(十一)エデンの森
文字数 6,505文字
「ほんとに、直ぐなのよ」
オリビアとふたりだけでチポの家を後にすると、予想通り外はまっ暗だった。夜空から注ぐ月光と、集落の家々の窓から漏れるはだか電球の灯りだけが頼りである。もしこれで停電なんてことになったら、本当に暗黒大陸だわ。ミサは、洒落になんない、とひとりで焦った。しかし目が闇に慣れて来ると、周囲の様子も幽かではあるが見えるようになって来た。ふたりはそして集落から離れ、遂に家々の灯りからも遠ざかった。
見上げれば月の光が夜の大陸を照らし、空には地上に降り注ぐかのような満天の銀河が瞬いていた。南十字星の姿もあった。それは息が止まるかと思う程の美しき別世界で、ミサは立ち止まり頭上に広がる感動の宇宙ショーを仰ぎ見ずにはいられなかった。
「きれいでしょう」
以心伝心。ミサの感動はアシスエデンの夜空を見慣れた筈のオリビアの琴線にも伝わり、彼女もまた足を止め頭上を見上げていた。
「うん、きれい」
思わずため息を零しながら頷いたミサ。肩を並べ、と言ってもオリビアの肩の位置が圧倒的に高かったが、ふたりはしばし夜空に見入っていた。
「さ、行きましょうか。もうチポもこっちに向かっているかも知れないわ」
「はーい」
オリビアに従い、ミサは歩き出した。辺りは真空の静寂、ミサが日本では味わったことのない完全な静けさが支配していた。暗黒と静寂の世界である。ミサは自分が本当に世界の果て、地球否宇宙の果てに来てしまったような気がしてならなかった。
しかし森に近付くにつれ、チポのこと、そして再び歌のことを思い出したミサは、恐る恐るオリビアに尋ねた。
「ねえ、オリビア。チポは歌が好きなの」
「ええ、そりゃもう。シャング一の歌好きで有名なのよ。それにね」
「うん」
「それに信じられない位、上手いのよ」
歌が上手い。その言葉にミサは即座に反応し、無意識に嫉妬と対抗心を抱いた。そしてそんな自分に同時に戸惑いをも覚えた。ばっかじゃない、わたしって。何考えてんのよ、ほんと、愚かな奴……。
「へえ、凄い。そんなに上手いの」
「そりゃ、もう。初めて聴いた時、わたし涙が止まらなかったわ」
ええっ、まじで。大袈裟過ぎんじゃない。矢張り嫉妬心から、懐疑を抱くミサであった。
「だってね、丸で天使の歌声なのよ」
天使の歌声……。そう言われてさっとミサが思い浮かぶのは、米国のミニー・リパートンである。ちょっと、ますます大袈裟なんじゃなーい、オリビアったら。ミサの懐疑心もますます強くなる一方。こりゃもう、自分の耳で確かめるしかなーーい。
「そんなに上手いなら、早くわたしも聴いてみたい」
「大丈夫よ、ミサ。慌てなくてもわたしたち、もう直ぐ目の前で聴けるんだから」
はやるミサにウィンクしながらも、オリビアのチポの歌に関する話題は途絶えない。
「もしもここがアシスエデンではなく、アメリカとかイギリス、勿論ジャパンでも構わない。何処かショービジネスを有する国だったなら、チポは間違いなく歌手、いいえ、トップスターになっている筈よ」
トップスター。だから、さっきからほめ過ぎだってば、オリビアのお姉様。ミサは内心、苦笑い。
「そんなに凄いんだったら、さっさとデビューしちゃえばいいんじゃない。レコード会社も芸能界も放っておかないでしょ、そんな逸材」
「だから、アシスエデンなのよ、ここは」
「えっ、どういうこと」
きょとんとするミサにオリビアは答えた。
「この国には、音楽産業もショービジネスも存在しないのよ」
「え、ええっ。そうなんだ」
これには吃驚のミサである。まさか、信じらんない。だったら、この国の子どもたちは一体どんなものに夢、憧れを抱くの。さっき会ったばかりのヤポやピポの顔が浮かんだ。それからオリビアのパジェロに集まって来た無邪気な子どもたちの姿が。
「さ、もう直ぐよ、エデンの森は」
「うん」
