(八)スキャンダル

文字数 5,339文字

 二十二歳でデビューして以来、いや歌手を志した少女の時からずっと音楽一筋で生きて来たミサに、女としての転機が訪れたのは二十三歳のクリスマスイヴ。遂に恋人となる男性が出現したのであった。相手はしかも一般人ではなくアーティスト。飛ぶ鳥も落とす勢いの人気ロックバンド、ゲゲゲ一家のギタリスト、その名も大黒寅造であった。
 七歳年上の寅造は、母性本能をくすぐるタイプ。女にモテモテで、常に恋人の噂が絶えなかった。それでもその頃の寅造はまだ世間的には一応独身とされており、ミサもそう信じていた。そして訪れたミサ二十三歳のクリスマスイヴである。
 その夜ミサは神奈川県関内市民ホールにて、クリスマスコンサートを催していた。会場を埋め尽くしたのは、熱々のカップルばかり。客席の熱気に負けじとミサはクリスマスソングを始め、オリジナルや海外のラヴソングを熱唱。恋人たちに熱き夜をプレゼントしたのであった。
 ところがコンサートの途中で、思いも掛けないサプライズ。なぜか突如大黒寅造がギタリストとしてステージに乱入して来たのである。実はスタッフはみんな知っていたが、ミサを驚かそうと本人にだけ黙っていたという仕組み。ではなぜ寅造が乱入したかと言えば、勿論清楚なお嬢様ミサへの下心から。
 ラストにロバータ・フラック&ピーボ・ブライソンの名曲『愛のセレブレイション』をミサと寅造がデュエットすれば、会場は割れんばかりの大歓声、熱狂の渦に包まれた。コンサート後会場を後にした恋人たちは夢見心地そのままに、迷わず近くのラヴホテル街へと直行したのだった。しかも曲の最中、寅造がミサの肩を抱き寄せる一幕があり、ミサは内心どきりっ。うぶなミサは頬をまっ赤に火照らせ、観衆の爆笑を誘い喝采を浴びた。
 コンサートの幕が下りるや、寅造は速攻でミサを飲みに誘った。ミサは断るに断れず、二人だけで夜の東京六本木へ。その夜は軽い飲みだけで済んだが、何気に携帯の電話番号を教えたのが運の尽き。翌日から寅造の本領発揮、こまめな電話攻勢が待っていた。
 何しろ男にうぶなミサのこと。狙った女は逃がさないプレイボーイ寅造の手練手管に引っ掛かれば、もういちころ。早々と三回目のデートで、遂に男女の深い仲へ。大人の世界へようこそ、フォーリンラヴしたのであった。以後寅造なしではもう生きてゆけない、恋する女ミサの出来上がりである。
 人気者のふたりは、密かに交際を始めた。寅造から片時も離れたくない。でも……、でも歌も大事。ミサは寅造との恋に溺れながらも、何とかシンガーとして歌い続けた。
 ところがである。寅造と付き合ってちょうど一年が経過した、ミサ二十四歳のクリスマスイヴのこと。突如週間文春に、ふたりの関係がすっぱ抜かれてしまった。でもふたりとも独身なら、芸能人とはいえ何ら問題はない筈。しかし記事に目を通してみれば、な、な、なんと。寅造は独身どころか、既に妻子持ちであるという。
 うっそーーっ、でしょ。誰よりもショックを受けたのが、ミサだったのは言うまでもない。それまで清純派シンガーソングライターとして支持を得て来た筈のミサが突如、不倫、略奪愛の主役として、忽ちスキャンダルの渦中へと投げ込まれてしまったのである。そしてバッシングの始まり、始まり……。
 他人の不幸は蜜の味。それはもうお祭り騒ぎで連日連夜の大騒動。ワイドショー、週刊誌のマスコミ連中が、事務所へ自宅へ押し寄せて来た。
「いいえ、わたしは何にも知りませんでしたから。大黒さんとは純粋な恋人として……」
 しかし世間も芸能レポーターも、容赦はしなかった。
「大人しそうな顔して、やることえぐいわ、まったく」
「ふざけんじゃないわよ、あんたは今や日本中の女の敵よ」
「この悪女、売女」
「AV出演、いつですかあーーっ」
 完全なるイメージダウン。ファンだった同世代の女の子たちからも見放された。
「歌とのギャップあり過ぎ」
「ミサだけは信じてたのに」
「がっかり。もうミサの曲なんか、死んでも聴かなーい」
 CDの売り上げは激減し、コンサートのチケットは大量に売れ残る始末。結果、コンサート会場の観客席はがーらがら。ありゃりゃ……、落ちるとこまで落ちたミサ。
