(二)シャング村とチポ

文字数 4,202文字

 チポ・エンデ(三十歳)。
 グリラ族の彼女は、『シャング』という村に住んでいた。
 シャングは、国際社会から抹殺された悲運の小国アシスエデンの首都トピア中心部より北へ五十キロメートル離れた郊外にある、自然豊かな農村であった。村には森があり、『アシタ湖』と呼ばれる湖があり、『ハルカ砂漠』という国内最大の砂漠も有していた。
 シャングの人々はハルカ砂漠に立つと、砂の大地が何処までも果てしなく果てしなく、丸で地球の果てまでも続いているかのように思えてならないのだった。
 シャングには広大な農地があり、その中に二十の集落が点在し、村人たちはそこで生活を営んでいた。ひとつの集落に平均五十世帯、約二百人余りが住んでおり、従ってシャング全体の人口はおおよそ四千人位である。チポ・エンデの暮らす集落も、平均とほぼ同数の世帯と人が住んでいた。
 チポは大柄な体格で、背中まで垂れ下がった太くごわごわとした黒髪を後頭部でギュッと束ね、頭にはしっかとバンダナを巻いていた。丸々とした二の腕は大きめサイズのTシャツの袖から惜しげなく出され、双子の山のようなオッパイもはち切れんばかりにTシャツの生地を伸ばして、歩く度豪快に揺れるのだった。下半身はと言えば長く広めの、風通しの良いスカートで覆われ、逞しきその大根足を拝むことは滅多にない。がっちりしたそのパワフルボディを、薄っぺらいゴムのサンダルが辛うじて支えていた。
 男勝りのチポ。そんな彼女が毎朝集落の中をのっしのっしと闊歩すれば、あちらこちらから顔を出し、みんなが陽気に声を掛けて来る。
「ビュテ(おはよう)、チポ」
「夕べはトマトをミスュ(ありがとう)。美味しかったわ」
「ヤポとピポは、もう学校行ったかい」
「チポ、風邪もう治ったの」
 するとチポはいつもにこにこ、大きく手を振って答える。
「ビュテ、みんな。風邪なんかへっちゃら、へっちゃら。二日も寝てりゃ、けろっと治っちゃうから。ええ、旦那も元気よ。子どもたちもみんな、やんなっちゃうぐらい元気なんだから。ミスュ、それもこれも村のみんなのお陰よ。お陰で、今日もわたしは一日、テアズ、テアズ」
 テアズ、テアズ……。テアズとは、グリラ語で『幸福』を意味していた。しかしチポの言葉には程遠く、シャングの村の暮らしはとても裕福などと呼べるものではなかった。
 チポの家は四人家族。石と藁でこしらえた家に夫のカポ・エンデ(三十五歳)と、長男のヤポ(十一歳)、長女ピポ(九歳)と住んでおり、ふたりの子どもは小学生。近くの『シャング小学校』に通っていた。チポの両親も健在で、父アポ・トウカと母ミポ・トウカが隣家に住んでいた。
 家の造りや大きさ、広さと言ったら、集落の何処の家もみんな似たり寄ったり。それぞれ約十二畳程の面積のワンルームと、キッチンを備えているだけ。その中で家族が一緒に暮らしていた。家の中にはトイレも風呂もなく、では室内にあるものと言ったら、夫婦のベッドと子どもたち各々のベッド。あとは棚が幾つかあり、雑貨品がきちんと整理され収められていた。
 照明は天井から吊り下げられた、はだか電球がひとつ。停電した時に備えて、何処の家庭でも蝋燭が用意されていた。
 キッチンに水道はなく、大きなたらいと、水を貯めておく大きな甕(かめ)、また井戸から水を汲み上げ運んで来る時に使う一回り小さめの甕がある。それから電気コンロと炭火のコンロがひとつずつあり、他には皿、スプーン、鍋、調味料、食材等を収めた棚があるのみで、冷蔵庫はなかった。
 集落の広場に村人の水源である共同の井戸があり、日々女たちが水汲みに集い、わいわいがやがやと世間話を交わしては、甕に一杯に入れた水を持ち帰ってゆくのであった。
 また集落の広場には男女各々三つずつの共同トイレと、そしてシャワー室があった。ただしシャワー室は西暦二〇〇七年にようやく設けられたもので、それ以前は風呂もシャワーもなかった。
 では村人たちはどうやって体を洗っていたかと言えば、各々の家でたらいに貯めた水で洗うのである。また同じたらいで、洗濯も行っていた。
 このような訳でシャング村は決して衛生面に於いて良好とは言い難く、家の中や集落にはそれなりの臭いが漂っていた。が住めば都、住んでいれば、直ぐに慣れて来るものである。また家の周りが畑であることもあって、ハエや小さな羽虫が絶えず飛び回っており、慣れないうちは不快で堪らないが、これも慣れてしまえば大したことはなく、事実村人たちは涼しい顔で日々を暮らしていた。しかしながら人々はみんなきれい好きで、自分が使ったトイレはきれいにして出て来るのであった。
 ここシャングでも電気は各家庭に供給されているが、三日に一度は停電になり、ひとたび停電すると数時間ひどい時は丸二日復旧しないこともざらである。これは設備自体が脆弱なこともあるが、火力発電による安定した電力は専らトピア中心部に供給され、他の地域はハルカ砂漠を吹く風によって起こす風力発電に頼っていることも関係している。着の身着のまま、すべては風任せという訳である。
 こんなインフラの不充分なシャングの村ではあるが、五キロメートル程南下した場所に、チポたちが俗に『シティ』と呼ぶ繁華街があった。そこには衣食住に関わる商品が陳列された市場があり、キリスト教のチャペルがあり、救急病院があり、『トピア北中学校』がある。シャングの村で自転車を持つ家は少なく従ってチポたちは皆、片道二時間を掛けシティまで歩いて通っていた。中学生たちも朝早く起き、元気に歩いて通学している。また村人たちは自分の畑で収穫した作物を市場の店に買ってもらうことで、貨幣を手に入れていた。