ミサは落ち着いて頷いた。アシスエデンにショービジネスがないことにショックを受けたミサは、お陰でシンガーとしての、チポに対する嫉妬や対抗心から解放された。今は純粋にチポの歌を聴いてみたい、早くチポに会いたいと願うばかりだった。
オリビアとミサの、ふたりのスニーカーの靴音だけが辺りに響き渡った。森に続く道に茂った草をざわつかせ、道端に身を潜める虫や小動物たちを驚かせた。しかし森の入口に近付くにつれ、段々と様々な音がふたりの靴音に加わって来た。砂混じりの風に揺れる草の音、木の枝や葉の揺れる音。夜行性の野鳥や動物たちの鳴き声も聴こえて来た。
エデンの森に着き、ふたりは足を止めた。周囲を見回すと、ミサにも見覚えのある木が立ち並んでいた。と言っても写真や絵でしか見たことはなかったが。
「バオバブの木ね」
オリビアに確かめたが、彼女はかぶりを振った。
「えっ、違うの」
「アシスエデンではね、バオバブのことを、トモロウの木と、呼んでいるのよ」
「へえ、トモロウの木」
しげしげとミサは、目の前に立つ一本のトモロウの木を見上げた。
「さあ、行きましょう」
うん。ミサは黙って頷いた。
森へと入ってゆくふたりの耳に、そして遂にその声は聴こえて来た。幽かに、けれど確かに、その女の歌声が。チポの歌う声である。
ミサははっとして、オリビアの顔を見詰めた。オリビアは無言で頷いた。或いは人差し指を唇に、縦に押し当てたのかも知れない。
ふたりはもう少し前進し、チポに気付かれずそしてはっきりとチポの歌声の聴き取れる場所、一本の大きなトモロウの木の陰で足を止めた。チポへの挨拶なら、いつだって出来る。今はチポの歌を中断させたくなかったし、森のそれは冒し難い程に清らかな空気に完璧に溶け込み、森と一体化したチポの歌声に、じっと聴き入っていたかったからである。チポの歌声は、確かにエデンの森を震わせていた。森の木々を、木々の葉を、大地を、植物、草、虫たち、鳥たち、動物たち、この森に生きとし生けるすべての魂を震わせているのではないかと思える程であった。
確かに、オリビアの言った通りだったわ。ミサは納得せざるを得なかった。なんて愚かなわたし。ミサはシンガーとしての完全なる敗北を認めるしかなかったし、最早そんなことはどうでも良い、取るに足らないことのように思えた。ただ純粋に、今聴こえ来るこの歌声に酔いしれていたい……。
それ程までに、チポの歌声は美しかった。とてもこの世のものとは思えない。なんて美声なの、こんなの生まれて初めて。天使、いや女神の歌声だわ。天が与えた、これはまったく別次元の声なのよ。それに比べて、わたしときたら。こんなの、とても敵いっこない。足元にも及ばないし、嫉妬を抱く資格すらないのよ。ミサは、自分が日本でシンガーソングライターなどとカッコ付けて来たことがただただ恥ずかしく、また哀れな道化師に過ぎなかったとさえ思えて来るのだった。
我知らず、いつしかミサの目には大粒の涙が溢れていた。それは木々の隙間から差し込んで来る月の光に煌めきながら、ゆっくりとミサの頬を伝い落ちていった。何という神々しさ、何という感動。歌ってやっぱり素晴らしい。チポさん、ありがとう……。
しかしチポの歌にはまだ、ミサを驚かせる別の事実が隠されていた。実はさっきからチポはずっと、繰り返し短いひとつの曲だけを歌っていたのである。その歌を幾度も聴いているうち、ミサはふとその曲を以前自分が聴いた覚えがある、そんな気がして来たのであった。確か何処かで聴いたような。確かにわたしは、この曲を知っている。そうだ、このメロディは……、お父さん。
今ミサの記憶が鮮やかに甦った。父が作ったオルゴールに耳を傾ける、幼い日の自分の姿がおぼろげに脳裏に浮かんだ。今チポが歌っているその曲こそ、亡き父保雄のオルゴールのメロディだったのである。じわーっと懐かしさが込み上げ、涙が更にミサの瞳と頬を濡らした。間違いない、お父さんのあの曲だ。そうでしょ、チポさん。ミサは今直ぐにでも、チポの許に駆け寄って行きたかった。
