(五)チポとカポ

文字数 5,543文字

 西暦二〇〇〇年。十五歳の春、チポは家族の協力と海野保雄の支援によって、無事トピア北中学校を卒業した。在学中、成績優秀なチポに対してPFAのアリスから、もしチポが希望するなら海野に支援継続をお願いしてみるからと、高校進学を勧められた。
 高校かあ。
 そこでチポは大いに悩んだが、長女であるチポはトウカ家の農作業の貴重な働き手として当てにされている。それにシャングの近くに高校はなく、もし高校進学となればトピア中心部にある高校に通わねばならなくなる。そうなると家から歩いての通学など不可能であり、どうしても何処かに部屋を借り下宿せねばならなくなる。従って経済的負担は大幅に増え、海野に頼む支援額は少なくとも今の二倍に増額してもらわねばならなくなると言う。これまでの恩人であり、ララバイ・オブ・シーを贈ってくれ、かつ歌う喜びをも教えてくれた海野に、これ以上の負担を掛けさせる訳には絶対にいかない。
 そう思ったチポは勉強は続けたかったが、やむなくアリスに進学辞退を申し出た。アリスはがっかりしたが、チポの気持ちを尊重し更なる説得はしなかった。
 これにてPFAを通じた、海野からチポへの教育支援は終了した。海野が四十五歳の時のことである。
 しかしPFAは以後もふたりの交流の手助けをしてくれたので、引き続きチポと海野はPFAを介したエアメールのやり取りを続けることが出来た。
『親愛なるヤスオへ。
 あなたのお陰で、わたしは小学校はおろか中学校までも通うことが出来ました。丸で夢のような日々でした。その中でわたしは実にたくさんのことを学ぶことが出来ました。これらはみんな、わたしの宝物です。
 これからわたしは家の畑を手伝い、農作業に従事してゆきますが、あなたから頂いたすべてのことが、日々生きてゆくわたしの心の支えとなってくれることでしょう。あなたには本当に、どれ程感謝の言葉を述べても述べても足りないのです。にも関わらずあなたに何も恩返し出来ない自分が、歯痒くてなりません。
 ヤスオ、どうか是非一度、わたしの国アシスエデンのシャング、そしてわたしの家に遊びに来て下さい。家族と共に熱烈に歓迎します。わたしも一生に一度で良いから、ヤスオの国へ行ってみたい。そしてヤスオと一緒に、ヨコハマの海を見てみたいです。
 あなたから頂いたオルゴール、わたしはララバイ・オブ・シーと名付け呼んでいます、は今も大切に聴いています。それでは、あなたとあなたの家族に多幸のありますように。チポより』
 チポからの便りを読んだ海野は、感慨に胸が詰まった。自分の毎月の僅かな援助によって、遠い国のひとりの少女が無事、中学まで通うことが出来たのだ。それにあのオルゴールを贈ってから既に五年の時が経過しているにも関わらず、彼女は今も大事に聴いてくれているという。何という、素晴らしいことなのだろう。しかも特別な愛称まで付けて、呼んでくれているなんて。海野はチポに贈った、あのゴールドのオルゴールの姿を思い出さずにはいられなかった。あの時一生懸命に作って本当に良かったと。
 海野とて行けるものならば、家族を連れてアシスエデンを訪ねたい。いやもし妻や娘が、そんな辺鄙な国なんて嫌だわ、などと言おうものなら、単独で渡航したって一向に構わないとすら思っていた。しかし実はこの頃、海野は体調が芳しくなかったのである。その為様子を見て、もし体調が回復したならば、その時は是非遠慮なくアシスエデンに行かせてもらおうと決めていた。ただし余計な心配をさせないよう、チポへの返事には体調不良に関しては一切書かなかった。
『親愛なるチポへ。
 中学校卒業、おめでとう。よく頑張ったね。これからは御家族と共に、農作業にお励み下さい。わたしへの恩返しなど一切不要、何も気にすることはありません。今後もあなたが毎日元気でいてくれることが、何よりのわたしの喜びなのですから。わたしの方こそ、あなたと出会え、あなたが学ぶことの手助けが出来、加えてアシスエデン、シャング村のことも知ることが出来て、何物にも代え難い幸いでした。
 あなたの国、あなたの家に遊びにゆきたいのは山々ですが、実はわたしはまだ一度として海外旅行というものをしたことがないのです。なかなか外国へ出る勇気と時間がありません。だから今は遠くから、あなたの幸せを祈らせてもらいます。ララバイ・オブ・シーとは、何て素敵なネーミングでしょう。ありがとう、チポ。オルゴール、大切にしてくれているのですね。
 では、お元気で。海野保雄』

