(十五)三日目・停電、スコール

文字数 5,862文字

 朝、ミサはシャングに行く前に、シティの市場に足を運んだ。そこでポリエチレン製の水筒を買った。チポの集落に着いたら、昨日同様広場の隅に車を停め、井戸で水を汲み水筒の中に入れた。朝食はチポたちを真似て、摂らなかった。空腹がないと言えば嘘になるが、気分はちゃんとしているし、むしろ身軽に感じられる程だった。
 チポの家の前に到着すると、Tシャツに下はジャージ姿のチポが待っていた。今朝はチポも畑に出るらしい。慣れて来たせいなのか、今日は家の中の臭いも気にならなかった。
「退屈だと思うけど、畑を見にいかない」
 チポの誘いに頷きながら、ミサは答えた。
「うん。見るだけじゃなくて、何かわたしも手伝いたい」
「OK。じゃ、トマトの収穫をお願いするわ。それなら服も汚れないし」
「トマトかあ。楽しみ」
 家の裏に鍬が三本並んでいる。その内のひとつをチポが持ち、ミサは藁で作った、両腕を丸くした位の大きさのザルを手に、畑へと向かった。ザルの中にはトマト収穫用のハサミが入っている。ふたりは水分補給用に、肩から水筒も下げていた。
 集落をエデンの森とは正反対の方角に歩けば、やがて広大な農地が見えて来る。集落全世帯分、約五十ヘクタールの畑である。しかし柵や囲いで仕切っている訳ではない。代わりに畑と畑との境界には、トウモロコシの木が並び、ちょうどそれが囲い代わりになっていた。
 他所の家の畑の端を歩いて、エンデ家の畑に辿り着いた。その間農作業する集落の人たちから、気さくに声を掛けられた。
「ビュテ」
「ビュテ」
 陽射しは朝から強く、ミサは今日もピポの麦わら帽子を借りて被っていたが、それでも歩いているだけで汗だくになった。
 エンデ家の畑では、カポが鍬を持って畝(うね)作りに精を出していた。そこで、いもを育てるのだそうだ。トウモロコシの立派な木の列が、エンデ家の畑の四方を囲んでいた。隣りにトウカ家の畑がある。でも今朝はまだ誰もいないようだ。
 チポはミサをトマト畑に連れてゆき、トマトの収穫の手順を教えた。と言っても簡単。実の成熟度をチェックして、充分に赤くなったトマトを枝から切ってザルに入れる。ザルが一杯になったら、それを抱えて一旦家まで持ち帰りキッチンの隅に並べておいて、再度畑に戻る。
「無理しちゃ駄目よ、ミサ。疲れたら、遠慮せず休んで」
「はーい」
 チポはミサをひとり残してカポの所へゆき、夫婦仲良く肩を並べて鍬を構えた。
 ひとり残されたミサは鼻歌混じり、トマトのひとつひとつを丁寧に丁寧に収穫していった。ザルは直ぐにトマトの実三十個位で一杯になった。
 ふう、疲れた。でもこれなら、楽勝じゃん。トマトで一杯のザルは抱えると結構重たかったが、ミサは頑張ってひとりで家に持ち帰るつもりでいた。ところが様子を見に来たチポが、ミサに声を掛けた。
「もういいわよ、ミサ。トマトはそれ位で充分だから。後は休んでて」
「えっ。はーい」
 昼近くまでミサは草の上に腰を下ろし、チポたちの様子と周りの景色を眺めていた。しかし退屈などしなかった。空を見上げれば、眩しい青空の中を巨大な白い雲が果てしなく流れてゆき、一時として同じ顔をしていないのである。風に乗って見たこともない虫も飛んで来るし、畑の周りには、野性の花も咲いている。
 黙々と働いていた筈のカポがいつのまにか姿を消し、ミサの許にチポがやって来た。
「さあ、家に帰りましょう。お腹も減ったでしょ」
「はーい。もうペコペコ」