来て良かった。ねえ、お父さん。わたし、ここに来れて良かった。わたしはこの歌を聴く為に遥々この地に来たのだと、ミサは心から思った。
「さあ、そろそろ行きましょう」
ミサの肩に、そっとオリビアの手が触れた。さっきから彼女は、涙に濡れるミサをじっと見守っていたのである。
うん。ミサは頬に残る涙の跡を手で拭いながら、無言で頷いた。チポが歌い終わるタイミングを見計らって、ふたりはゆっくりと歩き出した。チポの歌を失くした森は、丸で深い沈黙の中に落ちたかのようであった。
「チポ」
チポへと近付きながら、囁くようにオリビアが呼んだ。えっ。吃驚したチポが、大きな目でオリビアを見詰め返した。
「どうしたの、オリビア。こんなところで」
ミサにとっては初めて聴く、普段のチポの声だった。しかしそれは、さっきまでの歌声とは丸で別人のそれであった。アフリカの大地に生きる、逞しい二児の母親の声であった。繊細とは程遠い、けれど力強く、陽気で温もりに満ちた太い声。
チポは自分の問いにオリビアが答えるより先に、オリビアがここに来た訳を悟った。
「あらあら、ごめんなさい。わたしとしたことが、大事なお客様のことをすっかり放ったらかしにしちゃって。歌い出すとほんと、何もかも忘れちゃうんだから。困ったおばさんね」
舌を出し、そして笑うチポの声は、森中に響き渡る程の豪快さ。それから真顔に戻ったチポは、自分の目の前に立っている二人の女性と見詰め合った。オリビア、そして隣りにいる小柄の日本女性。月光が、三人の姿を闇の中に照らし出していた。
「ミサね。会いたかったわ」
チポの声は低く、けれど深く心に染み入るそれだった。
「チポ」
陽気に答えたいミサだったが、その声にはまだ泣いた後の湿り気が残っていた。しかしそんなことはお構いなし、チポは行き成りミサを抱き締めた。
「ミスュ、ミサ。本当に来てくれたのね」
どきどき、どきどきっ……。逞しいチポの腕から、彼女の鼓動と体温そして体臭が伝わって来た。チポの情熱に包まれながら、温もりと感動で、ミサはまたしても泣いていた。
「チポ。わたしもあなたに会えて、本当に嬉しい」
チポとミサはオリビアが見守る中、しばし抱擁し合った。チポも長身、百七十五センチメートルあるから、ふたりのシルエットは丸で親子のそれであった。ミサは子どもが母に甘えるように、チポの胸に抱かれた。懐かしいような、切ないような、大地に抱かれているような気がした。いつまでも、こうしていたいと願った。初対面のチポでありながら、昔からの知り合いだったような気がして、とても他人には思えなかった。そしてそれはチポにとっても同様であった。
「ミサはちっとも変わってないわね。昔ヤスオが送ってくれた写真のまんまなんだから。直ぐにあなたがミサだって分かったわ」
写真。そうだったんだ、お父さん。見てみたいなあ、その写真。またしてもミサは、父保雄に思いを馳せずにはいられなかった。
抱擁を解いた後もチポとミサはオリビアを交え、森の中でしばらく語り合った。打ち解けて話すふたりの姿は、仲の良い姉妹のようでさえあった。
「ねえ、チポ。その写真、まだあなたの手元に有るのかしら。もしそうなら、見てみたいんだけど」
しかしチポの顔は俄かに曇った。
「ごめんなさい、ミサ。実はテロの襲撃を受けた際に、残念ながらみんな焼けてしまったのよ」
テロの襲撃。そうだったのか。
「こっちこそ、ごめんなさい。気にしないで」
かぶりを振り、ミサはチポに微笑んで見せた。
「ところでミサ、ヤスオはお元気」
えっ。そうだった。
今度はミサの方が顔を曇らせた。でも、そのことをはっきりとチポに告げなければならない。だってその為にもわたし、ここにやって来たのだから。
「実はね、チポ。わたし、父の代わりに来たの」
父の代わりに。ミサの沈痛な面持ちに、チポは先を聞かずして、答えを察知した。
「ミサ」
チポはじっとミサを見詰めながら、そっとミサの肩に手を置いた。
