06:織田 自分は幸福な人間だ――

文字数 5,962文字

 自分は幸福な人間だ――織田はこのところ頻りにそう考える。クリニックの経営は順調だし(借金の返済にも余裕がある)、妻の彩愛(あやめ)は美しく穏やかで、浅薄な人間でもない。このような四十代が待っていようとは、正直なところ夢想だにしなかった。
 現在のこの環境を、万人が納得できる形で説明できる要素は、恐らくひとつもない。人一倍の努力を惜しまなかったとか、生家が資産家であったとか、器量と才学に恵まれたとか、敬意だろうと羨望だろうと、そのような理屈を捻り出すのは難しい。宝くじが当たったというのとも違う。宝くじというものは、そもそも購入しなければ当たらないのであり、織田にはそれを買った記憶がない。
 彩愛に一切の打算もなかったとは思わない。彼女と出会ったとき――それはどうやら意図的に

らしいとあとになって気づいたのだが――織田は瘦せっぽちな研修医ではなく、すでに堂々たる開業医だった。三十代も半ばに差し掛かっていた彩愛が、そのブランドを値踏みしなかったはずはない。
 しかしそれもまた織田のひとつの属性であり、自分が彩愛の美しさと八歳(やつつ)違いの若さに惹かれたのと、根っこは同じ〈欲〉だ。それでも彩愛は決してそれだけではないと信じられる振る舞いを見せてくれている。これまでのところ…と但し書きを付すべきか、わからない。
 織田と彩愛を引き合わせた友人――当時、彩愛の上司だった――とは、高校の同窓生だ。年寄りの肌に触ったり、ましてや臓器を覗き込むなんて、俺にはとても考えられないよ……友人はそう言って、医学部に進むに足るずば抜けた成績を保持しながらも、法学部を選んだ。それがどうした風の吹き回しか製薬会社に就職し、取り扱い分野は織田の専門とは異なるものの、隣り合う業界の人間となった。交流が続いているのは偏にそのためである。
 先日、〈池内常葉〉との縁を思い出したとき、当然のことながら、この友人の顔が頭に浮かんだ。業界の一位・二位を争う大手に勤める友人のほうは研究者ではないけれど、彼女を知る可能性は高い。彼の会社も招聘すべく動いていたかもしれない。
 急ぐ話でもないからと思い、織田はプライベートのメールアドレスに宛て、あっさりとした文面で照会をかけてみた。数日して、知らないほうがどうかしている…といった調子の返信を受け取った。しかし、おまえがどこでどうつながってるのか?との尤もな疑問も添えられていた。確かにそうだろう。心療内科の人間が循環器系の研究者に興味を抱くなど、まあ、酔狂な話だ。織田は無知であった自分を恥じるふうを装い、詳しくは話せないが或る患者の口から聞いたのだとはぐらかした。調べてみたらけっこうな大物みたいなのでちょっと尋ねてみたのだ、と。
 友人とは一度きりのやり取りで終わり、織田はすぐにそのことを忘れた。
 八月の初めに、彩愛と渡島半島を巡った。開通した新幹線に乗って函館へ、現地では彩愛がレンタカーのハンドルを握った。彩愛は車の運転をするのが好きで、贔屓目だがセンスがある。不快な加速/減速を感じさせず、助手席に座っていて心地がいい。
 旅行から戻って数日後、彩愛から驚くべき報告を受けた。妊娠しているという。見せられた検査薬は、確かに陽性反応を示していた。目を見張ってから破顔して彩愛を抱き寄せつつ、この子が成人するとき俺はもう還暦を過ぎてるんだよな…と冷や汗の出る思いがよぎった。
 とはいえ、検査薬は受精卵の着床の可能性を間接的に示唆するところまでであり、まだすべては始まったばかりだ。彩愛によれば、生理が旅行に重なりそうだといささか残念に思っていたところ、何事もなく過ぎ去ったもので怪しんでいたという話である。
 すなわち――こんなことは言うまでもないと思われるが――彩愛のほうは排卵日をしっかり意識していたのであり、織田はそんなものの存在からしてすっかり忘れていた。なぜなら――と重ねて述べるのも馬鹿々々しいくらいだけれど――受精は女の体の中で起こる事件であり、精子を預けたあとになにが起こっているかなど、男には窺い知る術がない。
「性別はわからないんだっけ?」
「え、これで?」
「いや、さすがにそれは無理か」
「私いまお医者さんとお話ししてるのよね?」
「夫が医者だから安心…なんて考えちゃいけない」
「咳と鼻水が出てるのに、整形外科にかかるバカはいない」
「俺のクリニックに妊婦がやってきたら、そいつはもう由々しき事態だよ」
 考えたくもない…と言うように、織田は大袈裟に首を横に振ってみせた。それはつまり、これまでそんな事態が訪れたことはない、という意味だろう。確かにそれは考えたくない話だと彩愛も思いながら、その時ふと、この秋に予定している重大事案が頭に浮かび、ちょっと残念そうに肩を落として溜め息をついた。
「やっぱりマラソンは諦めないといけないわよね……」
