20:朱音 真帆は食事の支度を手伝うから

文字数 11,664文字

 真帆(まほ)は食事の支度を手伝うからと言って先にマンションを出てしまった。瑞穂(みずほ)は一緒に出掛けるのを躊躇っているうちに置き去りにされた。よくよく考えてみれば、真帆が早く出て食事の支度を手伝うのであれば、同居する静花もまたキッチンに入るに違いなく、そうなればいつものように訳のわからない話を聞かされる破目には陥らないわけであり、従って、そもそも躊躇う必要もないはずなのだ。
 しかし、こうなってしまったからには、慌てて追いかけるのも馬鹿々々しく、朱音(あかね)と約束した時間に中目黒駅に着けばいい。瑞穂はごろんとベッドの上に寝転がり、しかしこの体勢では眠りこけてしまう恐れがあることに気がついて、慌ててフローリングの床に降りた。このマンションで初めて迎える秋の終わり/冬の始まりになって、生まれて初めて経験する床暖房というものの威力に感心しながら、テーブルの上でノートパソコンを開いた。
 このところ、瑞穂は毎日のように新居の間取りを眺めている。なにをどこに配置するかをあれこれ検討しているわけではない。瑞穂は物を持たない典型的かつ徹底的なタイプの人間である。さらに加えて、なにしろ同棲を始めようとしているものだから、冷蔵庫にしろ洗濯機にしろベッドにしろ、レイアウトの決定権はすべて完全に朱音の手に渡してしまっていた。従って、そうして間取りを眺めてみたところで、瑞穂に実際的な課題があるわけではなかった。ただ漫然と、新しい生活のイメージがうまくつかめないために、毎日なんとなく眺めているのだ。
 この日の中目黒には転居に伴う実際的な相談事があった。瑞穂のほうにはなにもないつもりだったのだが、「池内」のほうから話が出た。敷金や引っ越し代に新たに買い揃える家具・家電など、いわゆる初期費用をすべて持つと言ってきたのである。しかし、瑞穂と朱音には貯えがあった。朱音にはそもそも計画があり、瑞穂は無趣味な上に家賃負担がなく、二人で合わせれば充分な額になった。それでも「池内」は万が一のためにそれは取って置けと言う。万が一がなにを指しているのか瑞穂にはわからなかった。わからないから万が一なのだと「池内」に言われた。なるほど、そういうものか…と、万が一というものの性質に関しては腹落ちした。が、金は受け取りたくなかった。
 うまく説明はできない。説明を求められることなど考えもしなかった事柄であり、だから説明できないのは道理だった。万が一とはなにものか?と尋ねるのと同じ類いの話である。理解し得納得するものではなく、腹落ちするかしないかという話だ。
 土曜の夕方の上り電車は思いのほか混んでいた。下北沢で乗り換えた井の頭線はさらに混んでいた。地下に降りる長大なエスカレーターに立ちながら、まったくこの人の多さには辟易するな…と思った。郷里も決して山間の僻地ではなく、隣りの市に吸収される形で政令指定都市になった県庁所在地ではあるのだが、さすがに東京とは比べ物にならない。
 正面改札にまだ朱音は着いていなかった。メッセージも届いていない。二人とも、いつもどちらかが早過ぎたり、いつもどちらかが時間ギリギリだったりするはっきりとした傾向はなく、先になったり後になったりしている。今日は瑞穂が先になった。山手通りから吹き込む風がこの日は冷たく、瑞穂は支柱の横に回り込んだ。改札口はすぐ先に見えている。
 と、いきなり後ろから抱きつかれた。
「同じ電車だったよ」
 振り返ると朱音の明るい声が言った。
「なんで同じ電車?」
「恵比寿を乗り過ごしちゃったから……」
「湘南新宿で来たのか」
「少し早く出てよかった。――今日すっごい寒いね」
「うん、早く行こうぜ」
「楽しみだなあ、常葉さんの超高級マンション。コンシェルジュがお迎えに出てくるのよね?」
「いや、そんなものはいない」
 夕暮れ時のエントランスは、全面ガラス張りになっているせいもあってか、どこか寒々と静まっていた。中庭では紅葉の終わった葉が風に煽られて、いまにも枝先に別れを告げようとしている。外気が遮断されている分ほんのりと暖かくはあるけれど、気配は冬支度を急ぐよう促していた。