「父海野保雄は、十年前に、死にました」
「Ah……」
深いため息が、チポの口から漏れた。それは森の静寂の中に、やがて吸い込まれていった。チポは勇気付けるように、ポンポンとニ度三度ミサの肩をそっと叩いた。その瞳には、薄っすらと涙が滲んでいた。
「そうだったの、ちっとも知らなかったわ。十年前って言ったら、まだあなたが子どもの時じゃない」
「うん」
「あら、良くがんばったわね。辛かったでしょ」
慈愛に満ちたチポの顔に、ミサの涙腺もまた弛んだ。
「誰だって、いつかは死ぬものよ」
「そうね」
ミサは神妙に頷いた。
「十三年前、さっき話したけどテロの時、シャングの村でも、たくさんの仲間が死んでいったわ」
「うん」
「PFAのオフィスも壊されて。そう、その時からずっと、ヤスオにエアメールが送れなくなってしまったのよ」
残念そうに話すチポ。そうか、そういう訳だったのね。何にも知らなかった自分を、ミサもまた悔いた。
「でも、あなたがこうして来てくれた。ミスュ、ミサ」
「そんな、わたしなんか……」
それまでずっと二人の話を聞いていたオリビアが、口を開いた。
「ねえ、そろそろ家に戻らない。カポたちも待ち侘びているわ」
「そうね。やだ、わたしったら、またお喋りに夢中になっちゃって。ふたりとも、晩御飯は食べたの」
するとミサにウィンクを送りながら、オリビアが答えた。
「うん、わたしたちもう済ませて来たから。ね、ミサ」
「えっ、うん」
ミサは苦笑いを浮かべながら答えた。今更ディナーを終えた人たちから、ご馳走になる訳にもいかないし。
「あらあら、それは残念ねえ。じゃまた明日。しばらくは滞在してくれるんでしょ」
「勿論。一週間、いるつもりよ」
それを聞いて、安堵するチポ。三人はチポの家へと足を向け歩き出した。帰路でも三人の会話は、和気靄靄と弾んだ。
「ホテルは取ったの。なんなら、わたしの家に泊まりなさいよ」
「えっ」
「ホテル代もったいないし、狭いけど、ミサが寝るくらいの場所なら」
「そうねえ」
答えに困っているミサに、オリビアが助け舟。
「チポ。ミサは今日ジャパンから来たばかりなんだし、行き成り泊まるなんて無理じゃない。ジャパンとここじゃ、生活習慣だって全然違うし」
確かに、行き成りは無理かも。さっき入ったチポの家の中の様子を思い出すミサだった。
「分かったわ。じゃ、今度ね」
チポの家の前に来たら家には入らず、オリビアとミサはそこでチポと別れ、広場のパジェロに戻った。
それからオリビアにホテル・アシスエデンまで送ってもらい、礼を述べ、オリビアとも別れた。ミサはそしてひとりになった。ホテル内のレストランで夕食を取り、部屋に戻って、体中びっしょりと掻いた汗をシャワーで洗い流した。さっぱりしたら、ベッドに横になり、そのまま一直線で眠りに落ちた。と言いたいところ、衝撃的なチポとの出会いで興奮はまだ冷めやらず。なかなか寝付けなかった。
眠れないベッドの中で先ず考えたことは、ホテルとシャング間の移動手段のことである。オリビアは毎日送迎して上げると言ってくれたが、彼女だって忙しい身。こっちは観光旅行なんだし、出来たらオリビアの負担になりたくない。どうしよう。そこで思い付いたのがレンタカー。こんなこともあろうかと、国際免許証も準備して来た。確かホテルの向かいにレンタカー屋さんがあったような気がする。よーし、明日確かめて、借りれそうなら借りちゃえ。そしてオリビアに道を教えてもらえば、後は自力でシャングまで通える。いいぞ、いいぞ。
目を瞑れば、エデンの森のチポの歌声が今にも聴こえて来るようだった。天使のようなチポの歌声、お父さんが作ったあのメロディ、そしてお父さんのオルゴール。あっ、そうだ。オルゴールのこと、チポさんに聞くの忘れてた。明日、絶対確かめねば、お父さんのオルゴール……。木霊するチポの歌声の中で、いつしかミサは眠りに落ちた。朝まで一度として、目を覚ますことはなかった。
