(十二)ニ日目

文字数 4,605文字

 アシスエデンで迎えた初めての朝、ミサは小鳥の囀りで目覚めた。一瞬自分が何処にいるのか、分からず混乱した。そんなミサを落ち着かせたのは、まだ耳の奥で木霊するチポの歌声であった。
 そうだ。わたし、アシスエデンに来たんだった。疲れはなく、目覚めの気分も良かった。小鳥たちの囀りの中に、チポの歌声が聴こえて来る気がした。丸で天国にいるみたい。暑さだって、日本の夏と変わらないような感じ。いいなあ、アシスエデン。ミサはベッドから飛び起きた。
 部屋の柱時計を見ると、七時を回っていた。カーテンの間から漏れて来る朝陽が眩しそうである。思い切ってカーテンと窓を開ければ、そこには雲ひとつない青空が。きれーい。でもやっぱ暑ーっ。直ぐに額と脇に汗が滲んで来た。それに流石は首都トピアの中心部。通りを忙しく歩くビジネスパーソンの姿も見えるし、賑やかな人々や車のノイズも聴こえて来た。
 ホテルのレストランでモーニングサービスのクロワッサンと珈琲の食事を取りながら、棚に置いてあった英字の新聞をぱらぱらとめくった。読むと言うより、眺めただけ。どうでもいいわ。今のわたしに事件とか経済とか国際問題とか、その他諸々、何にも関係なーい。よし、オリビアが来る前にレンタカー屋でも覗いて来るか。と思ったが、のんびりし過ぎたせいか、既に八時半過ぎ。
 オリビアは九時前に迎えに来てくれる。てことは彼女はシャングのシティを八時には出て来なきゃなんない。やっぱ、申し分けなーい。予定通りの時間に迎えに来たオリビアに、早速ミサはレンタカーを借りたい旨を申し出た。気を悪くするかと思ったが、オリビアはにこにこ快諾してくれた。
「OK。その方がミサも自由に動けるしね。でも困ったら、遠慮せず直ぐに言って頂戴」
「はーい。お姉さま」
 オリビアに付いて来てもらい、ホテルの向かいのレンタカーショップに入った。オリビアのお陰で商談はスムーズに運び、六日間に念の為出発の日分を加えて七日間借りることにした。車はブルーのパジェロ。支払いはドル払い。ちなみに日本車は当然ながら直接日本から入って来る訳ではなく、南アフリカ経由でアシスエデンに輸入されているとのことだった。
 よし、これで毎日ホテルとシャングを行き来出来るぞ。それに基本寝泊りはホテルだけど、もし何かあれば車中泊したって良いし、チポの家に泊まらせてもらうのだって有りかも。などと滞在期間中の行動に、ひとり思いを馳せるミサであった。
「では、遅くなったけど、出発しましょう」
「はーい」
 ミサは車にギターを乗せ、オリビアのパジェロの後に付いてホテルを出発した。実はギターの他に、カセットテープレコーダーも持参した。日本にいる時からミサは、是非父のオルゴールを録音し、テープに収めて持ち帰りたいと願っていたからである。
 さあ、目指すはシャング。先ずは道を覚えなきゃ。ミサはしっかりとオリビアの後に付いて、道と標識、風景を確かめながら走行した。先ずトピアの中心部、流石に日本の都会並みに交通量が多くかつ細い道を通過した。ここら辺は、標識を辿れば何とかなりそう。
 それから郊外へ。しかしひとたび郊外へ出れば後はシャングまでは道一本の一直線。舗装された広い道路を、農村地帯に沿ってただひたすら走り続ければ良いだけ。
「あれっ、そうだったっけ」
「そうよ。だから楽勝でしょ」
 にっこり微笑むオリビアに、ミサは拍子抜け。でも良かった。交通量だって大したことないし。ミサも余裕の笑みを浮かべ、リラックス。
「じゃ、こっからはがんがん飛ばすから、ちゃんと付いて来てよ、ミサ」
「OK。何処までも付いてゆきますわ、お姉さま」
 車窓から叫ぶオリビアに、威勢良く叫び返した。日本での憂鬱などすっかり影を潜めたミサである。
