羽生流四の太刀『
景火も力の限りの魔術を背後の尾羽に向けた。霧状の冷気が天羽々斬に纏い、コカトリスの体長を優に超える刀身が尾羽に振り下ろされる。八塩折という盾を纏った天羽々斬という矛を以て、全ての尾が切断された。同時に天羽々斬の刀身が折れる。伝説上、ヤマタノオロチ討伐の末に聖剣は折れ、中身からは魔剣『
「全てを溶かす液……来る! 《
かえでは術式の効果を強めるために、諒世達がいるコカトリスの目前まで来ていた。しかし、彼女の拘束では間に合わない。
「《我、
諒世達に迫る白い嘔吐物を来晴の手が阻む。地に接触した場所からコカトリスの溶解液が凍り、嘴まで凍った嘔吐物の橋が架かる。
かえでのグレイプニルと、来晴の氷神の力でコカトリスは完全にその場に固定された。後はその顔面に一撃を叩きこむのみだ。
折れた天羽々斬を捨て、クラゼヴォ・モルに持ち替えた景火も準備万端と言わんばかりに駆けよって来たが、凍結した地面に足を滑らす。
「っと危ない。大丈夫か、景火」
「そんなこと言ってアンタもフラフラじゃない」
景火を支える諒世も、魔力の消耗と魔術汚染で身体がまともに動かせない。
「――こんな、あともう少しなのに……」
来晴は手を翳し続け、魔術を維持し続けている。楫次にも余力はない。
作戦通りであれば、後は諒世と景火の役割だが、それを行うだけの余力が残されていない。諦められない気持ちだけが、ただその場所に根を張る。
「大丈夫……」
儚げで凛とした声。小さな手が諒世と景火の手を優しく握った。
清血能力。魔術汚染の自然治癒を急激に速める魔術の一種。契約した者との間にのみ行われる高度な清血を諒世と景火は、かえでの手の温もりを通して感じる。彼女の諦められないという気持ちが二人の気持ちとリンクする。
立っていられない程消耗していたが、今では身体の底から力が
「かえで!」
やり終えたかのように、かえでの身体は一瞬傾きかけたが、それでも彼女はしっかりと立っていた。拘束魔術を解くわけにはいかないのだ。
「諒世、約束……」
諒世は、いつ彼女と契約の儀を行ったのか思い出せないでいたが、その言葉でようやく気付くことが出来た。
かえでが小指を立てて諒世に見せる。『指切り』は約束、信頼の証――契約だ。
景火にも契約の効果が反映されているのは、入れ替わりの不具合の残滓か何かだろう。
不具合が直ってもなお、諒世と景火のアバターの状態は不安定だ。矛盾した現象だが、今はそれさえも奇跡のように思える。
「絶対守るからな、約束!」
諒世も右手の薬指を立てて、彼女の僅かな微笑みに応える。
「おっし、行くぞ景火」
諒世は景火を肩車して持ち上げる。不格好な外見だが、これが彼らの出した答えだった。
「言われなくても分かってる!」
景火は両手でしっかりとグラゼヴォ・モルの柄を握り、諒世は景火を支えながら左手に盾形グリップを握り、魔力壁を展開させる。
宙に散乱する光が、再びコカトリスの瞳に集まり始めた。目潰しではレーザーを一時的に止めるだけしか出来ない。
諒世は来晴の傍らからコカトリスの嘴まで架かった氷の橋を駆け上がる。
氷の上ではどうしても足が滑って身動きが難しい。ただでさえ上に景火が乗っているため、身体が時折左右に揺さぶられる。しかし素足ならば、靴を履くよりも足元が安定する。最強の矛と最強の盾が同時に存在しない道理はない。対峙させるならパラドックスであるが、横に並べば比類なき攻防を得る。
コカトリスの瞳から、間髪容れずいくつもレーザーが射出される。
なるべく身体を傾けたり、盾でいなすようにして、それら一連の攻撃を回避していく。そして、ようやく頂上まで着くと諒世は景火を支える腕を離した。
「模範解答なんてねぇんだよ! 景火、その
どちらかのみで倒すのが模範解答であるし、そもそもこれは捨て問であって、受験者がクリアすることを想定されていないのだろう。
なら、そこにあるのは頭脳や技能あらゆるものを尽くした先にある、
きな気持ち。それがどんな馬鹿な発想で、矛盾していたとしても、ここまで来た。あとは託されてきたバトンを彼女に託すのみだ。
「何度も言われなくても分かってる――《矛盾
作戦名『矛盾逃避』から
血飛沫と共にコカトリスの頭部の大半が宙を舞った。
「目潰しどころか斬首だな……。100点どころか120点だな」
氷の橋から降りながら、諒世は呆れた。景火も無事着地し、勝利の余韻に浸っていた。
かえでの待っている地上までは後一歩。顔を上げれば、彼女の表情が見られる。
「まだだ! まだ死んでないよ!!」
楫次が壁の近くから叫ぶ。彼は見逃していなかった。コカトリスの残された頭部が強く光っている。その中心には、眼球が一つだけ残っていた。
「この鳥頭ッ!」
このままでは、その視線上にいる。かえでや来晴、諒世は攻撃を免れない。
諒世の武器は防御しかない。ここまで来て守り切れなくて何が『
イメージをする。太陽の光を収束させた高密度のレーザーを防ぐほどの盾。盾や防具は、剣や槍ほど神話や伝承に存在しない。存在したとしても、アイギスの盾やアキレウスの盾と言った使用者の名前を冠したものばかりで、それを所有者以外が用いたところでそれ以上の性能にはならない。
見上げれば、かえでの顔が見える。しかし、諒世は見れなくとも構わないとも思った。今は
振り返り、コカトリスを睨む。かえでの声が背中を押す。彼女の手の温もり、小指を交えた時の感覚、口づけを交わした時の甘い香り。
イメージは出来た。諒世は短く、北欧神話唯一の盾の固有名を――あらゆる光や熱から地上を守る盾の名を唱えた。
「《
諒世の前方に正六角形の魔力壁がいくつも展開される。天羽々斬が矛なら、この冷気の中漂う八塩折は盾である。結晶化した八塩折を繋ぎ、大きな盾を形成する。円や正五角形は魔術的な力を集約させるには最も効率の良い形状であるが、正六角形はその二つに無い大きな特徴を持つ。平面上に並べて展開した時、
射出されたレーザーは無数の盾によって完全に無力化され、そこでようやくコカトリスは沈黙した。
魔法による縛りの無いアタラクシア・フィールドだからこそ出来た擬似神霊魔術『スヴェル』は、当然ながら諒世の身の丈には合っていない。
奇跡的な能力の発現は、同時に絶望的な汚染を及ぼす。
諒世は間もなく意識を失った。
視覚や聴覚が遮断されていく中、最後の一瞬に感じたのは温もりのある“包容”だった――。