(二十)トモロウの木

文字数 6,117文字

 シャングに夜の帳が降りて、暗黒の地に遥か遠い夜空の星々が瞬いていた。満天の星、降り注ぐような夏の銀河の煌めきである。ハルカ砂漠から吹く風が、エデンの森の木々の葉を揺らしていた。
「これであなたと歌うのも、最後なのね」
「チポ」
 星と月明かりを頼りに、ミサはチポの顔を見詰めた。
「あなたのパパ、ヤスオは、わたしに掛け替えのない人生の宝をくれたわ」
「人生の宝」
「それは、歌。歌がわたしの支えであり、生きる望み、喜び、だった」
「チポ」
「さあ、歌いましょう、わたしたちの大切な歌を。たとえどんなに遠く離れても、この歌がいつでもあなたとわたしを、ひとつにしてくれる筈だから。ね、そうでしょう、ミサ」
「うん」
「なぜならこの歌を口遊む時、わたしはいつでも、あなたのことを思い出すから」
「わたしもよ、チポ」
 そしてふたりは、ララバイ・オブ・シーをデュエットした。森の動物たちも聴き惚れるかと思う程のチポの美声である。これはもう、絶対に言うっきゃない。ミサはすべての躊躇いを捨て、遂に今決意した。そして歌が終わるや、ミサは満を持してチポに告げた。
「ねえ、チポ。実はわたし、あなたに相談したいことがあるの」
「相談。何、何でも言って頂戴」
 笑みを浮かべ問い返すチポをじっと見詰めながら、ミサは言葉を続けた。
「初めてあなたの歌を聴いたあの瞬間から、ずっとわたし、このことばかりを考えていたの」
「だから、何よ。さあ、勿体振らずに言ってみて」
「うん」
 頷くとミサは、思い切って声を発した。
「チポ。あなた、歌手にならない」
「えっ」
 驚くチポ。
「歌手に……って、どういうこと」
 月の光りがまっ直ぐに、チポとミサへと降り注いでいた。ふたりとも汗びっしょり。その汗の滴が、月光にきらりと光る。
「だからあなたさえ良ければ、わたしと一緒に日本に来て、日本で歌手としてデビューするのよ」
「ええっ。何言ってるのよ、ミサ。わたしにそんなこと、出来る訳ないでしょ」
「どうして。あなたなら、あなたの歌だったら出来るわ。きっと成功する筈よ」
「ミサ。お願いだから、冗談は止めて」
「冗談。違う、わたしは本気よ。日本での面倒はわたしがみるし、何にも心配いらないから。あなた単身でも良いし、何なら家族全員で日本に移住したって良いと思うわ」
「家族で日本に」
「そうよ。でもそれが嫌だったら、今迄通りシャングで暮らしながらだって不可能じゃないわ。例えばレコーディングの時だけ、一週間とか、どんなに長くても一ヶ月間だけ、日本に来るの。ねえ、どう」
「でも、ミサ」
 しかし懸命に説得しようとするミサの熱意に、流石のチポも圧倒された。
「良く聞いて、チポ。もし世界中の人があなたの歌を聴いたら、どう思うかしら。みんな感動し、生きる喜びに浸れるんじゃないかしら。ね、世界中の人の魂を、あなたの歌声で震わせることが出来るのよ。あなたの歌がみんなを幸せにし、人生の支えとなり、人々の生活の一部になるの。これは、凄いことじゃない」
「でも……。お願い、待って頂戴、ミサ」
 しかしミサの情熱は止まらない。
「それだけじゃないわ。あなただって、あなたの家族だって幸せになれるのよ。日本で成功すれば、お金に困ることもないし、今よりずっと良い暮らしが出来る。例えばトピアの一等地を購入し、そこに家を建てるの。トイレだってお風呂だってあるし、水だっていつでも欲しい時に手に入れられる。停電だって滅多に起こらないし、便利なコンロでハルナッツだって短時間で簡単に作れるわ。農作業もしなくていいし、食べ物が足りなくて飢えることもなくなる。それにヤポとピポをカレッジまで行かせられるわ。ねえ、凄いでしょ」