オリビアとふたりだけでチポの家を後にすると、予想通り外はまっ暗だった。夜空から注ぐ月光と、集落の家々の窓から漏れるはだか電球の灯りだけが頼りである。もしこれで停電なんてことになったら、本当に暗黒大陸だわ。ミサは、洒落になんない、とひとりで焦った。しかし目が闇に慣れて来ると、周囲の様子も幽かではあるが見えるようになって来た。ふたりはそして集落から離れ、遂に家々の灯りからも遠ざかった。
見上げれば月の光が夜の大陸を照らし、空には地上に降り注ぐかのような満天の銀河が瞬いていた。南十字星の姿もあった。それは息が止まるかと思う程の美しき別世界で、ミサは立ち止まり頭上に広がる感動の宇宙ショーを仰ぎ見ずにはいられなかった。
「きれいでしょう」
以心伝心。ミサの感動はアシスエデンの夜空を見慣れた筈のオリビアの琴線にも伝わり、彼女もまた足を止め頭上を見上げていた。
「うん、きれい」
思わずため息を零しながら頷いたミサ。肩を並べ、と言ってもオリビアの肩の位置が圧倒的に高かったが、ふたりはしばし夜空に見入っていた。
「さ、行きましょうか。もうチポもこっちに向かっているかも知れないわ」
「はーい」
オリビアに従い、ミサは歩き出した。辺りは真空の静寂、ミサが日本では味わったことのない完全な静けさが支配していた。暗黒と静寂の世界である。ミサは自分が本当に世界の果て、地球否宇宙の果てに来てしまったような気がしてならなかった。
しかし森に近付くにつれ、チポのこと、そして再び歌のことを思い出したミサは、恐る恐るオリビアに尋ねた。
「ねえ、オリビア。チポは歌が好きなの」
「ええ、そりゃもう。シャング一の歌好きで有名なのよ。それにね」
「うん」
「それに信じられない位、上手いのよ」
歌が上手い。その言葉にミサは即座に反応し、無意識に嫉妬と対抗心を抱いた。そしてそんな自分に同時に戸惑いをも覚えた。ばっかじゃない、わたしって。何考えてんのよ、ほんと、愚かな奴……。
「へえ、凄い。そんなに上手いの」
「そりゃ、もう。初めて聴いた時、わたし涙が止まらなかったわ」
ええっ、まじで。大袈裟過ぎんじゃない。矢張り嫉妬心から、懐疑を抱くミサであった。
「だってね、丸で天使の歌声なのよ」
天使の歌声……。そう言われてさっとミサが思い浮かぶのは、米国のミニー・リパートンである。ちょっと、ますます大袈裟なんじゃなーい、オリビアったら。ミサの懐疑心もますます強くなる一方。こりゃもう、自分の耳で確かめるしかなーーい。
「そんなに上手いなら、早くわたしも聴いてみたい」
「大丈夫よ、ミサ。慌てなくてもわたしたち、もう直ぐ目の前で聴けるんだから」
はやるミサにウィンクしながらも、オリビアのチポの歌に関する話題は途絶えない。
「もしもここがアシスエデンではなく、アメリカとかイギリス、勿論ジャパンでも構わない。何処かショービジネスを有する国だったなら、チポは間違いなく歌手、いいえ、トップスターになっている筈よ」
トップスター。だから、さっきからほめ過ぎだってば、オリビアのお姉様。ミサは内心、苦笑い。
「そんなに凄いんだったら、さっさとデビューしちゃえばいいんじゃない。レコード会社も芸能界も放っておかないでしょ、そんな逸材」
「だから、アシスエデンなのよ、ここは」
「えっ、どういうこと」
きょとんとするミサにオリビアは答えた。
「この国には、音楽産業もショービジネスも存在しないのよ」
「え、ええっ。そうなんだ」
これには吃驚のミサである。まさか、信じらんない。だったら、この国の子どもたちは一体どんなものに夢、憧れを抱くの。さっき会ったばかりのヤポやピポの顔が浮かんだ。それからオリビアのパジェロに集まって来た無邪気な子どもたちの姿が。
「さ、もう直ぐよ、エデンの森は」
「うん」
ミサは落ち着いて頷いた。アシスエデンにショービジネスがないことにショックを受けたミサは、お陰でシンガーとしての、チポに対する嫉妬や対抗心から解放された。今は純粋にチポの歌を聴いてみたい、早くチポに会いたいと願うばかりだった。