 海野へのエアメールにも書いたように、中学を卒業したチポは、家の畑に出て働き始めた。
 アシスエデンでは農地は国家が所有し、農民にその土地を貸し与えていた。ただし期間は無期限で、借地料の徴収も行われてはいなかった。シャングでは集落毎に必要なだけの土地が割り当てられ、各集落単位でその土地を管理していた。集落の農地は更に世帯毎に平等に割り当てられ、トウカ家には一ヘクタールの土地が与えられていた。トウカ家では農地の半分をトウモロコシ畑にしており、残り半分でトマトといもを育てていた。
 チポは朝からアポ、ミポと共に出掛け、畑で働いた。それまでミポが行っていた作業をチポが受け継ぎ、ミポは徐々に家事に専念していった。アポはチポのことなど気にせず自分だけとっとと午前中馬車馬のように働いたら、それで彼の一日の労働は終わり。午後からは同じように農作業を済ませた集落の男たちと広場に集まり、ゴロンと横になって昼寝したり、お喋りしたり、兎に角ゆったりとくつろぐ。シャングの男たちの生活は、大体みんな、こんなものだった。
 チポはと言えば麦藁帽子を被り、一日中畑でせっせと汗を流し黙々と働いた。畑は家から歩いて十分程の所にあり、昼になるとチポは一旦家に戻って、ミポとふたりでランチを取った。弟のタポは小学校に行っている為、まだ帰っては来ない。その後アポがいなくなった午後の畑に戻って、再びチポは黙々とひとりぼっちで働くのだった。若いチポにとって農作業は覚えればそんなに大変ではなかったし、それに集落の中で特に親しい友もいなかったチポは他に特別やるべきこともなかった。
 孤独。確かにチポは、集落の同世代の中で孤立していた。成る程中学を卒業した当初こそ、同じ年頃の娘たちの集まりにも積極的に顔を出していたものだったが、結局上手く馴染めなかった。
 集落の家は何処も似たり寄ったりで、同じように貧しかった。従って他の娘たちもみんなチポと同じように、家の畑の手伝いをしていた。男たち同様に午前中働いたら年頃の娘たちも広場に集まり、午後のお茶を楽しむ。世界中どの国の娘たちもそうであるように、シャングの乙女たちもまた、ぺちゃくちゃといつ終わるとも知れない世間話を延々と交わすのであった。そうやって彼女たちの午後のひと時は夢の間に過ぎてゆく。そしてアシスエデンの娘たちも、やがて静かに年を取ってゆくのである。
 シャングの人たちが飲むお茶は『サウダ』と呼ばれる、アシスエデンでのみ採れるほんのりと甘い日本の抹茶に似たエメラルドグリーンのお茶である。お湯でなくとも、水でも良く溶ける。
 チポが娘たちの午後のお茶会に顔を出していた頃は、新米ということもあり、彼女はいつも仲間の輪の端っこに座して皆の話を聴いていた。昨日何処何処の家でこんなことがあったとか、今朝これだけトウモロコシが採れたとか、隣りの集落のポパ・ターザンという男が精悍でイケメンだとか、ムポ・カンガがセサ・ミカドに求婚したとか……。最初は新鮮さもあって興味を持って聴いていたチポであったが、同じ類の話ばかりが毎日のように延々と続くものだから、いい加減直ぐに飽きが来てしまった。
 それに無理ないことではあるが、年頃の娘たちときたら恋と結婚のことしか頭になく、チポとしたらそんな彼女らが物足りなく思えてならなかった。虚しさを感じ、哀れに思い、幼稚にも思えた。そんな訳でいつしかチポは娘たちのお茶会に顔を出さなくなり、同世代の集まりから遠ざかった。しかしそうなると、集落の中で居場所がなくなってしまうのも事実である。今更高校に行きたいなどとも言えないし、中学校や小学校に戻る訳にもいかない。自然チポは孤立、孤高の人となり、ひとりでいるのを良しとするようになっていったのである。
 農業に従事しながらもチポの向学心、向上心は変わることなく、常に知識欲、学びに飢えていた。が、生憎そんなチポの欲求と望みを満たしてくれるような場所も相手も、残念ながらシャングには存在しなかった。図書館などの文化施設は首都トピア中心部にしかなかったからである。よってチポの居場所は、唯一畑しかなかった。
 そのうちチポは周りに人がいないのを良いことに、畑の中で歌うようになった。誰もいない広大な大地の中で、眩しい空と太陽と風の中で、それは気持ち良く思う存分歌うことが出来た。すると単調な畑仕事が楽しくなったし、何だか作物たちが自分の歌を聴いてくれているようにも思えた。そこで作物に向かって歌い掛けてみると、確かに作物が嬉しそうににこにこ笑っている気がする。作物も喜び、共に歌っている、そんな気がしてならなかった。そのせいかどうかは定かでないが、チポは自分の畑の作物の育ちが以前よりも良くなったように思えた。こうしてますますチポは、歌うことも農作業も楽しくなっていった。ひとりでいる筈なのに、いつもにこにこにこにこ、それは嬉しそうに作物に向かって歌い掛けながら、チポは畑仕事に精を出したのだった。