 このように先進国に比べれば開発が遅れ、物質的には確かに貧しいシャングの村ではあったが、その中でチポたちは毎日逞しく陽気に暮らしていた。
 みんな早起きで、朝から鍬を持って近くの畑に出掛け、土を耕し、種を蒔き、作物を育てた。農薬は使わず、もし使いたくとも金がないから買えなかったが、それでもそこそこ作物は育った。収穫の少ない年もあるが、貧しいながらも最低限、自給自足出来る程度には大体いつも収穫出来ていた。
 そもそもアシスエデンが貧しい国だとか、シャングの村が貧しくその中で農民たちは貧しい生活を強いられているとか言っても、貧しいか、そうでないかを決める基準は、無論金銭があるかないかである。がチポたちのように貨幣経済に巻き込まれておらず、お金に無理に依存しなくとも何とか食って生きてゆける、せいぜい市場で買い物をする程度の人々にとっては、その基準自体に意味がない。詰まりどうでも良いことで、従って貧しかろうがそうでなかろうが、余計なお世話と言ったところなのである。
 事実集落の人々はチポも含め、敬虔なクリスチャンだし、みんな助け合いながら暮らしていた。食べ物を分け合い、不足している家には他の家が自分の食物を与える。また或る集落が困っている時は、隣りの集落が助ける。そしてシャングの村全体で食べ物がない時は、仕方がないからみんなで共に我慢して、一緒に飢えを堪える。食べ物に限らず、農具、料理道具も共有し合ったり、雑貨品も分け合う。だからトイレや井戸が共同でも問題なく運営されている。汚れていれば誰かが掃除し、誰かしらが市場で買ったトイレットペーパーを補充する。言わば集落とシャングの村が、ひとつの大家族みたいなものなのであった。
 チポの家の畑は一ヘクタールの広さで、そこでは主にトウモロコシ、トマト、イモを育てていた。国の主食がトウモロコシであり、農家は何処もトウモロコシ中心。チポの所も農地の半分がトウモロコシ畑である。果てしない青空の下にトウモロコシ畑が何処までも続き、ハルカ砂漠の砂まじりの風がトウモロコシの葉を揺らす音は、さながら大地の笑い声のようであった。
 シャングでは他に大豆、『ムリオ』と呼ばれる緑色野菜、バナナも実った。畑の他に、家畜を養う家もあり、その種類は鶏、ヤギ、豚、牛など。チポはいつも向かいの家から、鶏の卵を分けてもらっていた。代わりにトマトやイモをお返しする。実質物々交換であり、これがシャング内部での主なる取引手段であった。詰まりシャングの経済は、物々交換によって支えられているようなものなのであった。
 夜明けには鶏が鳴き、目覚まし時計の役を果たしてくれていた。ちなみに村の民家に時計は一台もない。早朝の畑には色取り取りの野鳥が舞い降り、作物をついばむ。農民には迷惑な話だが、可愛らしい声で鳴いてくれ、人々の心を慰めてくれるので、何とも憎めない連中である。それに比して甚だ迷惑なのが、イノシシ。畑を駆け回り、思う存分荒らしたかと思うと、さっさと逃げてゆく。まったく煮ても焼いても食えない相手なのであった。
 チポの集落ではどの家も週に一度のペースでシティに出掛け、市場で買い物をするのが習慣であり、楽しみでもあった。どんな物を購入するかと言えば、食パンや加工された肉類などの食料、調味料、衣料、タオル、トイレットペーパー、髭剃り、石鹸等々である。
 グリラ族の主食は『ハルナッツ』と呼ばれるトウモロコシの粉を煮詰めたもので、これをベースに、野菜や肉と共に食事をする。料理は電気コンロが使えれば使うが、停電の時は木の摩擦で火を起こして木炭に着火し、炭火のコンロで行っていた。
 チポたちの夕ごはんの後の楽しみは、みんなで集落の広場に集い、火を囲んで話したり、音楽と踊りに興じることであった。音楽と踊りと言えば、シャングの村人たちの最大の楽しみは、何と言っても『パラダ』と『ダイス』。
 民族楽器である『ユート』と呼ばれる横笛とマラカス、それに『ジャンベ』(太鼓)で演奏し歌うグリラ族の民族音楽パラダは、祭囃子のような陽気で軽快な音楽。そしてそのパラダに合わせて体全体で生きる喜びを表現するが如くに激しく踊るのが、ダイスというダンスであった。
 収穫祭、クリスマスなどの年中行事、また婚礼など目出度い席は勿論のこと、葬儀に於いてもグリラ族は熱狂的に歌い踊った。悲しみを受け入れ、涙を噛み締めながら、それでも陽気に歌い踊り、みんなで賑やかに死者を見送るのである。それがチポを始めとするシャングの人々の性分であり、また死生観、哲学でもあった。
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