オリビアとミサの、ふたりのスニーカーの靴音だけが辺りに響き渡った。森に続く道に茂った草をざわつかせ、道端に身を潜める虫や小動物たちを驚かせた。しかし森の入口に近付くにつれ、段々と様々な音がふたりの靴音に加わって来た。砂混じりの風に揺れる草の音、木の枝や葉の揺れる音。夜行性の野鳥や動物たちの鳴き声も聴こえて来た。
エデンの森に着き、ふたりは足を止めた。周囲を見回すと、ミサにも見覚えのある木が立ち並んでいた。と言っても写真や絵でしか見たことはなかったが。
「バオバブの木ね」
オリビアに確かめたが、彼女はかぶりを振った。
「えっ、違うの」
「アシスエデンではね、バオバブのことを、トモロウの木と、呼んでいるのよ」
「へえ、トモロウの木」
しげしげとミサは、目の前に立つ一本のトモロウの木を見上げた。
「さあ、行きましょう」
うん。ミサは黙って頷いた。
森へと入ってゆくふたりの耳に、そして遂にその声は聴こえて来た。幽かに、けれど確かに、その女の歌声が。チポの歌う声である。
ミサははっとして、オリビアの顔を見詰めた。オリビアは無言で頷いた。或いは人差し指を唇に、縦に押し当てたのかも知れない。
ふたりはもう少し前進し、チポに気付かれずそしてはっきりとチポの歌声の聴き取れる場所、一本の大きなトモロウの木の陰で足を止めた。チポへの挨拶なら、いつだって出来る。今はチポの歌を中断させたくなかったし、森のそれは冒し難い程に清らかな空気に完璧に溶け込み、森と一体化したチポの歌声に、じっと聴き入っていたかったからである。チポの歌声は、確かにエデンの森を震わせていた。森の木々を、木々の葉を、大地を、植物、草、虫たち、鳥たち、動物たち、この森に生きとし生けるすべての魂を震わせているのではないかと思える程であった。
確かに、オリビアの言った通りだったわ。ミサは納得せざるを得なかった。なんて愚かなわたし。ミサはシンガーとしての完全なる敗北を認めるしかなかったし、最早そんなことはどうでも良い、取るに足らないことのように思えた。ただ純粋に、今聴こえ来るこの歌声に酔いしれていたい……。
それ程までに、チポの歌声は美しかった。とてもこの世のものとは思えない。なんて美声なの、こんなの生まれて初めて。天使、いや女神の歌声だわ。天が与えた、これはまったく別次元の声なのよ。それに比べて、わたしときたら。こんなの、とても敵いっこない。足元にも及ばないし、嫉妬を抱く資格すらないのよ。ミサは、自分が日本でシンガーソングライターなどとカッコ付けて来たことがただただ恥ずかしく、また哀れな道化師に過ぎなかったとさえ思えて来るのだった。
我知らず、いつしかミサの目には大粒の涙が溢れていた。それは木々の隙間から差し込んで来る月の光に煌めきながら、ゆっくりとミサの頬を伝い落ちていった。何という神々しさ、何という感動。歌ってやっぱり素晴らしい。チポさん、ありがとう……。
しかしチポの歌にはまだ、ミサを驚かせる別の事実が隠されていた。実はさっきからチポはずっと、繰り返し短いひとつの曲だけを歌っていたのである。その歌を幾度も聴いているうち、ミサはふとその曲を以前自分が聴いた覚えがある、そんな気がして来たのであった。確か何処かで聴いたような。確かにわたしは、この曲を知っている。そうだ、このメロディは……、お父さん。
今ミサの記憶が鮮やかに甦った。父が作ったオルゴールに耳を傾ける、幼い日の自分の姿がおぼろげに脳裏に浮かんだ。今チポが歌っているその曲こそ、亡き父保雄のオルゴールのメロディだったのである。じわーっと懐かしさが込み上げ、涙が更にミサの瞳と頬を濡らした。間違いない、お父さんのあの曲だ。そうでしょ、チポさん。ミサは今直ぐにでも、チポの許に駆け寄って行きたかった。
来て良かった。ねえ、お父さん。わたし、ここに来れて良かった。わたしはこの歌を聴く為に遥々この地に来たのだと、ミサは心から思った。
