(三)チポと保雄

文字数 6,819文字

 プラネット・フォー・アフリカ。略してPFAは、英国はロンドンに本部を置く、アフリカ大陸の貧困国、開発途上国に於ける国民の生活向上を支援する国際NGO団体である。歴史は古く、西暦一九五二年に英国で設立されるや、世界中に支援の輪が拡大した。
 支援プログラムのひとつに教育サポートがあり、教育の機会に恵まれないアフリカの貧しい家の子どもたちの為に、広く海外から経済的里親を募り支援を行っている。この経済的里親はPFAペアレントと呼ばれ、彼らの援助によって多くの子どもたちが小学校、中学校に通っている。日本にも事務局があり、新聞、雑誌等の広告を通じて、積極的に支援を呼び掛けている。
 アシスエデンも支援の対象国に指定されており、西暦二〇〇五年の国連による『アシスエデン・国家廃絶決議案』によって同国が先進国の世界地図から抹消された後も、変わらぬ支援が続けられていた。アシスエデンに於けるPFAの事務局は、シャングのシティにオフィスを構えていた。

 時は西暦一九九〇年。チポが五歳から六歳にかけて、であるからまだチポがチポ・トウカであった時代のことである。PFAアシスエデン事務局は、貧しいトウカ家のチポに教育支援を行うことを決定した。チポの担当者は、アリス・ヘンダーソンという二十五歳の英国女性であった。
 PFAではPFAペアレントに対し、例えば国や性別などと言った、どんな子どもを援助したいかという希望は一切考慮せず、無作為に支援を受ける子どもとのカップリングを行っており、それは現在も変わらない。チポと彼女のPFAペアレントの場合も同様で、誰が選ばれたかと言うと、その頃PFAに教育支援を申し込んでいた日本人男性、海野保雄(三十五歳)であった。彼には妻の美鈴と、一人娘の美砂がいた。
 海野保雄はチポの小学校入学前と、チポが小学校、中学校に通う間の、合わせて約十年間、チポへのサポート、具体的には毎月二万円を継続してPFAに送金することを約束した。それだけの金額があれば、チポ一人の教育費並びに生活費用までも賄うことが出来たのである。こうしてチポの教育支援プログラムはスタートした。支援の期間中PFAから定期的にチポの成長レポートが海野に郵送されると共に、チポと海野はPFAを介してエアメールのやり取りが出来た。
 入学準備が整い、チポが無事シャング小学校に入学すると、チポの父アポと母ミポから海野宛に感謝のエアメールが送られた。ただしアポもミポも貧しさゆえ小学校すら充分に通えず、グリラ語を話すのがやっとだった。そこで彼らのお喋りを英語に翻訳したものプラス日本語訳(日本事務局による)が、海野の元に届いたのである。
『遠い国の友、ヤスオ・ウミノに感謝します。
 娘のチポは無事シャング小学校に入学しました。毎日元気はつらつとして小学校に通い、勉強に励んでいます。これもヤスオのお陰です。あなたに多幸あらんことを、いつも家族全員で祈っています。
 チポ・トウカに代わって、アポ・トウカとミポ・トウカより』
 加えて『今後チポが小学校で英語を習うようになれば、チポの成長と共に彼女直筆の英語の手紙があなたのお手元に届くようになるでしょう』と、アリス・ヘンダーソンの追記が為されていた。
 その言葉通り、チポは毎日一生懸命勉強し英語も上達した。チポの成長の姿を、海野は三ヶ月に一度のペースで送られて来るPFA発のエアメールによって知ることが出来た。アリスからの成長レポートにはその時々のチポと家族の写真が添えられ、加えて毎回チポ直筆の英語の便りも読むことが出来た。海野は実の娘である美砂の成長と同様に喜び、毎回必ずチポに英語で返事を書いた。
『親愛なるチポ、お元気ですか。
 わたしの住む日本の横浜は、国際的な港町です。夜の景色がそれは美しく、海も青く、とてもきれいです。わたしは海が大好きで、時間があればいつも海を見にゆきます。海を見ながら、アシスエデンはどんな国なんだろうといつも想像します。それがわたしの生活の、楽しみのひとつになっているのです。
 どうかチポが学校生活をエンジョイ出来ることを、心より祈っております。