 エレベーターを降りたところで、瑞穂はふと首を傾げてから、右手に折れた。マンションのような集合住宅の廊下にはドアがずらりと並んで見えるものと朱音は思っていたのだが、ここではそうではない。エレベーターを降りて歩いて行く視界には、ひとつもドアらしきものが見えなかった。しかし、やがて瑞穂が立ち止まったところには、確かにドアがある。騙し絵の世界に迷い込んだかのようだ。
 インターフォンの向こうから、朱音には聞き覚えのない女の子の声が応えた。真帆ではない。たぶん名前だけは聞いている〈静花〉という瑞穂の従妹の声だろう。間もなく電子ロックの開く音がして、瑞穂が表からドアを引いた。それが、どうやら内側から押すのと重なってしまったらしく、小柄な女の子が転がるように出てきた。
「もお、なんでドア引くの!」
 うわっ、可愛い…と、転がり出てくると同時に声を上げた女の子に、朱音はちょっと驚いた。
「どこかぶつけたか?」
「足を挫いたみたい。瑞穂さんリビングまでおんぶ……はしないよね」
「こんにちは」
「いらっしゃいませ、朱音さん。お待ちしておりましたわ。今日はほんとに寒いですわね。まだ十一月だというのに雪でも降り出しそうですわ」
「静花、そいつはやめろ」
「あら、どうしてですの?」
「今度やったら、ぶっ殺すぞ」
「わかったよ。嫌いなんだよね。――さ、上がって上がって」
 静花はパタパタパタッと走り去り(むろん足を挫いたりなどしていない)、廊下の向こうに姿を消した。
「なんでぶっ殺すの? あんなに可愛い子を」
「最初に釘刺しとかないと止まらなくなるからだよ。ずっとあの調子でやられてみろ、ホントぶっ殺したくなるから。まったく、まだやってるとは思わなかったよ」
「なんなの、あれ?」
「プルーストに出てくる〈なんたら公爵夫人〉。なんだか忘れた」
「読んだの?」
「途中までね。その〈なんたら公爵夫人〉のサロンのところで寝落ちして、そのまま諦めた」
 靴を脱ぎ、コートをかけて――明らかにそのためのクロークのようなスペースがあった!――朱音は瑞穂の後ろから静花が姿を消した廊下の先へ進んだ。
 静花が姿を消したのは、そこで廊下が斜めに折れ曲がっているせいだった。廊下はさらにその先でも折れ曲がっているように見えた。途中、ふたつばかりドアがあった。そのドアも、廊下からやや窪んだところにあり、まるで玄関のように見えた。
 瑞穂は廊下をひとつ折れた先で大きな引き戸を開けた。背凭れの高い椅子が八脚並ぶ、長方形の大きなダイニングテーブルがあった。その、左手前のいちばん奥の椅子から、背の高い女性が腰を上げた。柔らかに微笑んではいるけれど、瞳と額とがきらっと光るようだった。先に入った瑞穂が壁に寄り、朱音のために――その女性に朱音が歩み寄るために――場所を空けた。
「月浦朱音さんです。こちらが例の常葉叔母さんだよ」
 瑞穂は作法に則った順序でふたりを引き合わせたが、余計な言葉が入った。
「いらっしゃい、月浦さん。――で、瑞穂、

ってどういう意味よ?」
「あ~、え~とですね、ぶっちゃけその、なんて言おうかな? だからほら、ちょっと気を緩めるとさ、そうやって怖い目で睨みつけられる、みたいな?」
「瑞穂はこれまで私に睨まれるようなことしてこなかったでしょう?」
「そうだね。確かにそうだ。俺はずっと池内のいい子ちゃんを唯一代表する男だったからなあ。…て、あれ、東金くんじゃね? なんで東金がいるの?」
 ダイニングテーブルの奥のキッチンで背中を向けていた、ひょろりとした青年が振り返った。
「瑞穂さん、お久しぶりです」
「まだいたんだ。いい加減もう静花に嫌気がさして、とっとと逃げちゃったと思ってたよ」
「全然そんなこと。月二回くらいはお邪魔してますよ」
「へえ、そうなんだ。…あ、静花のカレシの東金くんね。こっちは月浦さん、よろしく」
「はじめまして、東金です」
「あ、月浦です。よろしくお願いします」
