(七)ミサ・横浜

文字数 4,105文字

 ミサ。
 本名、海野美砂(二十五歳)。独身の彼女は、今売り出し中のシンガーソングライター。生まれも育ちも横浜で、現在横浜市の自宅にて母、海野美鈴とふたり暮らしである。
 ミサは、若い世代、特に同世代の女性の支持を得ていた。その理由としては、当然ながら先ず歌である。澄んだ歌声、若い女の子の共感を呼ぶ歌詞、親しみやすく覚えやすい、従って歌いやすいシンプルなメロディ。それでいて時に、これでもかと言う程感情をどっぷり込めて、切々と歌い上げる情熱的な歌い方。例えば囁くように、語り掛けるように、否それ以上、嗚咽するが如くに。それがぐっと感動を呼び、聴く者のハートを鷲掴みせずにはおかなかった。
 加えて容姿も端麗。ロングヘアの似合う、如何にも清楚な大和撫子タイプ。漂う爽やかさと清潔感は、好感度アップにもつながっていた。

 歌手を志したのは、ミサがまだ十五歳の時。中学を卒業したばかりの三月、最愛の父、海野保雄、享年五十歳を心筋梗塞で亡くしたその日からである。その日の夜の或る出来事をきっかけに、ミサは歌い出した。
 早速高校入学前にフォークギターを購入し、独学でギター演奏をマスター。高校のクラスメイト吉田奈々と意気投合してデュオグループ『ミサ&ナナ』を結成。厳しい練習を課して、歌唱力を磨いていった。
 しかし高校卒業後ナナは就職、ミサは神奈川学芸大学に進学した。ミサ&ナナは解散し、ふたりはそれぞれの道へと進んだ。ミサはキャンパス内の音楽サークルのひとつに所属し、歌手を目指して音楽活動を継続した。
 音楽サークルでは『チャーリー・アインシュタイン』という男性ボーカルバンドを結成し、ミサは紅一点としてメンバーに加わった。バンドは学生街のライブハウスに出演したり、プロの前座を務めたりと積極的な活動を行い、ミサとしても一挙に活躍の場が拡がった。それまでの地道な努力と練習によって培って来た歌唱力が認められ、観衆を前にソロで歌わせてもらえる機会にも恵まれた。ミサはその数少ないチャンスを確実に生かし、自らの存在と歌をアピールしていった。
 ミサのボーカルは天使の歌声の如く、聴く者の心を虜にしていった。決して派手ではないけれど、少しずつ評判を得、ファンも着実に増えていった。そして遂にレコード会社のスカウトの目に留まり、ミサは二十二歳、大学卒業と同時に、芸名ミサとしてソロデビューを果たしたのだった。
 デビュー曲がスマートフォンのCMに採用されるという幸運にも恵まれたミサは、一気に注目を浴びた。前述した清楚な容姿と相俟って、一躍時の人となった。しかし一発屋では終わらせまい、あくまでも実力派シンガーソングライターとして売り出そうという戦略を、レコード会社は貫いた。TV、雑誌への露出は極力控え、地道にラジオ出演、レコード店巡りをこなしつつ、CDの販売とコンサート活動に専念した。それは本人の望むところでもあり、ミサはストイックなまでに自らの音楽を追い求めていった。
 場所は、眩しいスポットライトが照らす横浜アリーナのステージである。キーボード、ギター、ベース、ドラムのバックバンドを従え、何万人もの観衆を前に歌うミサは、輝かしい歌姫だった。アンコールも無事終えて、会場を埋め尽くしたファンに別れを告げるミサ。
「みんなーーっ。これからもわたしは、人に喜びを与えられるような、励まし共に力強く生きてゆけるような、そんな歌をいつも歌って、いくからねーーっ」
「ヒューヒュー、ミッサーーッ」
「いつもそう強く願いながら、歌い続けてゆくつもりです。みんな、今夜はほんとにありがとーーっ」
「ミサ、ミサ、ミッサーーッ」
 鳴り止まない大歓声と共に幕が下りた。興奮冷めやらぬファンたちのハートは熱かった。
「ねえ、ミサの歌っていいよね」
「なんちうか、魂に向かって来るんよ」
「来る来る。それでいてやさしい」
「正にその通り。もう堪んない、あたし」
 かつてミサがユーミンや中島みゆきに胸を震わせたように、今ミサのファンがミサの歌に夢中だった。