「あれ? 本当に走るつもりだったの?」
「じゃあどうして私は毎週九十分も走ってるの?」
「美容と健康のため」
「もしかして最初からずっとそう思ってた!?
「違ったのか…といま愕然としてるところだよ」
「だからバーベキューのあと連絡くれなかったの!?
「俺はトレーナーじゃないからね」
 少しばかり、二人の可能世界を想像してみよう。無数の可能世界のうちのひとつを、形式的に展開してみるということだ。
 一昨年の秋、織田と彩愛は共通の知人に声をかけられて、バーベキューに参加した。すでに幾度かフルマラソンを経験している織田に、彼女も走ってみたいそうだと、知人がイタズラっぽくけしかけた。まともに受け取らなかった織田は、連絡先の交換をしたのにもかかわらず、彩愛にアプローチすることを怠った。そこまでは、唯一の現実世界の出来事である。
 その後、いっこうに連絡を寄越さない織田に痺れを切らせた彩愛がメッセージを送りつけ、二年後にフルマラソンを完走するんです!と宣言してしまうわけだが、もしこのときに、織田が少しでもその気になり――あるいは臆病風に吹かれて及び腰になることなく――先に彩愛を誘っていたらどうなっていただろうか?
 容易に想像できる可能性のひとつは、もしそうであったなら、彩愛はきっとムキになってまで「フルマラソンを完走する!」などとは叫ばなかったろう、ということだ。織田はそれを、フルマラソンを完走すること自体においてではなく、そのような大それた宣言を自分に向かって叫んだことにおいて、どうやら真剣に彩愛と相対してもいいようだと受け取ったわけである。
 従って、彩愛がそんな宣言をしなければ、今日のこの日に妊娠検査薬の活躍の場はやってこなかった公算が高い。織田はただ、自分よりずいぶん若く美しい彩愛に対して腰が引け、そのまま放置したに過ぎなかったのだが、却ってそれが幸いした格好だった。
 つまり、明らかに作意を以て引き合わされたあと、そこは少なからず容姿に自信を持っていた彩愛にしてみれば、織田からすっかり放擲されたような扱いに苛立ち、最後は腹を立てて自分から連絡をとることになった。もちろん織田に、そんな計算ができるはずがない。それができないから四十代まで独り身だった…と主張するわけでもないが。
「そもそもあなたはどうして走ってるんだっけ? ちゃんと聞いたことなかったけど」
「もちろん美容と健康のためだよ」
「びよう? 『美しい(かたち)』て書くやつ?」
「金のかからないストレス発散だ」
「頭の中を空っぽにしたい」
「そうだったはずなんだけど、君と一緒に走るようになってから、どうしても邪念が混ざり込む」
「どういうこと?」
「隣りでずっと胸とお尻が揺れてるからさ」
 持ち出すべき擬態語としては、「ハッ!」と「キッ!」とをブレンドしたような塩梅で、彩愛が大きく眼を見開いた。織田はおもしろそうに笑っている。ここは女の子がするようにパシンッ!と叩くべきだろうか?などと考える暇もなく、勝手にこぶしが織田の胸に突き刺さっていた。そんなふうに殴りつけたことはなかったので、織田の胸が思いのほか引き締まって硬いことに、彩愛はちょっと驚いた。幾度かフルマラソンを走ったことがあると聞けば、手脚の長い身軽な体型を思い浮かべるかもしれないけれど、織田はラグビーで言えばフランカー、アメリカンフットボールで言えばタイトエンド、バスケットボールで言えばパワーフォワード……そんな肩幅の広い頑丈そうな体つきをしている。だから、こぶしで胸を殴るまでもなく彩愛には想像できていてしかるべき硬さなのだが、ベッドの上では胸を殴りつけるようなことはしたことがなかったので……。
「産科に知り合い、いる?」
「産科はいないなあ。妹尾に評判のいいところを紹介してもらおうか?」
「ああ、妹尾課長。――でも、あの人、口が軽いから」
「いくらおしゃべりでも、安定するまでは黙ってるさ」
「あなたから連絡してもらってもいい?」
「君から言うのは恥ずかしい?」
「そうね。ちょっと、恥ずかしい……」
 この妹尾(せのお)諒二(りようじ)というのが、織田の高校の同窓生で、遥かに優秀な男だったにもかかわらず、人体に関わるのは嫌悪感しか覚えないという理由で医学部に進まなかったくせに、現在、大手製薬会社の営業部門で課長職に就いている、二人のキューピッド役を(勝手に)買って出た男だった。友人の奥さんの懐妊を、安定期に入ってもいないのに吹聴して回るほど、愚かな人間ではない。彩愛の元上司である。
 妹尾からはすぐに連絡があった。すわ一大事!とばかりに、直近で都合のつく日時と場所を三つばかり挙げて寄越した。織田はクリニックが休診となる水曜の午後に、川崎のカフェで会う約束をした。この春の花見の日程を上手く合わせられなかったこともあり――織田が彩愛と出会った際のいつものメンバーで予定されていた――、年末の私的な忘年会以来の顔合わせとなる。