 いつのまに収穫したのか、藁で作られた袋の中にはトウモロコシの実が一杯。チポはトウモロコシの袋を肩にしょい、鍬を手に持って歩き出した。ミサはトマトのザルを抱えてチポの後に続いた。ふーっ、重たい。でも自分が収穫したトマトだから、いとおしい。
 さあ、ランチ。今日のメニューはハルナッツとムリオの油炒め。それにミサが収穫したトマトを使って、大豆のトマト煮も。
「うわーっ、美味しそう」
 トマトは自分たちで消費する他に、集落の中で卵やムリオと交換するそうである。食後は例によって、午後のサウダ。ふーっ、労働の後の一服は天国ねえ。チポの家にもすっかり慣れて、思い切りくつろぐミサであった。
 午後はキッチンで、チポのお手伝い。トウモロコシの粒を取って集め、それを石臼を使って粉にする。
「ドリム、チポ」
 その間にも近所の主婦連中が訪れ、グリラ語で賑やかな会話が交わされた。意味は分からなかったが楽しそうで、ミサも話に加われたらなあと思いつつ、チポたちの豪快な笑い声を耳にし皆の笑顔を嬉しそうに眺めていた。それに英語にて、時よりミサも会話に加わった。

「ただいまーーっ」
 そうこうしているうちに、ヤポとピポが元気に小学校から帰って来た。ふたりは勉強道具をしまうと直ぐにキッチンに飛んで来て、チポとお喋りしているミサにじゃれ付いて来た。
「ねえ、ミサ。遊ぼうよ」
 ふたりはミサの顔が見たくて、学校から競争して帰って来たのだと言う。確かにふたりは汗びっしょり。しかし遊ぶといっても、どんな遊びがあるんだろう。多少戸惑いつつ、ミサは尋ねた。
「じゃ、何して遊ぼっか」
 するとピポが、片言の英語で即答した。
「お散歩。わたしが案内したげる」
 早くもピポは、ミサの手をぎゅっと握り締めている。小さくて柔らかなその手が汗ばんでいるのが分かる。ヤポはと言えば、照れ臭そうにピポの後ろで笑っているだけ。
「よっし。じゃ行こうか」
 手をつなぎ歩き出すミサとピポに、ヤポが後ろからくっ付いて来る。
「あんたたち、夕御飯までには帰ってらっしゃいよ」
 釘を刺すチポに、三人で声を揃えて答えた。
「はーい。分かってまーす、ママ」
 家を出ると、直ぐにピポが尋ねて来た。
「ねえ、森には行った」
「うん、ママと行ったよ」
「じゃ、畑はどう」
「今朝、行って来たところ」
「そっか」
 ちょっとがっかり気味のピポ。森か畑に連れてゆこうと、思っていたのかも知れない。かと言って散歩するには、シティや砂漠や湖までは遠過ぎる。
「じゃ、広場はどう」
 それまでずっと黙っていたヤポが、待ちかねたように言葉を発した。
「あっ、いいかもね」
 そう言えばいつも車を停めるや、後はチポの家に直行していたから、広場についてはまだよく見ていなかったミサである。
 ヤポ、ピポと三人で広場へと向かった。広場にはベンチが並び、多くの人々が思い思いに過ごしていた。集落の広場は集落の中心に有り、集落の人々が集まり、休んだりくつろいだりする憩いの場である。そこには集会所、舞台と観客席、トイレ、シャワー室、井戸など、みんなの暮らしに欠かせない環境が揃っていた。
 広場内を散歩した後、三人は集会所に入った。中には椅子とテーブルが並び、大人たちは勿論、子どもたちも腰を下ろしていた。子どもたちは騒ぐことなく、大人しく勉強していた。
 クラスメイトを見付けたピポは、ミサのことを得意げに紹介した。
「こちら、わたしの家のお客さんのミサ。ジャパンから来たのよ」
 と言ってもミサの噂は既に集落中に伝わっていたから、みんな知っていた。
「ミサ、友だちのカナよ」
「ドリム、ミサ」
「ドリム、カナ」
 何人かの子どもたちと握手と挨拶をした。みんな屈託のない、にこにこ眩しい笑顔である。