 それでは、海野保雄』
 文面の通り、海野は海が好きであった。海が好きで、波の音が好きで、時間が許せば一日中でもぼんやりと海を見ていられる、そんな男だった。

 時は流れ、チポが十歳の春。小学五年生に上がったチポは両親と共にシティのチャペルにゆき、そこで洗礼を受けクリスチャンとなった。チポは親思いの、聡明で心のやさしい少女になっていた。そんなチポが、或る時こんなエアメールを海野に送った。
『親愛なるヤスオ、お元気ですか。
 いつもあなたの海の話を読むのが、わたしの何よりの楽しみです。でもご存知の通り、わたしの国アシスエデンには海がありません。シャングの村には湖がありますが、湖と海は全然違いますか。今日五年生の社会科の教科書に海の写真が小さく載っているのを見付け、わたしは胸がワクワクしました。けれど残念ながらそれだけでは、ヤスオ、あなたがわたしに語ってくれた、果てしない海の広さも、透き通った海の青さも、そして海の波音の美しさも、感じることは出来ません。ああ、一生に一度でいいから海を見てみたい。海の音をこの耳で聴くことが出来たなら、どんなにか素敵なことでしょう。また、海の話を聞かせて下さいね。楽しみにしています。
 いつも変わらぬサポートを、ありがとうございます。あなたへの尽きぬ感謝の思いは、とても言葉で言い表せるものではありません。それでは、チポより』
 このチポの海への憧れに対し、海野はどうにかしてチポに海を体感させて上げたいと心から願った。彼は一生懸命、知恵を絞った。
 例えば、海水や砂浜の砂を送ってはどうか。けれど海自体をイメージ出来ないチポには、ただの水と砂の粒に過ぎないのではあるまいか。従って、これは没。
 では海の音をカセットテープに録音して送ってみるのはどうか。しかしこれにも問題があった。なぜならチポの家に、カセットプレーヤーがあるとは思えないからである。加えて高価なプレゼントは遠慮してくれと、アリスからの要請も受けている。それに灼熱の国では、磁気テープなど直ぐに傷んでしまうのではないか。その点も気になった。これらのことから、この案も諦めた。
 では仕方がない。安易ではあるが海の写真を送ることとしよう。取り敢えず横浜の海の写真を、美鈴そして美砂と三人で写った家族の記念写真と共に送ることにした。しかしそれだけでは矢張り何か物足りない。他に何か妙案はないものだろうか。
 海野は真剣に悩んだ。幾日も大桟橋に足を運び、じっと海を見詰め、海に問い掛けた。そんな海野に、海はただ港に寄せ返す波音を聴かすのみであった。海野の耳に響く、波止場に打ち寄せる潮騒また潮騒……。
 ああ、やっぱり海の音はいいなあ。そうだ、やっぱりチポには、この海の音を聴かせて上げたい。午後の大桟橋に佇みながら、海野は思った。でもカセットテープは駄目。ではどうやって。
 悩める海野。青い空から降り注ぐ午後の陽射しが、きらきらと海の面、寄せ返す波に当たって、それは眩しく煌めいていた。海野はその黄金色の煌めきが、丸でオルゴールの音色のように思えた。オルゴール……。
 そうだ。海野ははっと閃いた。オルゴールだ。チポにオルゴールを贈ろう。勿論、ただのオルゴールではない。それは海を感じさせる、海の潮騒を奏でるオルゴールなのだ。
 オルゴール。これなら電気もいらないし、高価でもない。それにオルゴールさえ壊れない限りは、半永久的に聴くことだって出来るではないか。よーし、決まり。
 こうしてチポにオルゴールを贈ることを思い付いた海野であったが、すんなりとはいかなかった。直ぐに問題に直面した。なぜなら海を感じさせる、海の潮騒を奏でるオルゴールなどというものが、市販品には見当たらなかったからである。しかしそれも当然と言えば当然。
 ならば。海野は決意した。いっそのこと自分で作ってしまえ。海をイメージさせる、あたかも海の潮騒を思わせるメロディを自作し、それをオルゴールに奏でさせよう。海野はそう考えた。詰まりメロディもオルゴールも自作。
 早速海野は若い頃弾いていたフォークギターを使って、彼なりに海の潮騒を思わせるメロディを作曲した。