 ふう。チポの瞳を見詰め続けながらも、自分の言いたいことはすべて伝えたと、ミサは一息吐いた。替わってチポ。
「確かに凄いわね、ミサ。あなたが語ることはすべて、丸で遠い夢のよう」
 けれど言葉とは裏腹に、チポの顔は冷めていた。チポは冷静に言葉を選びながら、ミサに答えを返した。
「ありがとう、ミサ。あなたの気持ちは痛い程分かったわ。でもね、ミサ」
「チポ……」
 ミサは今にも涙が溢れそうな位、感極まっていた。しかしじっと堪えて、チポの言葉を待った。
「ちょっと座りましょう、疲れたでしょ」
「そうね」
 トモロウの木の下に腰を下ろしたチポの横に、ミサも座した。見上げれば、木と木の間から見える星の光りがきれいだった。
「本当にミサが言うように出来たなら、どんなに素敵かしら。もしもわたしが今よりも若く、そして独身だったなら……。もしかしたらわたしは、あなたの夢に喜んで飛び付いていたでしょう」
「だから、今のあなただって大丈夫なのに」
「ほんと、ありがとう。確かにわたしも昔は、わたしの歌をたくさんの人に聴いてもらいたい、聴いてもらえたならどんなにいいかしら。なんて願ったこともあったわ。でもそれはね、少女時代の単なる憧れ。決して夢なんて大袈裟なもんじゃなかったし、そんなこと誰にも恥ずかしくて言えなかった。歌うことが、わたしの歌が、わたしの夢になるなんて……」
 チポは沈黙し、月の光、星々の瞬きを仰ぎ見た。それから森を見渡し、頬に吹く風を確かめるように笑みを浮かべた。
「今わたしには愛する家族がいるし、わたしはこの国が好き。わたしはこの森で歌うことが、大好きなのよ。ほらミサ、見て頂戴。ここには動物たちがいて、鳥たち、虫たちがいて、草花やたくさんの木々が生い茂り、清らかな雨が降り、やさしい風が吹き、空には幾千万、無数の星が瞬いている。ハルカ砂漠から吹いて来る砂まじりの風は、丸で黄金の糸のよう……。だから、ミサ」
 うん。ミサは、小さく頷いた。そしてチポの言葉を噛み締めるように聴いた。
「わたしは、この場所で歌っていたいの。愛する子どもたちの為に。そしてわたしはこのシャングの村で、家族と集落のみんなと一緒に、静かに年を取りたいの」
 ああ、駄目だ。ミサはそう思った。きっとチポの歌は、チポが歌うということは、このシャングの村で生きることなのだ。シャングの地で生きることが、チポには即ち歌そのものなのだ。
 シャングの夜空の眩しく清らかな星を仰ぎ見ながら、そして静かにミサは諦めた。
 ミサの目には止め処ない涙が溢れていたが、それは自らの願いが叶わなかった悔し涙ではなかった。チポの生き方への、尊敬と羨望とに他ならなかった。
 今にも泣き崩れんとするミサを、チポはしっかりと力強く抱き支えた。母が娘を抱くように、逞しいお姉さんが頼りない妹を励ますように。漆黒の闇の中でシャングの夏の星の光だけが、そんなふたりの背中を照らしていた。

 エデンの森に別れを告げたミサは、チポと共にチポの家へと足を向けた。途中広場に立ち寄った。
「車に忘れ物して来ちゃった」
「じゃ、待ってるわ」
 チポを待たせ広場に駐車したパジェロに乗り込むと、ミサはカセットテープレコーダーを手にした。それまで録音したチポの歌を、そしてすべて消去した。これでいいのだ、と自分に言い聞かせながら。だって、チポの歌はこのシャングの地で、いつまでもいつまでも生き続けるのだから。そしてわたしの心の中で。それに、お父さん、あなたの心の中でね……。
 家に戻るとチポとミサは、洗面用具を手に再び広場へと逆戻り、そしてシャワー室に入った。シャワー室は男女別々で、各々五個のシャワーが用意されていた。チポと並んで髪と体を洗い、シャワーを浴びた。直ぐまた汗びっしょりにはなるだろうが、一日分の汗と涙を洗い流したミサは束の間でも気分爽快。
