(十)一日目

文字数 6,442文字

 成田から五時間近く掛けて、香港国際空港に到着したのは二十二時。そこで約二時間待ってヨハネスブルク行きの便に乗り込むと、機内にて直ぐに日付けが変わった。ミサの時計で六月八日、月曜日。これから十三時間以上の長距離フライトである。とは言ってもミサは機内で爆睡したから、あっという間にヨハネスブルクに着いた。
 時刻は七時過ぎ。そこで三時間半待って十時半過ぎ、いよいよトピア行きの飛行機に乗った。目的の地を目の前に控え、一時間半のフライトは呆気ない程短く思えた。そして遂に無事、トピアに到着した。時刻は十二時を回り、お昼過ぎであった。
 トピア国際空港は、ミサが知っている限りでは沖縄の那覇空港と同程度の規模だった。旅客機を降り空港のゲートに向かうと、ミサの許に早速一人の英国人女性が歩み寄って来た。
「ハロー、ミサ」
 親しみのある、人懐っこそうな笑顔。彼女こそPFA現地スタッフのオリビア・ピーターソンであった。入国者の中にアジア系女性がミサしかいなかったことで、オリビアは直ぐにミサに気付いた。事前に写真を見ていたことで、ミサもまた相手がオリビアだとひと目で分かった。
「ハロー、オリビア」
 ふたりは握手と笑顔を交わし、直ぐに姉妹のように打ち解け合った。以降アシスエデンに滞在中、ミサは英語にてオリビアやチポたちとコミュニケーションを取ることになる。
 オリビアに伴われ、先ずはゲート内にあるアシスエデン政府の事務所に入った。そこで入国申請を行い、速やかに入国許可を得た。これで晴れてアシスエデンに足を踏み入れることが出来る。ミサはオリビアと共にゲートを抜け、荷物のトランクとギターを受け取った。
 空港を出ると、オリビアが運転するPFAの車、まっ赤なパジェロに同乗。初めにミサが宿泊する『ホテル・アシスエデン』に行き、先にチェックインを済ませた。料金は前払い、ドルで払った。今日は初日ということもあり、荷物のトランクとギターは取り合えず部屋に置いて、出掛けることにした。
「疲れたでしょ。ホテルで休憩しなくて平気」
 問うオリビアに、けれどミサは快活に笑顔で答えた。
「OKよ。シャングに連れてって」
 時刻は十四時過ぎ。
「OK。このままシャングに直行してもいいけど、その前になんか食べない。お腹減ったでしょ」
 そう言えば、お腹ぺこぺこ。オリビアに言われて、思い出したようにお腹の虫が鳴いた。苦笑いと共に、ミサは「イエス」と頷いた。
「じゃ、案内するわ」
 オリビアの車はトピア中心部へと向かった。ここなら流石に和食はないが、観光客や外資系のオフィスで働くビジネスパーソン向けの洋食レストランがある。ただしマクドナルドやスタバの類は一切なし。二人は一軒のレストランに入った。
 遅いランチを取りながら、オリビアが語るシャングの村のこと、チポの集落の様子、またチポたちの家や彼らの暮らし振りなどを聞いた。お風呂、トイレの水廻りは勿論、電気、食事等々。日本との環境と習慣の余りの違いに、早くもここでミサはカルチャーショックを食らった。でも、来ちまったもんはしょうがねえ。どうせ、一週間だけだし……。腹を括ったミサは、レストランの綺麗なトイレで用を足すと、いよいよ出発と相成った。

 時を忘れオリビアの話に聞き入っていた為、時刻は既に十六時。ミサを乗せた赤いパジェロは、一路シャング目指して出発。トピアの中心部から舗装された道路を、北へ北へと突っ走った。
 直ぐに郊外に出た。すると行き交う車の姿がぱたっと消え失せた。横浜にも劣らなかった大都会トピアの面影は既になく、ただひたすら緑と大地の田畑地帯が続くばかりであった。
 ミサの視界に広がるものは、緑と地平線と青い空に巨大な白い雲ばかり。何だ、こりゃ。これが地球本来の姿なのねえ。ミサは限りなく広がる空間と澄んだ空気に、思いっ切り解放感を味わった。開け放した車窓から、びゅんびゅんと風が吹き込んで来る。このまま、わたし、何処までも何処までも、世界の果て、地球の果てまで行ってしまえーーっ。