 集会所を出て、広場の隅のレンタカーを止めている場所まで来た。ヤポもピポも興味深々、車の中を覗き込む。ふたりはオリビアの車に何度か乗せてもらった、と言う。
「じゃ、今日はわたしの車に乗ってみる」
 ミサが試しに尋ねると、ふたりは大喜び。
「やったーーっ」
 歓声を上げて、喜びを爆発させるヤポ。あらら、ヤポったら、流石男の子。実はわたしより、こっちがお目当てだったのね。
 すると今度はピポが、車内の別の物に興味を抱いた。
「あれ、なーに」
 ピポは後部座席に置かれたギターケースを指差した。
「あれはね、ギターっていう楽器なの」
「楽器、へえ。ねえ、どんな音色なの。聴かせてよ」
 きらきらと目を輝かせながら懇願するピポに、それじゃ仕方ない、とミサは後部座席のドアを開け、ケースからギターを取り出した。ギターを抱えたミサの姿に、それまで車に夢中だった筈のヤポも、思わず注目を寄せた。
 ここじゃ、なんだから。ミサは演奏場所を求めて移動し、広場の一番端のベンチに腰を下ろしてギターを構えた。ミサの両サイドにヤポとピポがいる。
 あれっ、でも何歌おうか。ミサは迷った。わたしのオリジナルは日本語の歌詞だし……。良し、じゃ、洋楽でいっちゃえ。曲目は直ぐに浮かんだ。ミニー・リパートンのラヴィング・ユー。
 イントロを弾き出すと、ギターの音色は昼下がりの風に乗って、広場中に拡がっていった。わーっ、気持ちいい。異国の地に響く澄んだギターの音に、ミサの胸は躍った。しかし気付いたら、自分たちのベンチの周りには人だかりが出来ていた。一体何が始まるのかと、広場中の村人、子どもも大人も集まって来たのである。
 ウワーオ。流石のミサも、思わずドキドキッ。人前で歌うのなんて、わたし久し振りなんだけど……。でもそこはプロ。直ぐに落ち着きを取り戻し、遂に歌い出した。隣りのヤポとピポに、にっこりと歌い掛けるように。
「Loving you……」
 歌い終わるや、拍手喝采。
「ヒューヒュー、ブラボー」
 大人も子どもも大喜び。ヤポとピポのふたりだって、眩しそうにミサを見詰めているではないか。やっばい。焦ったのはミサ。なぜならミサの瞼に、じわーっと涙が込み上げて来たから。
 やっぱり、歌って凄い。歌って素晴らしい。ついでに人前で歌うのも最高ーっ。やっぱりわたし、歌がなきゃ生きられない。歌こそ、わたしの人生そのもの。改めて歌への、熱き想いに駆り立てられるミサであった。
 こうして最早歌うことへの抵抗、拒否感など、ミサの心の中から完全に消え去っていた。思えば旅の初日、チポの歌を耳にしたあの瞬間から、ミサはこうなるような予感がしていた。
「ミサ、素敵だったわ」
「夢のようなひと時をありがとう、ミサ」
「アンコール、ねえアンコール」
 聴衆である集落のみんなは、ミサを取り囲んだ。握手を求め、惜しみない賛辞を送った。
 ミサはみんなの拍手に送られながら、ヤポ、ピポと共に広場を後にした。家ではチポが待っている。さあ、急がなきゃ。時は既に夕暮れ時であった。

 ところが家に着くと、チポは渋い顔。逞しい二本の腕で、腕組みをしていた。何事かと問えば、チポは苦笑い。
「停電しちゃったのよ」
 ゲッ。遂に来るものが来たかあ。道理で集落のどの家も灯りがなかったのね。でも良い経験だと思って、受け入れよう。ミサは覚悟を決めた。こんな時の為に登場するのが、炭火のコンロである。
「こうやって火を起こすのよ」
 器用にチポが、火を起こした。細長い板の上に細い木片の、錐(きり)のように尖った先端を押し当て、両掌で挟んで回転させ摩擦を起こす。摩擦の熱によって、やがて火が起こる。その火を薪(木炭)に移して着火させ、炭火とする。そして数本の炭火をスタンドにくべれば、自然のコンロの出来上がりである。
