(十四)カセットテープレコーダー

文字数 5,149文字

「どう、疲れたでしょ、ミサ。ちょっと静かな場所を散歩してみない。それとも家に帰って休憩の方が良いかしら」
 シャングの人々と会って疲れたであろうミサを気遣い、チポが尋ねた。
「うん、じゃ散歩しよう」
「OK。それじゃ、森まで歩きましょう。とても涼しいから」
 集落を出て、エデンの森へと続く一本道を歩いた。昨夜オリビアと歩いた時はまっ暗だったから景色どころではなかったが、そこにも道に沿ってトモロウの木がぽつりぽつりと立ち並んでいた。シャングの人々は、この道を『トモロウの道』と呼んでいた。トモロウの木の立つ砂地の地面には赤い花が咲き、草も茂っていた。
 オレンジ色の鳥が一羽、何処からか飛んで来てトモロウの木にとまった。立ち止まりミサはその鳥を眺めた。チポも振り返り、足を止め一緒に眺めた。
「カラカラ鳥って言うのよ。あんまり愛想は良くないけどね」
 チポが笑っている間にも、鳥は鳴き出し、カラカラカラ……。遮る物のない大地に、その声は響き渡った。確かにあんまり良い声じゃないわね。ミサは苦笑いを浮かべた。
 カラカラ鳥が飛び去り、静かになった大地の中で空を見上げながら、ミサはふっわーっと大欠伸。それから背伸びしながら、深呼吸。限りなく澄んだ空気が美味しかった。
 近くにあるトモロウの木の下に、ふたり並んで腰を下ろした。森に行くのは止め、ふたりはしばしここで休むことにした。ミサは額や頬に浮かぶ汗をタオルで拭った。エデンの森の緑が見えた。ハルカ砂漠から吹いて来る砂混じりの風にトモロウの木の枝がゆらゆらと幽かに揺れ、丸でふたりに手を振っているようであった。
 ぼんやりとその景色を眺めているうち、いつしかミサはうとうと居眠りを始めた。なんとか睡魔に抗おうとしたけれど、旅の疲れには勝てない。チポはそんなミサを黙って見守っていた。
「さ、そろそろ家に帰りましょう、ミサ」
 しばし眠った後にミサが目を覚ますと、チポがやさしく言った。ミサは苦笑い。
「ごめんなさい。わたしったら、つい寝ちゃって」
 立ち上がるチポに、ミサも続いた。アシスエデンの時刻に合わせた自らの腕時計を見ると、午後四時を回っていた。陽はまだ明るかったが、そろそろ夕ご飯の支度を始める時刻である。
「今日は夕ご飯、食べて行くんでしょ」
 前を歩くチポが、振り返り尋ねた。ミサは喜んでと、微笑み返した。
「お邪魔でなければ」
「何言ってんの。あなたはもう家族の一員なんだから」
 チポは一瞬怒ったような顔をしてみせたが、直ぐに笑顔に戻った。
「ごめんなさい」
「その後、ふたりだけで森へ行きましょう」
「やった」
 家に着くと、既にみんな帰っていた。ミサは第一に、ピポに麦わら帽子を借りたお礼を述べた。返そうとしたが、ピポは受け取らずにこう言った。
「ここにいる間、ミサに貸してあげる」
「ほんと。ありがとう」
 キッチンでチポが夕飯の支度を始める。ヤポとピポはベッドルームでお勉強。カポは今日収穫したトウモロコシを、キッチンの床に並べ整理している。ミサも何か手伝いたいが、反って邪魔になりそうな気配。
「むこうで、ゆっくりしてて」
「はーい」
 チポの言葉に、素直に従った。
 子供たちの勉強の邪魔をしないように、ミサはベッドルームの窓辺に佇み、シャングの夕暮れを眺めた。空いっぱいに広がる夕焼けの色がまばゆく目に沁みて来る。野鳥の群れが鳴きながら、何処かへ飛んでゆく。隣近所を見れば何処の家も夕飯のようで、耳を澄ませば賑やかな声が漏れ聴こえて来る。
 村のディナーの時刻が早いのには訳があって、いつ停電になっても困らないように、明るいうちに済ましておこうという知恵である。
「ミサがいる間は、電気落ちなきゃいいんだけどね」
「うん」
「こればっかりは、どうにもなんないわ」
 チポは肩をすくめて苦笑い。でも今夜はまだ大丈夫。昼間に続いて電気コンロが各家庭で大活躍のまっ最中。ハルナッツの香ばしい香りが、集落のあちこちから漂って来る。
「はーい。みんな、お待たせ、出来たわよ」
 威勢の良いチポの声で、キッチンのテーブルに全員集合。
 いっただきまーす。
「今夜はお客様がいらしてるんだから、お行儀良くしてよ」