 軽く頭を下げてから、東金がそそくさとキッチンに戻るのを見て、朱音が瑞穂の肘を引っ張った。
「私、なにもしなくていいの?」
「いい、いい。あそこは好きでやってる人たちだから。俺たちはただ座ってればいい。あ、常葉さん、今日は俺たちどっち?」
「私の隣りに瑞穂、月浦さんにしましょうか」
「真帆は?」
「私の前よ」
「俺の前は?」
「静花」
「なるほど。で、今日は夏馬さんはいないの?」
「そろそろくると思うけど」
 三人が振り返ったちょうどそこへ、頭をぶつけないように身をかがめつつ、ぬっと夏馬が現れた。
 この日の晩餐の席次は――長方形をしたダイニングテーブルのキッチンに近い短辺に、キッチンの支配者である瑞穂の叔父の叶(ここは叶の定位置である)。その右手の長辺に常葉、瑞穂、朱音(常葉が座る場所もここと決まっている)。向かい側、叶の左手の長辺に真帆、静花、東金。そして廊下からの入り口に近い短辺に夏馬となった。
 八席がすべて埋まるダイニングテーブルの光景を目にするのは、瑞穂には二度目だった。この春、東京に出てきたばかりの頃、そのときは朱音と東金の代わりに、従姉の彩日香と従兄の大和がいた(二人は安曇家の姉弟である)。真帆と瑞穂を東京に迎えるという形の晩餐だったから、彩日香は渋々やってきた。そのときの八名が、いま東京に暮らす「池内」の親族のすべてである。
 八名ともなれば、キッチンもなかなか忙しい。叶を真帆と静花が手伝って、「料理をするついでに教壇に立っている」――と姉の常葉から揶揄されている――叶の渾身の新メニューが次々と並んだ。朱音と東金を除く親族は、忌憚なく、言いたい放題の評価を口にする。好評でも不評でも、叶は嬉しそうだ。むろん好評であったほうが笑顔は大きい。
 しゃべっているのは八割方、瑞穂と静花である。占有時間の計算ではそうなるのだが、二人の言葉には重みがない。誰も聞いていないのではないかと思えるときだってある。叶は上手にテーブル全体をコントロールし、初めて参加する朱音にも自然に声をかける。そして、常葉と夏馬が口を開くと誰もが耳を傾ける。決して悪い意味合いではない緊張を、この二人からは求められるのだ。
 そんなテーブルに、朱音はまるで舞台や映画の一場面に紛れ込んでしまったかのような、不思議な感覚で座っていた。いわゆる核家族世帯であり、祖父母も親戚も近くにいなければ、実際、家を訪ねて来たり訪ねて行ったりした記憶のない世界に、朱音は生まれ育った。落ち着かないとか、居心地が悪いとか、そういう話ではない。なんだかちょっと、ふわふわしている。
 その正体を確かめたくて、自分と同じ立場にあるはずの、向かいに座る東金を見た。お人形さんみたい…とか言いたくなるほど可愛らしい静花にお似合いの、ハンサムな青年だ。しかし見たところ、東金にふわふわしている気配はない。やはり自分より長く頻繁にここを訪ねているからだろうか――そんなことを考えながら観察するうちに、東金に気づかれた。
「月浦さん、なにか困ってます?」
 ちょうど叶が次のメニューを調えるべく真帆と静花を従えて席を立ち、隣りの瑞穂が常葉のほうを向いて話しかけている間合いだった。
「いつもこんな感じなの? それとも今日は特別?」
「いつもとそんなに変わらないと思います。ただ、今日は瑞穂さんがきているので、静花のテンションがいくらか高めかもしれないけど。――夏馬さん、どうです?」
「静花が騒々しいのは毎度のことだよ」
 そう言えば、二人のあいだには斜交いに夏馬が座っていたのだった。
「居心地が悪いかい?」
「いえ、そうじゃないんです。ただちょっと――」
「あまり考えないことだね。君が考えるべきことはほかにたくさんあるはずだ。それ以外のことは他所に委ねてしまっていいんだよ。君はいまそういうところにきたのだと思えばいい」
「他所に委ねるって、どういうことでしょう?」
「たとえばもっと瑞穂にあれこれ考えさせればいいし、たとえばすっと常葉の考えを受け入れてしまえばいい。君はたぶんいろいろ一人で考える癖がついてしまっているんだろう。でもそれはもうやめたほうがいい。そのほうがずっとうまく行くと、僕はそう思うよ」