 オリビアのパジェロを見失わないように車を飛ばしながら、農村地帯の景色を眺めるミサ。畑、原野、地平線、何処までも果てしなく続く道。大地が広がり、緑が広がり、そしてみんな、大空の青さへとつながっている。原野においては、野生動物の姿も時より垣間見えた。キリン、シマウマ、インパラ、それにアフリカゾウも。わーっ、凄い。コンドルも飛んでる。水辺には、アフリカスイギュウやクロコダイルも。恐そう。でもみんな、のんびりとしてて、気持ち良さそう。
 窓を一杯に開ければ、風が髪をかき乱し、頬を引っ叩いてゆく。ふーっ、強烈。それに蒸し暑ーい。でも、澄んだ空気が美味しい。気持ち良過ぎて堪んない。ふう、気分爽快。わたし、あんな狭っ苦しい日本の中で、一体何を悩んでいたんだろう、まったく。ちまちました下らないことなんか、どっかへ吹っ飛んでしまえーーっ。
 身も心も軽くなり、アフリカの大地の中で解放されたミサの魂は、何処までも何処までも車ごと飛んでいってしまいそうだった。生きてるって、素っ晴らしい。今わたしは、確かに生きているんだ。わーーーっ。思いっ切り、大声で叫び出したい。そして、歌いたーーいっ。
 ……えっ、ちょっと待ってよ。ふと我に返ったミサ。それとこれとは話が別でしょ。あんた何考えてんのよ、いい歳こいて。兎に角、歌のことは駄ー目。もう日本で、歌なんか歌わないって決めたんだから、でしょ。でも……。ミサは自問自答する。でもここは日本じゃないし。でも、でもわたしやっぱり、歌いたい。我慢出来なーーいっ。このようなミサの歌への気持ちの変化には、当然昨夜のチポの歌が大きな刺激と影響を、与えているのは言うまでもない。
 しょうがないなあ、もう。ミサは苦笑いを浮かべるしかなかった。そしてミサは、昨夜チポが歌ったあの歌、詰まり父保雄が作ったオルゴールのメロディを、ハミングで口遊み出した。短い歌だしかつ何度も聴いていたから、すっかりもうメロディを覚えていたのである。
 けれど歌詞の方はまだ、残念ながら覚えられなかった。確かにもしチポが英語で歌っていたならば、歌詞も覚えられたであろう。しかしチポは、グリラ語で歌っていたのである。その為ミサは意味も理解出来ず、歌詞を覚えることも出来なかった。その為ハミングで口遊むにとどまったのであった。
 でも歌詞があるってことは、誰かが作詞したってことでしょ。もしかしてお父さん。でもお父さんって、グリラ語分かってたのかなあ。それとも日本語か英語で作ったのを誰か、もしかしてチポ、が翻訳したのかも。よし、このことも後でチポさんに聞いてみよう。あーっ忙し。
 こうしてミサは、最高のドライブを楽しみながら、あっという間にシャングに到着したのであった。

 今日はもうPFAの事務局には寄らず、シティを通過した。そのまま一本道を走り続けてしばらくすると、見覚えのある集落が見えて来た。チポの集落である。時刻は十時半少し前。
 集落の広場の隅に二台の車が止まるのを、何事かと集落の人々が好奇の目で眺めていた。
「ビュテ」
 先に車を降りたオリビアが、大声で皆に声を掛けた。すると人々も愛想良く挨拶を返して来た。
「ビュテ、オリビア」
「ビュテ、相変わらず元気な人ね」
 みんな安心した顔で、それぞれの持ち場へと帰っていった。
「ビュテ。どういう意味」
 パジェロを降りて、ミサが尋ねた。
「おはよう」
「ああ、OK」
 チポの家へと向かいながら、オリビアが尋ねた。
「どう、明日からひとりで大丈夫」
「OK。今夜から、もう大丈夫よ」
 そこへ、道の反対側から見覚えのあるひとりの女性が。逞しい身体付き、直ぐにチポだと分かった。
「グッドモーニング。ミサ、オリビア」
 チポは大きく手を振りながら近付いて来た。答えて、ミサが叫んだ。
「ビュテ、チポーーッ」
「あら。ビュテ、ミサ」