 ショックで、歌えなくなった。大黒寅造への熱は一気に冷め、速攻で縁を切った。野次馬やマスコミへの恐怖から人間不信にも陥り、外出すらままならず、家の中に閉じこもる日々。ミサは芸能界ばかりか、シンガーソングライターとしての自分、そして人生にすら疑問を抱き、ひとりぼっちで絶望した。
 わたしは一体何の為に、今迄歌って来たんだろう。どうして歌手になんか、なっちゃったのよ。歌って何。何の為に歌うのか、分かんない……。
 ミサは自分を見失った。自分という人間が分からなくなり、自信をすっかり失った。そして遂にミサは、歌うことを辞める決意をするに至るのだった。
 もう、歌なんか歌わない。もう二度と歌いたくない。歌なんかやるもんか。歌手なんか、辞めてやる。シンガーソングライターなんぞとっととおさらばして、お母さんとふたりでのんびり隠居生活だあーーっ。
 そう心に誓ったミサは、所属するレコード会社の広報を通じてマスコミに休業宣言を発表、遂に休養に入った。ミサ二十五歳、春三月のことである。

 四月。娑婆は新しい門出の季節。街には桜吹雪が舞い、見下ろせば地に菜の花、タンポポも咲いている。風に乗ったタンポポの種は丸で夢でもつかまえるかのように、目映い春の陽にきらきらと煌めきながら、ふわりふわりと大空へ飛んでゆく。学校には新入生が、職場にはフレッシュな新入社員が入って来る。そんな何処を見渡しても初々しい、新しい出会いの予感にうきうき、わくわく胸もふくらむ春四月。なのに、なのにすっかり世間様から忘れ去られたミサは、毎日横浜の自宅でぐだーっとくすぶっていた。
 休業宣言をした後は、マスコミ、野次馬も徐々に影を潜め、今ではもうすっかりお目にかかることもなくなった。その点は良かったが、ミサの受けた心の傷は余りにも深く、癒えて立ち直るまでにはまだまだ時間が掛かりそうであった。
 歌を忘れたカナリア。今のミサに、これ以上ぴったりの言葉はなかった。それまで歌うことのみに唯一、人生の目的と自らの存在意義を見出していたミサであるから、今は何もする気になれず、だから何をするでもなくただただ無気力。来る日も来る日も部屋の中で溜息を吐き、ぼけーっ、の怠け者だった。それでいて大黒寅造やバッシングに明け暮れたマスコミどもの顔が時折り脳裏に甦り、苦々しくてならない。そんな日々の繰り返しの中で夜は悶々として眠れず、食欲も湧かずで、げっそりとやつれもした。
「ねえ美砂。もうそろそろ元気出しなさいよ、あんた」
 母、美鈴も精一杯励ましては来たものの、こればっかりは時が解決してくれるのを待つしかない。それがいつのことになるのやら、それまではただひたすらじっと我慢我慢。思いっ切り腹立てて、思いっ切り泣いて、それでも最低限死なずに何とか生きててくれりゃ、それでいいわ。そう楽観的に考えようと努める美鈴だった。しかしそれにしても髪の手入れもせず、ミサ自慢のロングヘアは今やぼさぼさのアフロ犬状態。
「ねえ、せめて美容院位行ったら。見てらんないわよ、まったく」
 言われてみれば、確かに。鏡に映った我が姿をまじまじと眺めれば、そこにいるのはお岩さんか口裂け女、恨めしや……。キャーッ、恐っ。確かにこれじゃ駄目。このままじゃ本当にわたし、駄目んなっちゃう。
「分かったわ。じゃわたし、ちょっと行って来る」
 こうして一大決心。美鈴に見送られ、ミサは久し振りの娑婆へと出てゆくのだった。
 始めは擦れ違う人々の視線など気になって緊張したものの、やつれたのとノーメイクのお陰でだーれも気付かない。それに久し振りに吸った外の空気は清々しく、空の青さは泣ける程に眩しかった。
 うわーっ、気持ちいい。緊張も解け、思い切り背伸びすれば気分は爽快。何でわたし今迄、あんなにジメジメしてた訳、ばっかみたい。てな訳で颯爽と美容院に入ったミサは、昨日までの自分におさらばしようと、自慢の黒髪をバッサリとカット。ボーイッシュなショートカットにしたのだった。
 じゃーん。すっかり人が変わって帰宅したミサに、美鈴は吃驚。でも、ま、取り合えず良かったと胸を撫で下ろした。しかし気分は晴れたものの、歌うことへの拒絶反応は、まだまだミサの心に根強く残っていた。とてもじゃないけどまだ譜面を見るのも、ギターに触るのも嫌。仕方ないからリビングでゴロリ。美鈴とTVを観るも、下らないお笑いやら、相変わらず品性のないワイドショーやら、下手くそなジャリタレの歌を垂れ流すばかり。
 ふわーっ。世の中、詰まんなーーい。横で美鈴が大笑いする程の大欠伸で、退屈しまくるミサだった。気分はどうにか晴れたけど、やることねえなあ……。