 チポの忠告に、子供たちは思い思いに答える。
「わかってるってば」
「いつも行儀良くしてるよ」
「はいはい、お利口さんばかりで嬉しいわ」
 カポは寡黙な人。でもちゃんと家族の様子を見守っている。落ち込んでいないか、しっかりご飯は食べているか……。ヤポはそんな父親に似て外では無口だけれど、内弁慶なのかチポやピポとの会話は賑やか。
「いいから、お喋りばかりしてないで、さっさと食べなさい」
「はーい」
 ピポはチポに思いっ切り甘えている。ミサは明日ヤポとピポが学校から帰って来たら、ふたりと一緒に遊ぶ約束をした。

「ミサと出掛けるんだろ。行っておいで」
 食事の後、カポが後片付けを引き受け、チポに森へ行くよう促した。
「でも、あんまり遅くならないようにな」
「分ってる。それじゃ行ってくるわ」
 普段は威勢の良いチポも、カポの前では大人しい。お似合いの夫婦だなあ。羨ましくてミサはため息を零し、不倫相手だった大黒寅造の顔を思い浮かべて苦笑い。ほんと、あんな男最低。カポの真摯さが眩しくてならなかった。
 ふたりで家を出ると、外は既に薄暗かった。
「あ、ごめん。忘れ物しちゃった。ちょっと待ってて」
 ミサは思い出したようにチポに告げた。それから頷くチポを待たせ、急いで広場に停めた車に戻った。ミサの忘れ物とは、カセットテープレコーダーである。
「お待たせ。行きましょう」
 昼間歩いたトモロウの道を、ふたり黙って歩いた。夜になっても風は強く、森の木々の枝が唸るように揺れていた。夜の帳が降りて、空には月と星々の瞬き。空から降り注ぐ光だけを頼りに、暗い森へと入っていった。
「集落から近い割りに、ここには滅多に人が来ないの。だからわたしは子どもの頃からいつもここに来て、思いっ切りひとりで歌っていたのよ」
「怖くなかったの、こんな暗い場所で」
「全然。それからヤスオからもらったオルゴールを聴いたり、そのメロディに詞を付けて歌ったりもしたわ」
「じゃ、あの詞は、チポが作ったの」
「そうよ。下手な詞だけどね」
 チポは照れ臭そうに、苦笑いを浮かべた。
「でも楽しかったわ。この森の中で毎晩が夢のように過ぎていった。ひとりでも全然寂しくなんかなかった。だっていつもヤスオがそばにいてくれる、そんな気がしていたから」
 チポの言葉にミサは胸が熱くなり、返す言葉も見付からずただ黙って頷くばかりだった。
 ふたりは森の中央にあるトモロウの木の下に腰を下ろした。熱帯夜であるから、確かに汗は止め処なく零れ落ちて来る。しかしそんなことも気にならない位、夜の森はミサの胸にやさしかった。ミサは静寂に浸った。木々の葉のざわめき、風の音、息を潜めた動物たちの気配、野鳥たちの寝息さえ聴こえて来そうな程。そんなミサに、チポが不意に尋ねた。
「それは何」
「あっ、これ。これはね」
 チポが指差したのは、ミサのカセットテープレコーダーである。
「これはね、録音する機械」
「録音。そんなことが出来るの」
 頷くとミサは早速、森の中で鳴いている野鳥の声にカセットテープレコーダーのマイクを向けた。それから録音した野鳥の声を直ぐに再生し、チポに聴かせた。吃驚するか、喜んでくれるだろうと期待したが、チポは意外に冷静だった。
「凄いわね。でもそんなことして、どうするの」
 どうするって。答えに困ったミサへとチポは続けた。
「すべての歌は、例えば鳥たちのさえずりのように、その時々に生まれ、そして同時に消え去ってゆくもの。でしょ」
 うん。ミサは頷いた。
「それが歌の、そして自然の定め。そうでしょ。だから、それで充分なのよ」
 充分。でも……。ミサはチポに反論した。
「でも、残しておきたい歌だってあるでしょ。例えば」
「歌を残すって、どういうこと。歌は物とは違うのよ。歌はね……。わたしは自然に逆らいたくないわ」
 そんな大袈裟な。
「今この一瞬に生まれ、そして一瞬で失われてしまうからこそ、歌はいとおしいのよ」
 分ってる、そんなことは分ってるわ。でもそんなこと言ってたら、音楽産業なんてとても成り立たない。
「チポ、あなたの言うことは分る。でもわたしは。ねえ、わたし日本に帰っちゃったら、もう二度とあなたの歌聴けなくなるのよ。父のオルゴールが壊れた今、あなたの歌を通してしか、オルゴールのメロディを聴くことは出来ないのに」