 東金はすでに隣りに戻ってきた静花と話しはじめていた。夏馬の言葉の意味を問いかけようとした朱音は、そこで行き先を失った視線を東金から静花へ、真帆へ、叶へ、常葉へ、瑞穂へとテーブルを一回りさせ、ふたたび夏馬の上に戻した。が、夏馬もまたそのあいだに、朱音との話を終えてしまっていた。今は静花に呼びかけられて、そちらに顔を向けている。
 朱音はまたぼんやりとテーブルを見回した。すると、すぐに叶から声をかけられた。新しい、この夜の最後のメニューが、いつの間にか目の前に届いていた。叶の声を追いかけて、瑞穂が静花が、朱音に話しかけた。二人に応じたところで、瑞穂の背中から常葉が首を出し、朱音に声をかけた。常葉の言葉に夏馬が反応し、朱音を挟んで常葉と夏馬が話しはじめた。隣りで瑞穂が笑いながら、常葉と夏馬の会話の意味を朱音に説明してくれた。その内容があまりに馬鹿々々しかったので、朱音は思わずくすくすと笑った。その笑い声を耳聡く聴きつけて、静花が瑞穂を呼んだ。瑞穂は静花を追い払うような仕草で制し、朱音に向かって話をつづけた。静花が頬を膨らませて東金に咬みつく様子を、朱音は視界の端のほうで見た。瑞穂がまたおかしなことを言った。くすくす笑いつづける朱音の左右から、常葉と夏馬が瑞穂を窘めようとした。が、瑞穂はまったく聞く耳を持たず、笑い過ぎて涙がにじむまで、朱音に荒唐無稽な話を聞かせ続けた。常葉と夏馬は瑞穂を抑えることを諦めた。朱音が瑞穂の腕にすがり、その馬鹿げた話をやめさせなければならなかった。そうしないことには、せっかくの叶の最後のメニューを味わうことができそうもなかったのだ。

     §

 キッチンには支度をしていたときと同じメンバー――叶、真帆、静花、東金――が片付けに入っていた。片づけくらいは手伝いたいと朱音も申し出たのだが、もうこれ以上の手数は必要ないと叶に追い帰されてしまった。仕方なく、常葉と夏馬と瑞穂がそろうリビングルームに移った。
「先にコーヒーを淹れてくれないかしらねえ」
「もう十年、毎晩それ言ってるだろう?」
「いくら言っても叶はそうしてくれないのよね」
「コーヒーくらい自分で淹れたらいいのに」
「それをしたら叶が拗ねちゃうでしょう? ほんと、とんだダブルバインドだわ」
 常葉は一人掛けのソファーに深くゆったりと体を沈め、なにをするでもなく天井を眺めていた。夏馬は窓辺にある安楽椅子で、膝の上にノートパソコンを開いている。瑞穂と朱音はロングソファーに並んで座り、コーヒーを待つ常葉と向き合った。
「瑞穂、あんたおかしなこと月浦に吹き込んじゃダメよ」
「俺は嘘はついてないぜ」
「嘘じゃなければ問題ないって考え方は間違いよ。たとえばあんた、五歳の女の子にサンタはいないとか言える?」
「朱音ちゃんは五歳の女の子ではない」
「あんたと話してると、彩日香なんかと違う意味で疲れるわね」
「彩日香さんなんかと俺を一緒にしてもらいたくないね」
「大丈夫よ。彩日香はあんたの数千倍は賢いから。使い方がわかってないだけで」
 瑞穂は眉間にしわを寄せ、不満げにじっと常葉を見据えた。朱音はまたくすくすと笑いそうになった。きっと瑞穂はいつもこんなふうにあしらわれているのだろう。それは言い換えれば、瑞穂はこの人たちに心から愛されているという意味だ。
「そう言えば例の件、ちょっとは考えたの?」
「うん、ちょっとは考えた」
「で、答えは出た?」
「出ない。俺には難し過ぎる。常葉さん、そんなの俺、わからないよ」
「月浦はどうなの? 瑞穂から話は聞いてるわよね?」
「あ、はい。私は、あの――」
「お待たせしました~!」
 朱音が言い淀んでいるところへ、静花が大きなコーヒーポットを手にやってきた。トレイに八つのカップを乗せた東金を、後ろに引き従えている。
「ねえ、静花――いったいなんのために、あんなおっきな食洗器買ったと思ってるの?」
「私のこの白魚のような手が荒れないようにでしょ?」
「コーヒーが早く出てくるためによ!」