「さあ、そろそろ行きましょう」
ミサの肩に、そっとオリビアの手が触れた。さっきから彼女は、涙に濡れるミサをじっと見守っていたのである。
うん。ミサは頬に残る涙の跡を手で拭いながら、無言で頷いた。チポが歌い終わるタイミングを見計らって、ふたりはゆっくりと歩き出した。チポの歌を失くした森は、丸で深い沈黙の中に落ちたかのようであった。
「チポ」
チポへと近付きながら、囁くようにオリビアが呼んだ。えっ。吃驚したチポが、大きな目でオリビアを見詰め返した。
「どうしたの、オリビア。こんなところで」
ミサにとっては初めて聴く、普段のチポの声だった。しかしそれは、さっきまでの歌声とは丸で別人のそれであった。アフリカの大地に生きる、逞しい二児の母親の声であった。繊細とは程遠い、けれど力強く、陽気で温もりに満ちた太い声。
チポは自分の問いにオリビアが答えるより先に、オリビアがここに来た訳を悟った。
「あらあら、ごめんなさい。わたしとしたことが、大事なお客様のことをすっかり放ったらかしにしちゃって。歌い出すとほんと、何もかも忘れちゃうんだから。困ったおばさんね」
舌を出し、そして笑うチポの声は、森中に響き渡る程の豪快さ。それから真顔に戻ったチポは、自分の目の前に立っている二人の女性と見詰め合った。オリビア、そして隣りにいる小柄の日本女性。月光が、三人の姿を闇の中に照らし出していた。
「ミサね。会いたかったわ」
チポの声は低く、けれど深く心に染み入るそれだった。
「チポ」
陽気に答えたいミサだったが、その声にはまだ泣いた後の湿り気が残っていた。しかしそんなことはお構いなし、チポは行き成りミサを抱き締めた。
「ミスュ、ミサ。本当に来てくれたのね」
どきどき、どきどきっ……。逞しいチポの腕から、彼女の鼓動と体温そして体臭が伝わって来た。チポの情熱に包まれながら、温もりと感動で、ミサはまたしても泣いていた。
「チポ。わたしもあなたに会えて、本当に嬉しい」
チポとミサはオリビアが見守る中、しばし抱擁し合った。チポも長身、百七十五センチメートルあるから、ふたりのシルエットは丸で親子のそれであった。ミサは子どもが母に甘えるように、チポの胸に抱かれた。懐かしいような、切ないような、大地に抱かれているような気がした。いつまでも、こうしていたいと願った。初対面のチポでありながら、昔からの知り合いだったような気がして、とても他人には思えなかった。そしてそれはチポにとっても同様であった。
「ミサはちっとも変わってないわね。昔ヤスオが送ってくれた写真のまんまなんだから。直ぐにあなたがミサだって分かったわ」
写真。そうだったんだ、お父さん。見てみたいなあ、その写真。またしてもミサは、父保雄に思いを馳せずにはいられなかった。
抱擁を解いた後もチポとミサはオリビアを交え、森の中でしばらく語り合った。打ち解けて話すふたりの姿は、仲の良い姉妹のようでさえあった。
「ねえ、チポ。その写真、まだあなたの手元に有るのかしら。もしそうなら、見てみたいんだけど」
しかしチポの顔は俄かに曇った。
「ごめんなさい、ミサ。実はテロの襲撃を受けた際に、残念ながらみんな焼けてしまったのよ」
テロの襲撃。そうだったのか。
「こっちこそ、ごめんなさい。気にしないで」
かぶりを振り、ミサはチポに微笑んで見せた。
「ところでミサ、ヤスオはお元気」
えっ。そうだった。
今度はミサの方が顔を曇らせた。でも、そのことをはっきりとチポに告げなければならない。だってその為にもわたし、ここにやって来たのだから。
「実はね、チポ。わたし、父の代わりに来たの」
父の代わりに。ミサの沈痛な面持ちに、チポは先を聞かずして、答えを察知した。
「ミサ」
チポはじっとミサを見詰めながら、そっとミサの肩に手を置いた。
「父海野保雄は、十年前に、死にました」
「Ah……」