 それでも広大な田畑の間に、ぽつりぽつりと家々が垣間見え、人の姿が見えなくもない。ねえミサ、アシスエデンってこんなに良い国なのよ。こんなに素晴らしいことが一杯ある国なんだから。車をかっ飛ばす間にも、オリビアがミサに語って聞かせるアシスエデンの話が尽きることはなかった。オリビアって、本当にアシスエデンが好きなのねえ。ミサにそう思わせる、オリビアの熱い語り口であった。
 PFAの活動と自分の仕事に誇りと満足感を持ち、死ぬまでアシスエデンで暮らしたい。くりくりとした大きな青い瞳を輝かせ、そう語り掛けて来るオリビアを、同年代の女としてミサが羨ましいと思ったのは勿論である。
 そんなこんなで話が尽きる間もなく一時間足らずで、ふたりは無事シャングのシティに到着した。
「オフィスに行きましょう。みんなに紹介するわ」
 パジェロから降りるとオリビアに従い、PFAのオフィスに顔を出した。
「ハイ、みんな。ミサを連れて来たわ」
「ハロー。ミサ・ウミノです」
 オフィスには、オリビア以外に五人のスタッフがいて全員女。それだけでもアフリカ大陸にあってアシスエデンという国が、如何に安全な国であるのか、その治安の良さを物語っていた。スタッフはみんな長身、中でもオリビアは百八十センチメートル。しかも彼女はスタイル抜群のモデル級でもあった。
「シャングの村の男たちってね、最初は無愛想だけど、みんな女性にやさしく、お喋り好きが多いのよ」
 事務局のリーダー、年齢四十代のリンダも陽気な人物で、にこにこミサと握手を交わした。スタッフ全員四輪駆動の車を持ち、各々担当地区を日々精力的に回っていると言う。
 PFAスタッフとの挨拶、会話も一通り済ませ、もうそろそろ出発かなと思っていると、オリビアがミサに告げた。
「もう少し、待ってね。ちょうど今、村はディナータイムなのよ」
 ディナータイム、そうなんだ。オフィスの時計を見ると十七時半。外はまだ明るいし、日没前である。早ーっ、でも健康には良いかも。
 時間潰しにオリビアとふたりで、シティの市場を歩いた。と言っても、ここだってディナータイムの筈。何処も既に店じまいしていた。時たま通行人と擦れ違ったが、日本人が珍しいのか、みんなミサを見ると近寄って来た。
「ハロー」
「ハロー」
 気さくに英語で話し掛けて来る彼、彼女らに、ミサも手を振り、陽気に応え返した。決してたかって来たりはしない。ここら辺も治安と国民のモラルの良さである。皆屈託のない、人懐っこい笑顔を残し去っていった。
「サンク(今晩は)」
「ハッピ(さよなら)」
 時より耳慣れない言葉も掛けられたが、これこそがグリラ語。従ってミサにはさっぱり意味は分からない。何しろグリラ語の辞書など、日本では一切取り扱っていないのだから。
「じゃ、今度こそ本当に行きましょうか」
「うん」
 そろそろ陽が傾き出し、いよいよチポの待つ集落へ出発である。車なら十分足らずで着くと言う。車窓から見える夕焼けが赤々と燃え、それが三百六十度に広がっていた。その巨大で情熱的な太陽をぎゅっと抱かんとして、まっ直ぐに伸びた地平線が今か今かと待ち構えている。そんな壮大な景色の中にあっても、夕焼けの色はセンチメンタルなものだなあ、とミサは思った。何処か懐かしく切なくて、つい涙が出てしまうから。
「チポに会ったら、グリラ語の挨拶を教えてもらうと良いわ」
「そうね。うん、そうする」
 夕焼けですっかりおセンチになったミサは、少女のように頷いた。チポさん、チポかあ。いよいよチポさんと会うのか。どんな人だろう。気が合えば良いんだけど……。俄かに緊張を覚えるミサだった。
 期待と不安が胸に入り混じるミサを乗せ、オリビアはトウモロコシの畑が両側に連なる車道を走り続けた。やがて畑は途絶え、代わって家々の薄暗い灯りが見えて来た。そこがチポの集落である。
「オリビア」
「オリビアーーッ」