「ああ、伯母さまったら、そんなにカッカなさってはいけませんわ。お体に障りますわよ。――あ、瑞穂さんに殺される!」
「さっさとコーヒー淹れなさい」
 東金が苦笑しながらテーブルの上にカップを並べ、静花がわざと焦らすようにゆっくりと、ポットからコーヒーを淹れた。そのあいだに叶と真帆もリビングルームに入ってきた。叶は常葉の隣りの一人掛けソファーに座り、真帆はロングソファーの瑞穂とは反対の、朱音の隣りに腰を下ろした。
 静花はそれぞれの前にカップを運ぶことまではしない。ソファーテーブルから遠い夏馬も自分で取りにくる。ソーサーも八つ用意されてはいたけれど、使う使わないは自由らしい。朱音はテーブルを汚すようなことがあってはいけないと考えて、ソーサーにカップを乗せた。
 目の前ではいつものように、瑞穂が信じられないくらいの砂糖を投入している。気がつけば、夏馬と叶も同じことをしている。そう言えば以前、これは一族の悪しき習慣だと、真帆が言っていた。しかし、まさかキッチンに立つ叶までもがそれをするとは驚きだった。
 そのあいだに東金がどこからか背凭れのない小さな椅子をふたつ持ってきて、真帆と叶のあいだ、テーブルの端に並べた。コーヒーを淹れ終えた静花はそこに座った。静花と東金の砂糖が常識的な分量だったことに、朱音は少しホッとした。向かいの常葉はブラックである。なるほどこれは「池内」の男たちの悪しき習慣なのかもしれない。
「静花、それなんだ?」
 どこからか、静花がA4――いやB4サイズくらいに大きな紙を持ち出して、テーブルの上に広げた。それは一見してマンションの間取り図とわかる図面だった。模様替えでもするのだろうか…と朱音は思った。しかし瑞穂のほうは、それがこのマンションの間取りでないことを、すぐに見て取った。同時に、なぜそれが叶、静花、そして真帆のあいだに拡げられたのかも……。
 静花は瑞穂に向けた顔を、さっと常葉のほうに動かした。そう、静花は馬鹿な女の子ではなかったから、口もつぐんでいた。常葉が軽く微笑みながら頷くまで。――それを受け取ってから、静花は瑞穂の上に顔を戻した。すぐに口を開かない静花の様子に、それに微笑みかけた常葉の仕草に、瑞穂の直感は確信へと転じ、思わず瑞穂をその場に立ち上がらせた。
「私たちも引っ越すんだよ」
「……真帆も、だな?」
「そう。これから四人で暮らすの。だから瑞穂さん、もっといっぱい遊びにきてね。朱音さんも一緒にだよ」
「あ、ああ。そうだな……」
 呟くように口にして、瑞穂はゆっくりとソファーに腰を下ろした。しばらく膝の上でじっと自分の手を見つめてから、ハッとしたように窓辺の安楽椅子に座る夏馬に顔を向けた。それから手前の常葉へと、次いでその隣りの叶へと、さらに隣りの静花へと、そしてやや後ろに控えて座る東金へと移し――彼らはみな瑞穂を見ていたのだが――最後に視線をとめた真帆は俯いていた。
 だから、瑞穂は一度、朱音の顔を見た。朱音はあまりに急なことで、状況を理解できていなかった。それでも瑞穂が、なにかと葛藤していることは伝わった。それも早急に、今この場で結論を出さなければならない事案を抱えている。――それと意識することなく、朱音は瑞穂の手を握った。瑞穂の膝の上にあった手を、自分の膝の上に引き寄せた。
 瑞穂の顔がふたたび真帆に――朱音の向こう側にある真帆に向けられたとき、やや斜めにではあったけれど、俯いていた真帆の顔は、瑞穂の視線を受け取れるところにまで持ち上がっていた。真帆はその、やや斜めの顔のまま、瑞穂に小さく微笑んだ。瑞穂はひとつ唾を呑み込んで、いかにも不調法に、切れ味の鈍い、下手くそな笑みを返した。
「瑞穂」
「ん?」
「これまでありがとう」
「……なに言ってんだよ」
「一緒に産まれてくれたから、後ろから押し出してくれたから、お母さんのおなかから押し出してくれたでしょ。だから私、そうやってずっと瑞穂が一緒だったから、なんとかこうしてここまで――」
「真帆、そういうセリフはな、泣きじゃくりながら言うもんだ。見ろ! なんか知らないけど、朱音ちゃんが泣いちゃったじゃんかよ! どうしてくれんだよ、まったくよお……」