 チポの家に帰ると、時刻は二十一時過ぎ。まだそんなに晩い時間でもないが、ミサは明日朝から出発せねばならない。その為ミサに合わせて、エンデ家も早々と就寝である。
「俺はキッチンの椅子に座って寝るから、ベッドはミサとチポが使え」
 カポとチポのベッドはダブルベッドサイズ。カポがそう申し出たが、ミサは申し訳ないからと断った。
「じゃ、どうする」
「そうね」
 チポとカポが話し合う。結果、チポの意見に従った。
「じゃ、わたしとミサがキッチンで寝るわ。寂しいだろうけど、あんたは独りで寝て頂戴」
「分かったよ。それじゃ、リーヴ、ミサ。いい夢を」
「リーヴ、カポ」
 子どもたちとも、お休みを交わし合った。
「リーヴ、ミサ」
「リーヴ、ミサ」
「リーヴ、ヤポ。リーヴ、ピポ」
 そしてカポと子どもたちはベッドルームに消え、早々と眠りに就いた。
 キッチンに残されたチポとミサ。
「さあ、どうしましょう、ミサ」
 問うチポに、ミサは答えた。
「わたしなら、床でも平気よ」
「ほんと。じゃ、ふたりで床に寝ましょう。タオルケットを敷けば、少しは柔らかくなるわよ」
 話が決まって、食卓を隅に押しやり、二枚のタオルケットを床に並べて敷いた。虫除けのお線香に火を点した後、下着姿になってそれぞれのタオルケットの上で横になった。
 床は硬く、ひんやりと土にも似た冷たい感触が背中に伝わって来た。天井の点けっぱなしだったはだか電球が、なぜか突然ぷつっと切れた。お陰で世界中まっ暗。
「あらあら、停電のようね」
 呆れた声で笑いながらチポが起き上がり、蝋燭を灯して床に戻った。線香の効果なのか窓を開け放していても、虫は殆ど飛んで来ない。それに線香の香りは丸でエデンの森にいるような緑の香りを仄かに放って、家に染み付いた体臭や黴臭さを消してくれた。
「いい香りでしょ」
「うん。森にいるみたい」
「そうなのよ。トモロウの木の成分で作ったお線香だから」
「そうなんだ」
 そしてふたりは沈黙した、停電による蝋燭だけが頼りの暗闇と深い静けさの中で。ただ幽かにハルカ砂漠から吹いて来る、砂混じりの風の音だけがしていた。砂の一粒一粒たちの歌声すら、聴こえて来る程に思えた。それから隣りの部屋で眠るカポたちの寝息もしていた。目を閉じるとミサも、うつらうつらして来る。チポはもう寝ただろうか。
「ねえ、チポ」
 恐る恐る囁くように、声を掛けてみた。するとチポの声も、やさしく囁くように返って来た。
「なーに、ミサ」
 それから、チポはこう付け加えて笑った。
「今夜は眠れそうにないわね。だって明日はもう、あなたが帰ってしまうんだから」
「ごめんなさい」
「ミサが謝ること、ないわよ」
「そうね。あのね、チポ」
「なに」
 闇に慣れた目で天井を見詰めながら、ミサは続けた。チポもまた天井を見ていた。
「あなたを日本に連れてゆくことは、もう諦めたんだけど」
「うん」
「海に行くっていうのは、どう」
「えっ」
 驚いたチポは、ミサを見詰めた。
「海に行くって、どうやって」
「だから、ここから一番近い海にみんなで旅行するの。海外旅行ってことになるけど」
「海外旅行。みんなで、旅行ねえ」
「そう。費用ならわたしが出すから、ねえ行こう、みんなで」
「そうねえ」
 これはいけるかも。満更でもないチポの反応に期待を抱きながら、ミサは続けた。
「ここから一番近い海っていったら、何処がいいのかしら」
「それならね、昔ヤスオが教えてくれたわ。今でも覚えてる。モザンビークに行きなさいって」
「良し、じゃ決まり。みんなでモザンビークに、海を見に行こう」
 簡単に言ってはみたものの、旅行プランとか費用とか、それにモザンビークの治安は大丈夫だろうか。などと、あれこれ考えねばならないことは一杯ある。が、先ずはチポの気持ちが第一。
「ねえ、チポ」
 しかし考え込むチポ。