 集落の狭い道に入って来るオリビアのパジェロに気付いて、外で遊んでいた子どもたち三、四人が手を振りながら寄って来た。男の子は薄汚れた無地のTシャツに半ズボン姿。女の子は涼しげな、でもやっぱり少し汚れたワンピースを着ていた。みんな、下はサンダルを履いていた。
「危ないってば」
 車の窓を開け、オリビアがやさしく注意する。でもいつものこと。子どもらはみんな、くりくりとした好奇心一杯の目を輝かせていた。澄んだ、透き通るような瞳だとミサは思った。そんな目で一体どんな夢を見ているのだろう、この子たち。
 子どもたちに注意しながらオリビアが集落の広場の隅に車を停め、ふたりが外に出た時には、もう大分辺りは薄暗くなっていた。
「あんたたち、早く家に帰んなさい」
 オリビアが親しげに子どもたちに声を掛ける。でもみんなは、オリビアの隣りにいる見掛けない客人のことが気になって仕方がない様子。
「チポの大事なお客さんなんだから、みんな仲良くしてね」
 オリビアの言葉に、子どもたちがざわついた。きらきらとした瞳が一斉に、ミサに注目した。
「へえ、チポの」
「かわいい、お人形さんみたいな人ね」
「チャイニーズかな」
 それから、ぼそぼそっとグリラ語の言葉の数々も零れた。子どもたちに見詰められたミサは、くすぐったくて堪らない。
「ハロー。ジャパンから来た、ミサです。よろしくね」
 元気にミサも、子どもたちに向かって初めて挨拶をした。
「ジャパンだって」
「ハロー、ミサ」
 戸惑ったり、恥ずかしがったりの人見知りな声が、ミサに返って来た。
「ハッピ、ミサ」
「ハッピ」
 一応ミサの正体が分かったからなのか、それから子どもたちは波が引くように何処かへ消えていった。

 時刻は十八時を過ぎていた。街灯など見当たらないから、このまま夜の帳が集落を覆ったら、きっとまっ暗になってしまう。ミサは急に疲労と不安と、そして言いようのない寂しさとに襲われた。今日のところは挨拶だけして、わたしもさっさとホテルに帰ろうかなあ。その薄暗さの中で、改めて集落の風景を眺めた。
 チポの集落では五十二世帯が暮らしており、その住居が建ち並んでいた。どこも一様に屋根が円錐形で、こじんまりとした白壁の丸い家である。石と藁を材料に、村人たちが自分たちの手で造ったのだと言う。
 そんな家の姿や集落の景色に、丸でムーミンの世界だあ。とミサは思った。ムーミン谷に迷い込んだわたし……。そう思うと、少し寂しさが和らいだ。
「それじゃ行くわよ、ミサ。もうディナーも終わってる筈だから」
「うん」
 オリビアからもらったペットボトルの水で喉を潤しながら、ミサはこっくりと頷いた。
 オリビアの後に付いて、暗い道をしばらく歩いた。さっきの子どもたちの賑わいが懐かしく思える程、それは静かな道だった。
「さ、着いたわよ」
 一軒の家の前で立ち止まると、振り返りオリビアが告げた。そこが、チポの家だった。
 トントン、トントン。
 オリビアは早速、ドアを叩いた。実は何処の家も玄関は施錠されておらず、そのまま無言で中に入っても、シャングで文句を言う者など誰もいなかったけれど。すると直ぐにドアが開いて、中から一人の男と二人の子どもが顔を出した。
「ハイ、オリビア」
 男がオリビアに愛想良く挨拶すれば、オリビアもグリラ語で男に挨拶を返した。
「サンク、カポ」
 カポ。この男こそがチポの旦那である。子ども二人はチポの子どもたち。しかし肝心のチポは不在だった。オリビアの隣りにいる初対面のミサが、チポが待ち侘びていた日本女性のミサなのだと、カポと二人の子どもたちは直ぐに気付いた。カポは家に入るよう、オリビアとミサに促した。なぜなら虫が家の灯りと人間目掛け、大量に集まって来るからである。家族と来客はさっさと家に入り、直ぐにドアを閉めた。
 家の中には、ひとつのはだか電球が灯っていた。お世辞にも明るいとは言い難かったが、それでも有るのと無いのとでは天と地の差だった。それに電球が灯っているということは、今夜は今のところ停電にはなっていないということでもあった。