「それは、そうだけど」
 チポは困惑して、ミサを見詰め返した。
「ねえ、お願いだから、チポ。あなたの歌を、今ここで録音させて欲しいの。そしたらわたしはお父さんの作ったメロディを、日本に持って帰れるんだから」
「ヤスオが作ったメロディを」
「うん」
 夢中で訴えるミサに、観念したようにチポが苦笑いを作った。
「OK。そんなに言うんなら分ったわ」
 風に誘われるように、チポは立ち上がった。風はそよぎ、チポの頬を撫でてゆく。ミサがカセットテープレコーダーの録音ボタンを押すと、同時にチポが歌い出した。ララバイ・オブ・シー、その歌を。
 それは昨夜初めて耳にした時の衝撃を呼び覚ます、澄んだ歌声であった。魂が震え出すような感動と歓喜がミサを包んだ。
 チポが歌い終わると、ミサは録音ボタンを止めた。これでチポの歌の録音が完了。ちゃんと録音出来ているか確認したミサは、ほっと胸を撫で下ろした。ああ、これでもう何も思い残すことはない。世界でたったひとつだけの宝石を手に入れたような満足感に浸った。
「それじゃ、今度は一緒に歌いましょう」
「えっ」
 チポの誘いにミサは戸惑った。わたしなんかが、チポとデュエットなんて恥ずかしい。それにグリラ語の歌詞だし……。ところがチポはミサにウインクしながら、ララバイ・オブ・シーを歌い出した。
「これなら歌えるでしょう、ミサにも」
 チポの歌う言葉は、英語だった。元々グリラ語の歌詞を、英語に訳したものである。ああ、確かにこれなら歌えそう。ミサはチポの後を追って、恐る恐る口遊んだ。
 幾度となく、チポとのデュエットを楽しんだ。短い歌であるから、ミサは直ぐに英語の歌詞を覚えた。再びカセットテープレコーダーで、英語版のララバイ・オブ・シーも録音した。ふたりで歌ったことはミサにとって大きな喜びであったが、それ以上にチポの方も喜び、目を潤ませた。
「ウワォー、気分、最高。ミサ、あなたも最高よ」
 子どものようにはしゃぐチポ。ミサも感無量だった。こんな遠い異国の地で、亡き父のメロディを口遊んでいるなんて。
 歌い終わるとチポは思い切りミサに抱き付き、体いっぱいで喜びを表した。なんてワイルドなの、でも嬉しい。ミサも思わず涙ぐんだ。いつまでもこうして、チポと歌っていたい。
 でも。矢張りチポの声にはとても敵わない、自分など足元にも及ばない。辛い現実ではあるが、そう痛感したのも事実だった。しかし格の違いというか、その差は歴然としていて却って清々しい程。最早嫉妬することすら愚かしく、ただただ天賦の美声と讃え、それに酔い痴れる方が賢明であった。
 チポの歌の録音も無事済んだ。チポとのデュエットも思う存分楽しんだ。という訳でチポと共に、ミサは満足げにエデンの森を後にした。チポの家へと帰る道すがら、しかしミサはふっと疑問が浮かび、それをチポに向けた。
「ねえ、チポ」
「なあに。どうかした、ミサ」
「うん。なぜわたしの父は、あなたに横浜の海の写真なんか送ったのかしら。それにどうしてあなたは父のオルゴールの為に作った詞に、ララバイ・オブ・シーという、やっぱり海にちなんだタイトルを付けたの」
 するとチポは、こう答えた。ヤスオの教育支援を受けていた少女期を、感慨深げに思い出しながら。
「アシスエデンに海がないことは、知っているでしょ」
 ミサは頷いた。
「わたしは生まれた時からずっと、一度もまだ海を見たことがないの。これからだって、多分ないでしょう。ヤスオはね、そんなわたしにいつも海の話をしてくれた。そして海の歌だと言って、あのオルゴールを送ってくれたのよ」
 海の歌。へえ、そうだったんだ。わたし、なんにも知らなかった。ミサはカセットテープレコーダーを恋人のように抱きしめながら、チポの後に続いた。
 チポの家を出て、レンタカーでホテルに帰ったミサは、風呂もそこそこにカセットテープレコーダーの再生ボタンを押した。改めて録音したチポの歌を聴き、それを譜面に落とした。いつでもギターで演奏出来るよう、コードも付けた。
 後はベッドに横になり、どっと押し寄せる疲労の中、死んだように眠りに落ちるミサだった。
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