 メロディが出来上がると、今度はオルゴール本体を個人で作れるものなのか否か調べた。あれこれと調べてはみたが、結果は芳しくなかった。結論として、個人で作るのは困難だと分かった。仕方なく海野は、オルゴールの製作会社に発注することにした。
 先ず自作のメロディを、カセットテープに吹き込んだ。そして出来上がったテープを『サンキョー』というオーダーメイドでオルゴールを製作してくれる会社に持ち込んだ。するとオルゴールは直ぐに完成した。費用は十万円したが、出来上がったオルゴールは納得のいくものだった。海野は満足した。
 シリンダータイプの三十弦オルゴールで、演奏時間は四十秒。外装はゴールドのオルゴール本体が見える、透明なプラスチックケースにした。シンプルではあるが、この方が下手に洒落た木製の箱型タイプ等より長持ちしそうに思えたからである。それに同等の市販品なら千円もしない筈であるから、高額だからとPFAに断られる心配もないであろう。
 海野は完成したオルゴールを、直ぐにチポへと送った。こうして一人の日本人の中年男性の願いを込めたオルゴールは、遥々海を越え、PFA経由でアリスの手からチポへと届けられたのである。
 オルゴールに添えられた、海野のチポへの便りはこうであった。
『親愛なるチポへ。
 お元気ですか。今日はあなたに、ささやかなプレゼントを送りました。これはオルゴールと呼ばれる楽器の一種で、ネジを巻けば音楽が流れるようになっています。流れて来るメロディは、わたしなりに可能な限り海の音に近いものになるよう作りました。これを聴いて、あなたが少しでも海を感じられたら良いのですが。
 同封した海の写真と共に、楽しんでもらえたらと思います。ついでにわたしの家族の写真も同封しましたので、御覧下さい。右が妻の美鈴、中央が娘の美砂、そして左がわたしです。
 では、また。海野保雄より』
 しかし生まれて初めてオルゴールというものを目にしたチポは、戸惑うばかりだった。それを見たPFAのアリスがにこっと笑みを浮かべながら、チポに語り掛けた。
「どうしたの、チポ。ヤスオからの折角の贈り物なんだから、遠慮せず手に取って御覧なさい」
 アリスに促され恐る恐る箱からオルゴールを取り出すと、チポはそっと自分の掌に乗せた。
「そう、そのネジを巻くのよ」
 アリスに言われるまま、チポは無言で頷き、恐る恐るネジを回した。一回、二回……。すると海野のオルゴールが息を吹き込まれた小鳥のように、魂が宿った生命体のように、チポの掌の上で海野のメロディを奏で始めた。ゆっくりゆっくりと、それはやさしい音色、旋律だった。
 うわあ……。吃驚したチポの顔は、けれど直ぐに笑みへと変わった。くすぐったそうにチポは微笑んだ。眩しいシャングの午後の陽が差し込むように、チポの頬に見る見ると光が拡がり、少女の瞳は眩しく煌めいた。その顔は宝石箱の蓋を開けた乙女のように、きらきらと輝いていた。どきどき、どきどきっ……、そしてチポの胸は感動に震えていた。
 吸い込まれたようにじっとオルゴールに耳を傾けるチポに、アリスは静かに微笑み掛けた。
「良かったわね、チポ。こんな素敵なプレゼントを頂いて。次のレターでヤスオに御礼を伝えなきゃね」
 はにかみながら、チポは頷いた。

 海野からもらったピカピカに光るゴールドのオルゴールは、チポにとって正に衝撃的なプレゼントであり、その後の彼女の人生に大きな影響を与えた。チポにとってオルゴールは単なる玩具ではなく、それは魔法の箱であり、単調だったそれまでのチポの暮らしを一変させた。
 チポはオルゴールを自分のベッドの棚の引き出しの中に、勉強道具や今迄受け取った海野からのエアメールと一緒に大事にしまった。引き出しに鍵はなかったが、盗む者など誰もいない。唯一心配なのがやんちゃ坊主である弟のタポ。弟が悪戯をしないように、母ミポからしっかりと注意してもらった。