 しかし光あらば、影もある。目映いスターの世界にも、闇は付いて回るもの。順調にシンガーソングライターとしてのキャリアを積んでいたミサにも、じわじわっと芸能界のデンジャラスな罠が忍び寄って来た。シンガー仲間や芸能人の知り合い、主に同世代の女性である、が増えるにつれ、中には要注意人物も現れるようになったのである。
 例えばミサの熱狂的なファンだと公言してはばからない、アイドル歌手の井香川麻里もそのひとりだった。
「ミサちゃんは、絶対関わんないでね」
 そんな前置きをして、麻里が話してくれた芸能界の暗部。
 それによると先ず麻里自身が枕営業によって、仕事にありついていると言う。相手をさせられるのは、TV、マスコミ、広告代理店のお偉方、プロダクション社長、果ては政治家、暴力団組長、暴力団幹部連中までまで。麻里のみならず、他のアイドルたちだってやっているんじゃないかと漏らす。
 当然ながら憤慨するミサ。
「何てひどい大人たちなの。夢と引き換えに若い女の子たちの体を弄ぶなんて。絶対許せなーい」
「でも、それが現実なのよ」
 ハイライトの煙を鼻から吐き出すノーメイクの麻里は、丸で年増ババアさながら、疲れ切った表情で溜息をこぼすのみであった。
「それにプロダクションによっては、ヤクザのフロント企業だったりするところもあるし、自社タレントのスキャンダルをヤクザに揉み消してもらったりとか、結構裏社会とずぶずぶだったりすんのよねえ」
 ずぶずぶ、何それ。目を丸くして麻里の話を聴くミサ。それから麻里は小声になって、ミサに耳打ち。
「そいでさ、ここだけの話。アイドルの中にはねえ、そのルートでシャブやってる子もいるって、う、わ、さ」
「うっそ。やだ、そんなの」
「はい、シャブシャブ一丁上がり、なんてね」
 そこで笑う麻里に、真剣な眼差しでミサが問うた。
「麻里ちゃんは、やってないよね、そんなこと」
「えっ、わたし……」
 しかし麻里の答えは歯切れが悪い。
 ははーん。さてはこの子、やってるな。見抜いたミサは、麻里にお説教開始。
「麻里ちゃん、駄目よ。そんなものに手出しちゃ絶対。人間止めますか、になっちゃうよ」
「はいはい、分かってるってば。ミサお姉様」
 まこと芸能界の闇は深いらしい。
 お次はシンガー仲間というか女性シンガーソングライターの大御所的存在である、神小路サラ。特にバラードが絶品で、ハスキーボイスで切々と訴えるような歌唱は聴く者の心を揺さ振らずにはおかない。姐御肌で若手の面倒見も良いと来ている。が一面何処となく危うい、とげとげしたガラス細工のようなひ弱さも感じさせる。そこが彼女の魅力なのだと言ってしまえばそれまでだが、親しくなればなる程その点が、ミサには気掛かりでならなかった。
 それは、中野サンプラザホールで開催されたひな祭りコンサート終了後のこと。サラに誘われたミサは、六本木のクラブのVIPルームにいた。部屋にはサラとミサのふたり切り。サラの注文でテーブルには贅沢な料理とアルコールが並んだ。酒も煙草もやらないミサは、ひたすら食べるの専門。対してサラは酒豪かつヘビースモーカーときている。ステージで歌っている時以外は、片時も煙草を離さないという愛煙家。そんなサラがとろんとした目で、ミサに何やら煙草らしき一本を差し出した。
「ねえ、ミサ。これ、ちょっと吸ってみな。すんごく気持ち良くなれっから」
 しかしミサは断った。
「やだ。わたしが煙草やんないの、知ってる癖に。サラ姉さんったら」
「だから、煙草じゃないってば、これ」
「うっそ。じゃ、なーに」
「それは、ひ、み、つ、です、お嬢さん。いいから、騙されたと思って吸ってみな、ほら。ミサも病み付きなんの、間違いなし」
「でも」
 ミサはドキッとした。これって、もしかして……。と言うのも以前よりサラにはドラッグ常用の噂が絶えなかったからである。やばーい、どうしよう。ミサは焦った。
「ほーら、いい子だから。これ吸うと、歌は上手くなれっし、いい旋律だってぽんぽん浮かんでくんのよん。何てえの、神様が落っこちて来たーーっ。来たーーって感じ。凄いっしょ」
「うん、でも……」
 何度誘っても断るミサに、サラ姐御は遂に逆上。
「こら、ミサ。つべこべ言わずに、吸ってみやがれ。天下のサラ様に恥かかす気か、こんにゃろ」
 こんにゃろ、って。サラお姉さんたら、お下品……。しかし幾ら凄まれようとも、吸えない物は吸えない。たとえ相手が大先輩、大御所のサラであっても。そこで意を決して、ミサは確かめる。
「これって。もしかして、あれ、でしょ」
 あれ。流石のサラも焦った。
「あれ、って、何よ」
「だから」
 サラの目をじっと見詰めながら、ミサは続けた。
「サラ姉さん。こんなのに頼ってちゃ駄目、絶対駄目だから」
「何、行き成り言い出すの、あんた。サラ、さっぱり訳分っかんない」
 白を切るサラに、痺れを切らしたミサはきっぱり。
「歌っていうのは、自分の心と魂で作り出し、歌うものだと思うの。だからそんな、ドラッグなんて、わたしには必要なーい」
 あーあ、とうとう言っちゃった、ドラッグって……。でももう後の祭り。サラは顔面蒼白。
「何よ、何、生意気なこと言ってんの。いいわよ、いいわよ。だったらもうあんたの面倒なんか、一切見てやんなーいから。とっとと出てけーーっ」
 エキサイトしたサラは半狂乱で、ミサをVIPルームから追い出した。これにてミサは大御所、神小路サラに嫌われ、決別せざるを得なくなった。以後大御所から思いっ切り嫌がらせも受けたが、それでも自分のしたことは間違ってはいなかったと、今でもミサは自分に言い聞かせている。
 とまあ、こんなふうに欲にまみれた見せ掛けだけのショービジネスの世界。その実、裏側は暴力と退廃とがはびこる芸能界に、ミサは段々と失望していった。
 しかしそんなミサに追い討ちを掛けるように、突如スキャンダルが襲い掛かった。恋人との破局である。これにてミサは身心共に、ぼろぼろになってしまう。そのスキャンダルとは……。
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