 ミサは、海野家のひとり娘。父保雄が死んでからは、ずっと美鈴とふたりだけで暮らして来た。自宅はJR根岸線の石川町駅から歩いて直ぐの高層マンションで、保雄が残してくれたものだった。さっきから欠伸ばかりのだらしない娘に、情けなさそうに美鈴が零した。
「だったらあんた、久し振りに大桟橋にでも行って来たら」
「大桟橋」
「そうよ。お父さん亡くなって、今年でちょうど十年になるんだし」
「えっ、もう十年……。あ、そっか。そうだね。言われてみればすっかり忘れてた、お父さんのこと」
「でしょ。お父さんだって、ずっとあんたのこと、心配してたんじゃない」
「そうだね。うん、分かった」
 珍しく、素直にミサは頷いた。
「じゃ、海でも見ながら、久し振りにお父さんと語り合って来るわ」
 四月とはいえ、夜の潮風は肌寒い。ミサはコートを羽織り、黄昏の大桟橋へと出掛けて行った。

 大桟橋に立てば、港と海の景色を堪能出来る。ミサはそこから華やかで玩具細工のような港町の夜景を見るのが好きだった。が父保雄はいつも、反対側の暗い海の彼方ばかりに目を向けていたものだった。そこにはまっ直ぐに伸びた水平線が見えるばかり。
 父と語り合って来ると美鈴に言って来た手前、今宵のミサは大桟橋に佇みながら、暗い海の方角に目をやった。そこには相変わらず水平線が横たわっているだけ。平日の夕暮れから夜の帳が下りる頃とあって、辺りに人影は少なく、しーんと静まり返っていた。ミサの耳にはただ、波止場へと打ち寄せる波の音が心地良く響いて来るばかり。ミサはぼんやりと、水平線を見詰めていた。
 水平線を父に見立てて、亡き父へと何か語り掛けようとしたその時、しかし突然何処からかオルゴールの音色が聴こえて来た。不思議に思ったミサは、辺りを見回した。すると若い父親と共に通り掛かった幼い少女が、その手に木箱のオルゴールを持っていた。聴こえて来たのは、その音だった。
 オルゴール。ミサははっとして我を忘れた。オルゴールが奏でる曲は、ミニー・リパートンのラヴィング・ユー。でもミサが心奪われたのは、曲のメロディではなかった。オルゴールの音色そのものが、ミサの心をとらえたのである。
 懐かしい。郷愁がミサを襲った。すっかり忘れていた幼い日の記憶、その中に眠るひとつのオルゴールがあった。ミサの脳裏に今鮮やかに、ひとりの男性の面影が甦る。それは他でもない、亡き父保雄だった。そう言えば、あのオルゴール、どうしたんだろう……。
 ミサが思い出したオルゴールとは。それはただのオルゴールではなかった。この世にたったひとつしか存在しない、亡き父作曲のメロディを奏でる詰まり、父自作のオルゴールだったのである。しかしミサはそんな大事な保雄のオルゴールを、一度か二度しか聴いた覚えがなかった。
 どんなメロディだったっけ。保雄が作ったメロディ即ち保雄のオルゴールの旋律が、ミサにはどうしても思い出せなかった。こうなるとどうしても思い出さずにはいられないのが、人情というやつである。どうしても思い出せない、くっそーっ。もう一遍聴いてみたいなあ、あのメロディ……。
 とっとと夜の大桟橋を後にして家に戻るや、ミサは間髪容れず美鈴に尋ねた。
「ねえ、お母さん。お父さんのオルゴール、何処あんの」
「何よ、帰って来て行き成り」
「だから、あのオルゴールよ。ほら、覚えてない、お父さんが自分で作った」
 すると美鈴は、大きく頷いた。
「ああ、そう言えば確かそんなの、あったわねえ。でも……何処にしまっちゃったのかしら。で、あんた、そのオルゴールがどうかした訳」
「うん。さっき港で急に思い出しちゃって。そしたらどんなメロディだったか、気になって気になって。お母さん、覚えてない」
 しかし美鈴は、かぶりを振った。
「ごめん、全然覚えてない。でも家の中捜せば、きっと出て来るわ。その方が早いわよ」
 そこでふたりは家中を捜してみたが、結局見付からなかった。
「おかしいわね」
「捨てちゃったんじゃない、お母さん」
「そんな大事な物、捨てる訳ないでしょ。でも無いわね、何処にも」
 しばらくは気にしていたけれど、そのうち諦め、ミサと美鈴はオルゴールのことを一旦は忘れた。
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