 後はいつもの要領で、時間を掛けてハルナッツを煮込む。ミサも手伝い、大豆のトマトシチューを作り、ムリオを炒めて出来上がり。
「さ、すっかり遅くなっちゃったけど、出来ましたよ。みんなで食べましょう」
 チポの号令で、全員集合。
「頂きまーーーす」
「うわあ、美味しそう」
 窓の外にはまだ僅かに陽が残っており、辛うじて食事が出来る。
「蝋燭点けなくて、平気」
 心配するチポに、一同かぶりを振った。
 ハルナッツを頬張りながら、ピポがチポとカポに話をする。
「さっきね、ミサ、広場でみんなの前で歌ったのよ」
「あら、凄いじゃない、ミサ。わたしも聴きたかったわ」
 笑みを浮かべながら自分を見詰めるチポに、ミサは恐縮。そんな。チポに敵う訳ないんだからと、ミサは照れ臭そうに笑みを返した。その顔の表情も段々と定かでなくなる程に、宵闇が少しずつ迫っていた。ミサは、さっき自分のギター演奏で終わってしまい、子どもたちとドライブ出来なかったことを思い出した。今度は絶対連れてって上げよう。そう誓うミサ。それからチポにギターを聴かせることも。
 今夜はミサも食後の後片付けを手伝い、その後チポとふたりだけでエデンの森へと出掛けた。ところが途中で天から雨、スコールである。
 ザーッ。降り始めたかと思うと雨はどんどん強さを増し、大粒の雨がふたりの頭上に叩き付けるように落ちて来た。当分止みそうにない気配。
「兎に角森まで行って、雨宿りしましょう」
「うん」
 チポの言葉に従い、びしょ濡れのミサはチポと共にまっ暗な道を森へと急いだ。でもトモロウの木なんかで、雨宿り出来るのかしら。ミサは訝った。
 案の定、エデンの森に着いて、トモロウの木の下に身を置いてはみたものの、ふたりはびしょ濡れ。ありゃりゃ、やっぱり。ため息吐くミサに、けれどチポは涼しい顔で笑っている。
「通り雨だから、直ぐに止むわよ」
「ほんと」
 果たしてチポの言葉通り、十分も経たないうちにスコールはぴたーっと止んだ。同時に夜空を覆っていた厚い雲が消え去り、今度は銀河の瞬きがこの地上へと降り注いで来るようであった。
「雨が降るとね、空気が洗い清められるから、わたし大好き」
 そう零した後、チポは歌い出した。チポの歌声を耳にしながら、ミサは思った。雨に洗い清められたエデンの森の大気が、チポの歌声によって更に更に清められてゆくのだと。ミサは天国にいるような気がして、いつまでもこうしていたいと願った。しかしチポが、ミサに囁き掛けた。
「さあ、ミサ。あなたも歌いましょう」
 うん。ミサは小さく頷き返すと、歌い出した。ララバイ・オブ・シーのデュエットである。
 こうしてチポの歌を間近で聴けば聴く程、ミサの胸には或るひとつの想いが生じ、それはどんどん大きく、強くなる一方だった。
 その想いとは、チポを歌手としてメジャーデビューさせられないだろうかということだった。
 こんな美しいチポの歌声を、このままこのアフリカの大地、アシスエデンの片隅で埋もれさせて良いものだろうか。いや絶対勿体無い。きっとチポの歌を知れば、世界中の人が彼女の歌を聴きたがるようになるだろう。そしてチポの歌声は、世界中の多くの人々の慰めと喜び、希望になるに違いない。
 何とかして、チポの歌を世に知らしめたい。その為なら、わたし何でもする。そう思わずにはいられないミサであった。
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