 朱音は握っていた瑞穂の手を持ち上げて、祈るように額に押しつけながら、この場の緊迫した空気の理由をようやく理解した。瑞穂が急に抱え込んだ葛藤の中身もわかってしまい、自分が今夜ここにいるのはなんて素晴らしいことなのだろうと、これまで知ることのなかった歓びに、この歓びをもたらしてくれたなにもかへの感謝に、朱音は震えていたのだった。
 朱音にはもうひとつ、彼女にとって大切な発見があった。瑞穂と決めた新しい住まいは、もはや真帆が暮らすマンションからの距離という要素を、すっかり失ったのである。それは朱音にとって、大船の生家からの距離を測ることが、転嫁された作業だった。瑞穂は真帆のマンションから、朱音は大船の生家から、それぞれの距離を測ってきた。しかしそれはもう必要のない作業なのだ。
 気がつけば、常葉と夏馬の場所が入れ替わっていた。常葉は窓辺の安楽椅子の上で、脇の小さな丸テーブルにコーヒーカップをソーサーの上に置いて、分厚く重たそうな本を開いていた。夏馬は二杯目のコーヒーに、たっぷりの砂糖を投入しているところだった。
 気持ちが落ち着いて、なにやら晴れ晴れとした気分にさえなった朱音は、瑞穂の手を――離してしまうのは惜しかったので――握ったままふたりのあいだに降ろした。それを見て、しかし手を休めることなくスプーンを使い終わってから、夏馬が二人の顔を交互に見た。そして左右の胸ポケットから――いったいいつからそんなものを忍ばせていたのか――帯封(おびふう)が解かれていない現金を二束取り出して、テーブルの上に置いた。
「金庫の鍵は僕が管理していてね、必要なときは僕がこうして持ち出すことになっている。もちろん金庫というのは銀行のことで、鍵というのは暗証番号のことだよ」
 そこで二人の反応を量るかのように、少し間を置いた。
「瑞穂にはどうすればいいのかわからないそうだ。従ってこれは月浦に決めてもらう。もはや時間の猶予は与えられない。今ここで決まらなければ、僕はこいつを金庫に戻す。さあ、どうするね?」
 瑞穂がそっと朱音を見た。が、朱音は瑞穂を見ずに答えた。
「頂きます」
「おお、よく言った」
「でも、条件をつけさせてください」
「なんだろう?」
「こちらに領収書を持ってきますので、ぴったりその金額でお願いしたいです」
「いいねえ。実にいい発想だ。どうして瑞穂にこれくらいのことが考えつかないか、親族として本当に恥ずかしいよ。月浦さん、この男に嫌気がさしたら、いつでも放り出して構わないからね」
「ありがとうございます。でも私、きっとそんなことしません」
「そんな約束はしないほうがいいと思うよ」
「これは約束ではなくて、私がいま感じ取っているイメージです」
「なるほど。瑞穂は幸せな男だ。いちばん頭の悪いやつが、いちばんの幸せ者になる。世の中うまくできてるもんだね」
 夏馬は帯封を解かないまま、上着の左右の内ポケットに現金を戻した。その瞬間、ちょっと触ってみたいとでも思っていたのだろう、静花が「あ…」と小さな声を上げ、慌てて口元を手で覆った。それを裏付けるかのように、東金が苦笑している。
「じゃあ、僕は帰るよ」
 腰を上げた夏馬に、窓辺から常葉が声をかけた。
「華澄に電話してちょうだい」
「また華澄さん? たまには自分でしたほうがいい」
「あの人話し長いし、結局要領を得ないから嫌なのよ」
「とにかく今日は断る」
「ちょっと、夏馬!」
 背中を向けて歩き出した夏馬だったが、リビングのドアを開けたところでふと足を止め、静花を手招きした。ぴょんぴょんと跳ねるように夏馬のあとを追って廊下に出た静花は、しばらくして、まさしく宝くじにでもあたったかのようなわかりやすい顔で戻ってきた。
「きっとこれが最初で最後だわ……」
「なにが?」
「あのね、やっぱり重いのよ。ダンベルほどじゃないけど、ダンベルとは質の違う重さね。これまで使ったことのない筋肉が試されるの。その上いい匂いがする。薔薇とか柚子とか、ステーキとか蒲焼きとか、そんな原始的なやつじゃない。嗅覚が刺激する先が、明らかにこれまで開拓されてこなかった領野なのよ。――ああ、忘れられないわ! ねえ聖二、私しばらく夢で魘されるかもしれないけど、それはあれのせいだから心配しないでね」