 室内を見回し気になったことは他にもあったが、一番は家全体に漂う独特のにおいだった。しかし何のにおいかは分からない。かびか汗或いは体臭、それとも排泄物的な臭い。いずれにしろ、いたたまれない程の悪臭ではなく、ニ、三日もしたら慣れてしまうかも知れない。そんなふうにも思えた。
「サンク、ミサ」
 カポがグリラ語で挨拶した。サンク……。オリビアが直ぐに助け舟をくれた。
「今晩は、の意味よ」
 ああ、今晩は、か。
「サンク」
「ジャパンから遠路はるばる来て下さり、光栄に思います。わたしはカポです」
 はにかみながら、握手を求めるカポ。やさしい笑顔である。
「こちらこそ、カポ。あなたに会えて嬉しいです」
 にっこりと微笑んで、ミサはカポと握手を交わした。汗ばんでごつごつとしたカポの手からは、彼の温もりが伝わって来た。
 お次は子どもたちである。待ち兼ねたようにカポと交代したのは、長男のヤポ。ミサの手をぎゅっと握り締めた。彼は父親に似て、スリムで長身。既にミサと肩を並べる程で、はにかむ笑顔もカポ譲りだった。
「サンク、ミサ。ぼくはヤポ。シャング小学校の五年生なんだ」
「サンク、ヤポ。初めまして、わたしはミサ。よろしくね」
 最後は長女のピポ。頭のリボンが可愛らしい彼女は、お澄まし屋さん。ちょっと気取ったふうで、ミサと握手。まだ小さくて、柔らかな手をしていた。
「サンク、ミサ。わたしはピポ。ヤポとおんなじシャング小学校の三年生なの。よろしくね」
「こちらこそ、ピポ。仲良くしてね」
 ふたりの子どもたちの目は、さっき会った集落の子どもたち同様澄んでいて、アシスエデンの大地を思わせる輝きを放っていた。
 そしていよいよチポである。肝心の主役はいずこに。オリビアが子どもたちに尋ねた。
「ねえ、ママは何処にいるのかしら」
 透かさずピポが教えてくれた。
「ママはね、森よ」
 森。チポは、森にいるらしい。
「森ですって。あなたたちのママは、こんな日にどうして森へなんか行っちゃったの」
 ミサが来ることはちゃんと知らせておいたのに、チポったら。オリビアは少し不満そうだった。するとママの気持ちを代弁するように、ピポに代わってヤポが説明してくれた。
「ママはね、ミサに会うのをそれは楽しみにしているんだよ。それにミサに少しでも上手く歌って上げたくて、今ぎりぎりまで歌の練習をしているんだ」
 歌、歌の練習、わたしに少しでも上手く歌って上げたくて……って、一体どういうこと。ミサには意味が理解出来なかった。
「まあ、そうだったの。チポったら」
 オリビアは納得した。しかしミサの方は困惑していた。自分がシンガーソングライターであることを、ミサはPFAのスタッフには内緒にしていた。が日本のスタッフの中には、気付いた者もいたかも知れない。そのことがオリビアに伝わり、オリビアからチポに……。もしかしてそれでチポさん、わたしの為に歌って上げようなんて思ったのかも知れない。まいったなあ。そんなこと、もうしなくていいのに。わたしなんか、こんなわたしなんかの為に。わたしなんかもう、歌なんか止めちゃったのに。歌うことなんて……。日本での苦い思いが甦り、歌に対する拒否反応に苛まれるミサであった。
「ねミサ、森に行ってみない」
 森へ。誘ったのはオリビアだった。
「エデンの森と呼ばれる所なの。直ぐ近くだから」
 エデンの森。やさしく微笑み掛けるオリビアに、ミサはにこっと頷いた。
「うん。じゃ、行きましょう」
「ぼくが、案内する」
 人懐っこい笑顔で、ヤポが申し出た。しかしオリビアはそれを断った。
「だーめ。きみたちはまだ、お勉強が残っているでしょ」
「はーい」
 ヤポとピポは、オリビアの忠告に素直に従った。ふたりとも良い子だと分かる。
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