深いため息が、チポの口から漏れた。それは森の静寂の中に、やがて吸い込まれていった。チポは勇気付けるように、ポンポンとニ度三度ミサの肩をそっと叩いた。その瞳には、薄っすらと涙が滲んでいた。
「そうだったの、ちっとも知らなかったわ。十年前って言ったら、まだあなたが子どもの時じゃない」
「うん」
「あら、良くがんばったわね。辛かったでしょ」
慈愛に満ちたチポの顔に、ミサの涙腺もまた弛んだ。
「誰だって、いつかは死ぬものよ」
「そうね」
ミサは神妙に頷いた。
「十三年前、さっき話したけどテロの時、シャングの村でも、たくさんの仲間が死んでいったわ」
「うん」
「PFAのオフィスも壊されて。そう、その時からずっと、ヤスオにエアメールが送れなくなってしまったのよ」
残念そうに話すチポ。そうか、そういう訳だったのね。何にも知らなかった自分を、ミサもまた悔いた。
「でも、あなたがこうして来てくれた。ミスュ、ミサ」
「そんな、わたしなんか……」
それまでずっと二人の話を聞いていたオリビアが、口を開いた。
「ねえ、そろそろ家に戻らない。カポたちも待ち侘びているわ」
「そうね。やだ、わたしったら、またお喋りに夢中になっちゃって。ふたりとも、晩御飯は食べたの」
するとミサにウィンクを送りながら、オリビアが答えた。
「うん、わたしたちもう済ませて来たから。ね、ミサ」
「えっ、うん」
ミサは苦笑いを浮かべながら答えた。今更ディナーを終えた人たちから、ご馳走になる訳にもいかないし。
「あらあら、それは残念ねえ。じゃまた明日。しばらくは滞在してくれるんでしょ」
「勿論。一週間、いるつもりよ」
それを聞いて、安堵するチポ。三人はチポの家へと足を向け歩き出した。帰路でも三人の会話は、和気靄靄と弾んだ。
「ホテルは取ったの。なんなら、わたしの家に泊まりなさいよ」
「えっ」
「ホテル代もったいないし、狭いけど、ミサが寝るくらいの場所なら」
「そうねえ」
答えに困っているミサに、オリビアが助け舟。
「チポ。ミサは今日ジャパンから来たばかりなんだし、行き成り泊まるなんて無理じゃない。ジャパンとここじゃ、生活習慣だって全然違うし」
確かに、行き成りは無理かも。さっき入ったチポの家の中の様子を思い出すミサだった。
「分かったわ。じゃ、今度ね」
チポの家の前に来たら家には入らず、オリビアとミサはそこでチポと別れ、広場のパジェロに戻った。
それからオリビアにホテル・アシスエデンまで送ってもらい、礼を述べ、オリビアとも別れた。ミサはそしてひとりになった。ホテル内のレストランで夕食を取り、部屋に戻って、体中びっしょりと掻いた汗をシャワーで洗い流した。さっぱりしたら、ベッドに横になり、そのまま一直線で眠りに落ちた。と言いたいところ、衝撃的なチポとの出会いで興奮はまだ冷めやらず。なかなか寝付けなかった。
眠れないベッドの中で先ず考えたことは、ホテルとシャング間の移動手段のことである。オリビアは毎日送迎して上げると言ってくれたが、彼女だって忙しい身。こっちは観光旅行なんだし、出来たらオリビアの負担になりたくない。どうしよう。そこで思い付いたのがレンタカー。こんなこともあろうかと、国際免許証も準備して来た。確かホテルの向かいにレンタカー屋さんがあったような気がする。よーし、明日確かめて、借りれそうなら借りちゃえ。そしてオリビアに道を教えてもらえば、後は自力でシャングまで通える。いいぞ、いいぞ。
目を瞑れば、エデンの森のチポの歌声が今にも聴こえて来るようだった。天使のようなチポの歌声、お父さんが作ったあのメロディ、そしてお父さんのオルゴール。あっ、そうだ。オルゴールのこと、チポさんに聞くの忘れてた。明日、絶対確かめねば、お父さんのオルゴール……。木霊するチポの歌声の中で、いつしかミサは眠りに落ちた。朝まで一度として、目を覚ますことはなかった。
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