「そんなに気に入ったのなら銀行に勤めればいい。窓口に座れば毎日だって触れるよ」
「バカねえ、それは他人様のじゃないの」
「あれだって静花のじゃない」
「そうとも言えないわ。たとえば芙蓉伯母さんの還暦のお祝いで、一族みんなでハワイに行くでしょう。芙蓉伯母さんがいちばん最初に還暦になるからね。でも私はたまたまインフルエンザに罹っちゃって、出入国管理法上から搭乗を断られてしまうの。そのときたまたま――」
「それ以上は言わなくていい。つまり『池内』の資産を君が独り占めするんだね」
「私がいちばん年下なわけだから、最後に笑うのは私かもしれないって話よ。お伽噺とかでもいちばんよくあるパターンよね。小さな末娘が総取りして終わるやつ。――ああ、『池内』がお金持ちだってことは知ってたけど、私今日初めてそれを体感したわ!」
 堪え切れずに、朱音がくすくすと笑いだした。恥ずかしそうな顔をしたのは東金で、静花をこの話題から引き剥がすために、新しいマンションの間取り図をテーブルの中央に移した。リフォームはすでに始まっており、それはリフォーム後の完成形として施工会社がつくったものだ。
 部屋は五つある。常葉、叶、静花、それに真帆。そして書庫。――書庫がもっとも広いのは今のここと変わらない。そういう話を聞いて、朱音は瑞穂に案内してもらった。大きな地震がきた際には絶対にここにいてはいけない、という部屋だった。
 しかし、そこで瑞穂はこの家にあるはずのないものを見つけた。アンブローズ・ビアスの選集である。瑞穂は恐る恐る『幽霊2』の箱を手に取った。重たい。明らかに本が収まっている重さだ。そして実際そこには本が収まっていた。
 もしかしたら記憶違いかもしれないと思い、瑞穂は五箱の選集をすべて確かめた。いずれも正しい本が収まっていた。本家にあったのと別のセットでもない。それは箱の状態を見ればわかる。しかしB5サイズのノートはどこにもなかった。
 確かめるまでもないことだろう。真帆が処分したのに違いない。あのノートは、あのノートを書いていた頃は、まだ真帆は〈未来〉を偽ってはいなかったのに。
 呆然とする瑞穂の横顔を、すぐ隣りで朱音が見守っていた。気がついた瑞穂は、しかし慌てる様子もなく乱れた書棚を整えてから、唐突に朱音を抱き寄せた。
「え、なに?」
「大丈夫。俺たちがしばらく戻らなくても、探しにくるなんて無粋なことはしない連中だ」
「なにバカなこと言ってるの!」
 瑞穂の腕を振りほどき、朱音は怒った顔で廊下に出た。
 リビングに戻ると、常葉と叶は自室に引き上げていた。テーブルにはノートパソコンが持ち出され、静花と真帆がカーテンの柄をどうすべきか、ぺちゃくちゃと止め処ないおしゃべりを始めていた。当然のことながら朱音もその中に引き摺り込まれた。しかし朱音もまた同じ課題を抱えていたのであり、自分から身を投じて行ったと見るべきかもしれない。
 東金は瑞穂が戻ったのでホッとしたように場所を移った。テーブルの一方の端に女三人が、他方の端に男二人が、互いに相手から遠ざかるようにして座った。女たちがカーテンの話をしているとき、男たちは政治の話をはじめるものである。しかしこの国は、この部屋は、あまりにも平和に過ぎるので、男たちは仕方なく、女たちを眺めていることにした。
 途中、今夜は静花の部屋に泊まると真帆が言った。だから私を待っていると帰れなくなるからきちんと時計を見ておくようにと。時間なら朱音が気をつけているから大丈夫だと瑞穂は答えた。ビックリした朱音はバッグの中から慌てて腕時計を取り出した。それと同時にここを何時に出れば瑞穂のマンションにたどり着くのかをアプリで調べはじめた。
 夜はまだ更けるには早かった。(了)
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