 或る日、そんな畑の中の夢見る少女であり乙女であるチポの前に、ひとりの青年が現れた。チポより五歳年上のカポ・エンデである。
 カポの家の畑は、チポの畑の隣りにあった。詰まりカポの家族も、チポと同じ集落に住む仲間だった。だからふたりは互いに、顔と名前位は知っていた。がまだふたり切りで言葉を交わしたことは、一度としてなかった。
 隣りの畑とは言っても、農地の境界に沿って各々背高のっぽのトウモロコシ畑が広がり、視界を遮っていた。だからチポがもしも歌を歌わずただ黙々と働いていたならば、もしかするとカポはチポの存在、チポが直ぐ隣りにいることに一生気付かなかったかも知れない。けれどトウモロコシ畑を吹き抜ける風が、チポの歌声をカポの耳元へとそっと届けたのである。
 カポは姿の見えない乙女の美声に心奪われ、胸をときめかせた。歌っているのがトウカ家の娘であることは、畑の場所からして見当が付いた。しかしそれにしても、何と美しい声なのだろう。丸で天使のようだ。
 チポの歌を聴きながらの農作業は、カポにとっても楽しいものへと変わった。シャイな性格のカポであったが幾日かチポの歌を聴いた後、遂にチポに話し掛ける決意をした。それはチポ十六歳の、春の日の午後であった。
 ザワザワザワーッ、ザワザワザワーッ……。トウモロコシ畑の葉を掻き分けながら、カポはチポの畑へと一歩足を踏み入れた。どきどき、どきどきっ……。胸の鼓動を高鳴らせながら、そしてカポは勇気を振り絞り唇を開いた。繊細な乙女を脅かさぬよう、そっとやさしく囁くように。けれど相手に届くよう、はっきりとした声で。
「ドリム(こんにちは)」
 えっ。突然のカポの挨拶に、チポが驚かぬ筈はなかった。チポはちょうどカポに背を向け、トマトを収穫している最中だった。いつものように、トマトに向かって歌い掛けながら。しかしその歌声をピタッと止め、チポは恐る恐る振り返った。
「だーれ」
 そこには、カポが立っていた。
 カポ……。
 チポは小さく、ため息を零した。一方カポは頬を強張らせながら、ガラス細工に接するが如くチポに向かって微笑み掛けた。
「素敵な歌じゃないか、チポ」
 えっ。驚いたチポは、カポの顔を見詰めずにはいられなかった。なぜなら自分の歌を褒めてくれた人は、カポが初めてだったからである。
 この時を境にして、チポとカポは徐々に言葉を交わすようになった。そして少しずつではあったが、接近していった。ただし畑で、ふたりだけでいる時に限って。集落という小さな世界では、若い男女が仲良くなると、直ぐに噂となって集落中を駆け巡ってしまうものであったから。
 しかしふたりは直ぐに、恋に落ちた。
 ふたりは互いに相手の畑を手伝い、作業が一段落するとトウモロコシ畑の陰に並んで腰を下ろし、休憩を取った。カポはそれまで孤独だったチポの良き話し相手となり、唯一の彼女の歌の理解者ともなった。カポはいつも嬉しそうに気持ち良さそうに、チポの歌を聴いてくれた。チポもまたカポに心奪われ、少女から乙女へと成長し、胸をときめかせた。
 そんなふたりの仲は直ぐに集落のみんなの知るところとなったが、誰も悪く言う者はいなかった。ハンサムとは言い難いが好青年のカポと、美人とは決して言えないが愛嬌があって聡明なチポ。ふたりとも大人しくて、真面目でシャイ。似た者同士、もし結婚したらおしどり夫婦になるわねえ、などと気の早い婦人たちは噂する始末。両方の家族も概ね好意的に受け入れたのであった。
 集落公認の仲になると、畑仕事を終えた後もふたりは遠慮なく行動を共にするようになった。各々家で夕ごはんを済ませた後、エデンの森でデートを重ねた。カポと出会うまではエデンの森で風、動物たち、木や植物を相手にひとりぼっちで歌っていたチポであったが、今の彼女には愛するカポがいた。エデンの森でカポに向かって歌い掛けながら、チポはこう心に誓うのだった。
 わたし、カポの為に歌いたい。これからもずっとわたしは、カポの前で歌い続けよう。
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