     §

 カフェの入り口で妹尾の姿を認めたとき、先方はノートパソコンを開いてスマートフォンを耳に当てているところだった。少し間を置いたほうがいいのか迷った織田を妹尾のほうも見つけ、笑顔で手招きをした。厄介な電話ではないのだろう。織田は黙ってテーブルの向かいに座り、アイスコーヒーを注文して、妹尾の電話が終わるのを、何気なく店内を見回したりしながら待った。
「おめでとう。いつわかったんだ?」
「メールを送った日の朝だよ」
「そういうときは電話しろよな。プライベートのメールなんて見ない日だってあるんだから」
「別に急ぎの要件でもないし」
「おまえはいつもそうだ。なんでも急ぎじゃない話にしちまう」
「どこか紹介に値するところがある?」
「あるよ。俺からはこのふたつを薦めたい」
 織田のために――いや彩愛のために――わざわざ調達してくれたのか、妹尾は産科のパンフレットを二冊、大きなビジネスバッグから取り出した。
「これは俺の持論だけどね、産科は男のほうがいい。どうしてだかわかるか?」
「いや」
「経験も想像もできないから、却って冷静な判断ができる」
「でも、産婆っていうのはみんな女だったろう?」
「あれは血が不浄と考えられていた時代の話だよ。いまは神様のご機嫌なんかより、人様の命のほうが断然重い。だったら痛みなんかわからないほうがいい。俺はそう考える。そしてそれを、おまえと彩愛ちゃんに押しつける。彩愛ちゃんに写真を見せて、顔が好みのほうを選べばいい。顔は大事だ。人となりが滲み出るからな。二人とも、腕のほうは俺が保証する」
 パンフレットを並べた織田は、これは誰が見たって甲乙が紛れることはないだろう、と思った。しかし、彩愛の好みは侮れない。なにしろこの俺と結婚したくらいだ。この俺の子を授かったくらいだ。思いもかけないところを見ているかもしれない。
 織田はパンフレットをリュックに収めると、どちらか決めたら連絡すると礼を言った。
 用件が済むと、妹尾はゆっくりとタバコを吹かした。子供か孫か迷わされる年齢だよな…とか、織田が恐れていることを口にして揶揄った。おまえは禿げそうもないからいいよ…と、この年齢としては著しく後退しはじめている自分の額に手をやったりした。
「おお、そう言えばこないだ池内さんに会ったぞ」
「池内? …ああ、池内常葉」

を付けろよ、おっかない人なんだから」
「どこで?」
「さる大先生の退官記念パーティーだよ。――おまえさ、あの人に会ってるだろ?」
「え、彼女、憶えてたのかい?」
「木之下教授の三回忌だって言ってたが、本当か?」
「ちょっと立ち話をしただけだ。あのときお互い名乗ってもいないと思うんだけど……」
「向こうも名前は知らなかった。でも心療内科の男でしょう?て言ってたから、たぶんおまえだ。――しかしなんで木之下教授なんて大物と知り合いだったんだ?」
「木之下さんのほうは誰でもよかったんだよ。たまたま俺が目について、たまたまよく出くわした。捕まると機銃掃射みたいに質問を浴びせかけられてね、冷や汗掻きながら答えたよ」
 そこで妹尾の様子が、明らかに良くない相談をはじめる人間の顔つきと姿勢に変じた。
「彼女の名前を口にした患者は近しい人間か?」
「守秘義務に抵触する」
「むろんそれでおまえは知らないふりをしたわけだろう。で、彼女に会う必要が出てきそうな話なのか?」
「それはないと思うよ」
「どうにか仲良くなれないかなあ」
「パーティーで声かけるくらいの面識はあるんだろう?」
「搦め手から攻めないと無理なんだよ」
「あそこから妹尾のところに移るのはマズいんじゃないか?」
「途中に大学病院でも挟んでもらうさ」
「ふ~ん。…でもまあ、俺に期待するのは諦めてくれ。あの人が関係してくるような話じゃない」
 そう言い切れるものなのか、織田に確信があって口にしたわけではなかった。ただ少なくとも、織田のほうからあの大男に対し、君の叔母さんに会いたいと求めるのは無理だ。確かに月浦朱音のカレシが池内常葉の親族であることは間違いないにしても、こちらから彼女を引っ張り出す理屈を捻り出せるものではない。そもそもあの大男がふたたび織田を訪ねてくるとも知れないのだから。
 これから部下と市立病院で待ち合わせているという妹尾と別れ、織田は家路についた。
 彩愛は二冊のパンフレットを並べて眺め、織田が最初に感じた通りの捻りのない――写真に載った医師の顔つきの印象に過ぎないが――まっとうな選択をした。さっそく明日にも受診すると言う。確かに早いほうがいい。検査薬の判定には99パーセントの確かさがあるという話だが、専門医がそれを引っ繰り返さないとも限らない。ぬか喜びに終わるのは、織田も残念だが、彩愛には気の毒だ。肩を落として帰ってくる彼女を、どんな顔で迎えればいい?
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