 チポは大きく手を広げ、豪快に笑いながらミサを迎えた。その笑顔に包まれると、ミサは安らぎを覚えずにはいられなかった。異国の地でありながらこのシャングの村が、自分の故郷であるかのようにすら思えるのだった。
「じゃ、わたしはお役御免ね。夕方立ち寄るから、なんかあったら声を掛けて頂戴」
「うん、ありがとう」
 チポへの挨拶を済ませると、オリビアはシティのオフィスへと戻っていった。
 これで初めて、チポとふたり切りになった。けれど緊張などない。ふたり並んで歩き出した。
「さ、家に入りましょう。今は誰もいないのよ」
 子どもたちは二人とも小学校に行ったし、旦那のカポもさっさと畑に出て、今頃は汗だくで働いていることだろう。シャングの男連中は大抵早朝から仕事を始め、お昼には切り上げるそうだ。後は広場に集まって、お喋りしたり、木陰で涼んだり、昼寝したり……。
「朝の食事は取ったの」
「うん、大丈夫」
 ミサは笑みを浮かべたが、チポの次の言葉に吃驚。
「アシスエデンでは、朝は食べないのよ」
「えっ、ほんと」
 チポは頷いた。
「だからグリラ語にも、ブレックファーストに相当する言葉はないの」
「へーーっ。知らなかった」
「尤も近頃では、欧米化されたトピアの街辺りで、食べてる人もいるみたいだけどね」
「そうね」
「アシスエデンじゃ昔っから、朝は透き通った空気と水と太陽の光さえあれば、それで生きてゆけるのよ」
 へえ、何だか仙人みたい。わたしも真似してみようかな、元々朝は小食だし。ミサがそんなことを思っているうちに、チポの家の前。
「どうぞ」
「はい、お邪魔しまーす」
 チポの家に入った。直ぐに昨夜と同じにおいがした。気にはなったがチポが窓を開けてくれたお陰で、多少和らいだ。それに直ぐに慣れるだろうとも思った。
 昨夜はここでゆっくりする暇もなかったが、見回すと部屋の中はかなり質素だった。玄関からベッドルームとキッチンとに分かれ、どっちの部屋にも窓が一つずつあった。ベッドルームには夫婦の大きなベッドがひとつと、子どもたちそれぞれのベッドが並んでいた。ベッドには棚があり、しかし他には何もなかった。天井から、はだか電球がひとつ垂れ下がっているだけ。
 一方キッチンを見ると食卓があり、それを四つの椅子が囲んでいた。四人家族。食卓の上には電気コンロが置かれていたが、全体にキッチンというより倉庫といった印象だった。床には水を貯めた大きな甕があったり、収穫したトウモロコシが積み重なって置かれていた。その他に、いも、トマト、大豆、ムリオという菜っ葉なども。棚があり、そこには食器、鍋、ナイフや食パン、ピーナッツバター、調味料が並んでいた。それから停電で電気コンロが使えない時の為に、木炭とそれをくべるコンロもあった。
 ふたりはキッチンの椅子に腰を下ろした。窓から差し込む午前の光が、部屋全体を明るく照らしていた。
「この土地の人は、みんな人懐っこいからね。ミサにも遠慮なく挨拶して来る筈だから、グリラ語の挨拶、少し覚えておく」
 チポの問いに、望むところとミサは微笑み、頷いた。
「ありがとう。是非、お願い」
「じゃ、おはよう、が、ビュテ」
「ビュテ」
「こんにちは、が、ドリム」
「ドリム」
「今晩は、が、サンク」
「サンク」
「お休みなさい、が、リーヴ」
「リーヴ」
「さよなら、が、ハッピ」
「ハッピ」
「ありがとう、が、ミスュ」
「ミスュ」
「あと、挨拶の言葉じゃないけど」
「うん」
「幸福、が、テアズ」
「テアズ」
「夢、は、トモロウ」
「夢が、トモロウ」
「OK」
 満足そうにチポが笑った。トモロウと呟くミサの唇を、風がそっと撫でていった気がする。トモロウは、夢。
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