 本当なら学校に持っていって自慢し、みんなに聴かせて上げたかった。しかしアリスから禁じられた。シャング小学校に通う子どもたちの家は何処も貧しかったが、みんながPFAペアレントのサポートを受けられる訳ではなかった。そこへチポがPFAペアレントから貰ったという魔法の箱のようなオルゴールを持参しようものなら、生徒たちの間に羨望と同時に嫉妬や不満が生じるであろうことは言うまでもない。またPFAペアレントのサポートを受けている他の生徒が自分も欲しいと、自身のPFAペアレントにおねだりすることも考えられる。アリスはそこいらを大いに心配したのである。
 だから学校が終わるやチポは一番に飛んで家に帰り、先ずオルゴールの所在を確かめるのだった。それからそれは大事に大事にオルゴールを取り出し手に取ると、ゆっくりと丁寧にネジを巻いた。すると変わらぬ音色と旋律が、チポの耳を満たした。チポはしばしその音に酔いしれた。チポにとってそれは夢のひととき、至福の時間であった。
 その後は夢から覚めたように、チポは家事と勉強に追われた。ミポを手伝って夕ごはんの支度。家族揃っての晩餐を済ませ、再び後片付けのお手伝い。それから学校の予習と復習。加えて英語の読み書きを済ましたら、子どもとしてはもう就寝の時間。外はもうすっかりまっ暗である。それに停電の時は何も出来ないから、就寝の時間は更に早まった。
 でもチポはベッドに入る前に、雨天でなければ必ずオルゴールと共に表に出た。家の前に出て、月の光と幾千万の星々の瞬きの下でしばしオルゴールに耳を傾けた。あたかも月と星たちに聴かせるかの如くに。
 家の前で立って聴いている時もあれば、それから集落の近くにある『エデンの森』の『トモロウの木』の下に腰を下ろして、膝を抱えながら聴くこともあった。いずれにしてもチポがオルゴールを聴く時は、いつもひとりぼっちだった。それは他人には聴かせたくないと言うような度量の狭さからでは決してなく、一人でいたいチポを集落のみんなが邪魔せず、そっとしておいてくれたからである。
 とは言っても矢張りチポのオルゴールのことは、一時期集落の中でも大変な話題になった。
「チポが何か不思議な玩具を持っているそうだね」
「いや、あれは玩具じゃないんだよ。何でもオルゴールと言って、楽器の一種らしい」
「楽器かあ。それにしちゃ、随分小さいね」
「何でもジンバブエの、ムビラが起源だそうだよ」
「成る程、ムビラかあ。道理できれいな音だと思った」
「あの音が聴こえて来たら、ああ、チポが学校から帰って来たんだなあって直ぐ分かる」
「ほんと。あの子、すっかりあの魔法の箱に夢中なんだから」
 シャングの村の夜の静寂、或いはエデンの森の深い沈黙の中で、また集落の家々から漏れ聴こえ来る人々の談笑のざわめきの中で、チポはいつも目を瞑りオルゴールを聴きながら、以前海野がエアメールの中で語ってくれた海の話を思い出すのだった。
『海とはね、この地球で初めて生命が誕生した場所なんだ。だから海は、わたしたちすべての生きものの故郷なんだよ。海はいつでもやさしく、わたしたちに歌い掛けてくれる。いつまでもいつまでも、わたしたちが死んだ後も、たとえ人類が滅び去ったとしても。それでも海はやっぱり絶えることなく歌い続ける。海の歌はね、すべての命の、子守唄なんだよ』
 海の歌は、すべての命の子守唄……。チポは海野のオルゴールの旋律と音色を、まだ見ぬそしてまだ聴いたことのない海の波音、潮騒に重ね合わせた。いつかチポは、オルゴールに名前を付けた。その名は『ララバイ・オブ・シー』。
 シャングの村の片隅、ハルカ砂漠から吹いて来る砂混じりの風の中で、毎日毎晩チポの聴くララバイ・オブ・シーが鳴っていた。きらきらと瞬く星空の下で、星々の瞬きと共に鳴り響くララバイ・オブ・シーの音色に包まれながら、チポはまだ見ぬ、いやもしかすると死ぬまで目にすることのない海というものを、シャングの夜の暗闇の中に夢想した。一生耳にすることもないであろう海の音を聴くその日、その時を、そして一途に待ち焦がれるのだった。
 海への憧憬に瞳を輝かせ、胸をいっぱいに膨らませたチポはララバイ・オブ・シーを大事に手に抱えながら家に戻り、硬いベッドの上で眠りに就いた。ララバイ・オブ・シーは飽きることなく褪せることなく、変わることなく大切なチポの宝物であり続けた。
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