「うーん、そうねえ」
 ミサはチポの答えを待って、どきどきしながら沈黙した。チポも黙り込んだ。それは一瞬のようにも思え、また長い長い沈黙でもあった。遂にチポが答えた。
「やっぱり、ごめんなさい。止めておくわ」
「ええっ、どうして」
 落胆するミサのため息が、闇と静寂の中に沈んでいった。その瞳に、再び涙が……。
「確かにこの目で、海が見れたらどんなにいいかしら。子どもの時から、幾度となくそんな夢も見て来たわ。でも……、わたしにはヤスオが教えてくれたララバイ・オブ・シーがあるから。わたしの海は、わたしにとっての海はね、あの壊れたヤスオのオルゴールだったのよ」
「えっ」
「寂しい時も、どんなに辛い時も、いつもあのオルゴールのメロディが、慰めてくれたんだから」
「でも」
「本当にありがとう、ミサ。あなたのその気持ちだけで充分よ。だって、ほら。目を閉じれば今も、わたしの心へとあのきらきらと煌めくヤスオのオルゴールの音色が、それこそ海の波の音のように響いて来るから」
「チポ」
 ミサは言葉に詰まった。でも諦めるしかない。
「ほら、ミサも目を瞑って御覧なさい。海の歌が、聴こえて来るでしょ」
 ミサはチポの言葉に従った。するとチポはミサに向かって、囁くように小さな声で歌い出した。それはララバイ・オブ・シー、しかも英語ではなく、グリラ語の歌詞で……。
 あっ、もしかして。
 その時ミサは、はっと自分が何かに気付いたことを悟った。それは遠い日の記憶、過ぎ去りしあの日のことである。

 あの日とは、春三月の夜。ミサはまだ中学を卒業したばかりの十五歳の少女だった。父保雄の死を悲しみ、横浜の大桟橋の外れに立って、ひとりぼっちで泣いていたあの夜。ところがそんなミサの耳に、幽かに何かが聴こえて来た。吃驚したミサは、耳を澄ました。それは誰かの歌う声のようだった。
 ミサは何度も耳を疑った。しかし確かに、それは女性の歌う声だった。歌っている歌詞は分からない。日本語ではなく、異国の知らない言語のようであった。ミサは夢中で、その歌に耳を傾けた。
 ミサはその歌声が、海の方から聴こえて来るのに気付いた。波音に混じって、確かに聴こえ来る。ミサは声のする方角に目を向けた。暗い海の水平線の彼方へと。
 ミサはその歌声が美しいと思った。何てやさしい歌なのだろうと、思った。わたしもこんなふうに歌いたい。こんなふうにやさしく、人の心を慰められるような歌を、歌いたい……。

 我に返ったミサの耳に、まだチポの歌う声が聴こえていた。ミサは恐る恐る目を開いた。闇の中に横たわり、自分を見守るように見詰めながら自分に向かって歌い掛ける、チポの顔をそして見詰め返した。涙を拭いながらミサは、心の中でチポに向かって合掌していた。
 ミスュ、チポ。
 あの夜のあの歌は、あなた、だったのね……。
 歌い終えたチポに、ミサは尋ねた。
「ねえ、チポ。どうして突然、あなたは父にエアメールを送って来たの」
 チポは答えた。
「きっとヤスオがあなたを、わたしに会わせたかったからじゃない」
 悪戯っぽくウインクするチポに、ミサもウインクを返した。耳を澄ますとシャングの夜の静寂の彼方に、遠い海の音が聴こえて来るような気がした。いつのまにかふたりは、深い眠りへと落ちていった。

「ハッピ、ミサ」
「ハッピ、チポ」
 朝陽の中でエンデ家と集落の人々に見送られながら、ミサはシャングの地を後にした。農場地帯に沿って走らせるパジェロの開け放した窓からハルカ砂漠の砂混じりの風が吹き込んで、ミサの頬を荒々しく撫でていった。
 ハッピ、シャング。
 ハッピ、トピア。
 ハッピ、アシスエデン……。
(了)
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