10:日高 「月浦さんさあ…」

文字数 11,074文字

「月浦さんさあ…」
 ディスプレイに向かい、神経を使う細かい検査数値の検算をしていた朱音(あかね)は、頭の左上のほうからふいに声をかけられて、声の主が誰であるかも考えず、反射的に顔を上げた。
「え! はッ…?」
「返事は元気よく『はい!』だよ」
「え、なに? どうしてこんなとこ――」
「知らなかった? 実は俺、ここの正社員なんだよね」
 縦に向かい合って並ぶデスクのいちばん端、腰の高さくらいのスチールロッカーの上に片肘をつき、瑞穂が朱音を見下ろしていた。デスクのそばで話すのは、考えてみればこれが初めてだ。
「仕事の話?」
「月浦さんてなんの仕事してるの? ここってなんて部署だっけ? あっちのほうに日高も見えるな。つまらなそうな顔してやがる。美人の無表情はおっかなくていけない。あとで忠告してやろう」
「神崎くん、ごめん、ここ職場だからね。わかってる?」
「どうしてそんなに声をひそめるわけ?」
「あなたとのおかしな話を誰かに聞かれたくないから。誰にも聞かれたくないから」
「あのね、どうやら神崎瑞穂と月浦朱音が付き合っているらしい。なんとも気の毒な話だよなあ――なんて噂が流れてるの、知ってた?」
「知らない。…え、気の毒な話って、どっちが?」
「俺のほうだろうね」
「ゼッタイ違うと思う」
「いま『ゼッタイ』てカタカナで言ったろう?」
「その噂話をしにきたの?」
「俺もそこまで暇じゃない」
「じゃあなに? ドリンクコーナーにでも行く?」
「それはいい考えだね。ポストイットに書いてホワイトボードに貼っておこう。折につけ目にしておくべき箴言だ。仕事の手を止め、ドリンクコーナーに行こう!」
 軽い眩暈を覚えながらパスワードロックをかけ、朱音はさっと瑞穂の後ろ側をすり抜けて歩き出した。幸い、朱音の部署には瑞穂を知る人間はいない。戻ってきてなにか言われることはないだろう。――いや、ドリンクコーナーに向かうには、日高(ひだか)英美里(えみり)の視界を横切ることになる。反対側を回って行くこともできなくはないが、それこそまったく関係のない部署の前を通る。それも瑞穂と一緒に。それならばすべてを把握している英美里の前を通ったほうがいい。
 真っすぐ顔は前に向けながらも、朱音は横目でちらりと英美里の姿を捉えた。朱音と瑞穂がオフィスの端を並んで歩いて行く光景を、英美里の眼が見逃すはずもない。一瞬、えッ…と見開かれた薄墨にブルーを流し込んだような瞳が見開かれ、すぐに含み笑いとともに視線を外した。あとできっと英美里がやってくる。瑞穂のせいで――いや、瑞穂のお陰で――友達になったクオーターの綺麗な女の子は、どうしたわけか、私のことを心配してくれている。……いや、どうしたもこうしたもない! 英美里が心配してくれるのは、相手が神崎瑞穂だからだ!
「ふう…。もお、変な汗掻いちゃったじゃない」
「先にシャワーを浴びてくるといいよ。俺はあとで構わない」
「……神崎くん。そろそろ私、本当にキレるよ」
「織田先生、て言ったよね?」
「うん、そう。…え、なに?」
「静花が教えてくれたんだ。――ああ、静花っていうのは俺の従妹ね。いま大学生。去年の春から東京に出てきてて、『池内』の超高級マンションに住んでる。俺らより頭がいい。でも我が一族の秀才どもには遠く及ばない。顔はすっごく可愛いのに、むちゃくちゃ面倒臭いやつだ」
「うん、静花さんのことはわかった。それで、なにを教えてくれたの?」
「常葉さんと夏馬さんが、『月浦』『大船』『診療』というキーワードを口にした」
「うそッ……」
「これは織田先生のことだと思う。思うもなにもない。常葉さんと夏馬さんという話になれば、こいつはもうタダじゃ済まされない」
 頭の中を、あっという間に白い薄靄が埋め尽くした。
「でも、でも私、どうすれば……」
「今日は遅くなっても大丈夫? 真帆と話をしよう、三人で」
 朱音はぼんやりと頷いた。頭の中がまだ混濁している。
「これは『池内』の問題じゃない。俺たちと真帆の問題だ。俺たちと君の問題だ。君たちと俺の問題だ。だから三人で片づける。常葉さんや夏馬さんの手を煩わせるようなことはしない。それはゼッタイにしたくない。――言ってる意味、わかるよね?」
 もう一度、今度はしっかりと頷いた。が、瑞穂がすぐに腰を上げようとしたものだから、さすがに慌てて引き留めた。
「すぐに戻れないよ……」
「え、ああ」
「もう少しここにいて」
「わかった」
 瑞穂がカップベンダーのコーヒーをふたつ用意した。それで二人とも、落ち着いて周りを見回すことができるようになった。瑞穂が静花から電話をもらったのは昨夜のことであり、だから瑞穂には一晩という時間が朱音よりも多くあった。しかし今、目の前で朱音と話しはじめた途端、そんなアドバンテージは瑞穂の中でも吹き飛んでしまっていた。だからこそ落ち着いて、二人は周りを見回さなければいけないのだ。ここは二人が勤める会社が入るオフィスビルの中のドリンクコーナーであり、二人は小さな丸テーブルにカップベンダーのコーヒーをふたつ並べ、高いスツールに腰掛けているのだということを。
 しかし、朱音にとっての「織田」があまりにも大き過ぎ、瑞穂にとっての「池内」があまりに大き過ぎたがために、二人には、何故そのふたつがつながったのかを疑う考えは浮かんでこなかった。「織田」と「池内」がつながるのは当然のことであるとまで考えたわけでもない。ただそれを疑うことをしなかった、できなかったのだ。もしそこで、どちらかが少しでもそんな疑念を口にしていれば、二人の考えも一気に先へ進むことができたかもしれない。しかし、ここでその可能性を議論することにさほどの意味はないだろう。二人には思いも寄らなかった。ただそれだけのことだ。
 ゆっくりとコーヒーを飲み干してから、朱音と瑞穂はそのままそこで、それぞれの部署へと別れた。瑞穂は階段を降りた。朱音はまだいくらかぼんやりした様子で部署に戻った。自分のデスクに座り、パスワードロックを解除したところで、ふたたび左上に人の気配を感じ取り、椅子の上で飛び上がりそうになった。
「朱音ちゃん?」
「ああ、英美里さんか」
「神崎が戻ってきたのかと思った?」
「うん、思った」
「どうしたの? 顔が真っ白だよ」
「英美里さん、私、まだ覚悟ができてない」
 目を伏せた朱音の様子に、ちょっと間を置いてから、英美里がにっこりと笑った。
「みんなそうだよ。なんでもそう。――ねえ、私たちってさ、テストで百点なんか取れなかった人じゃない? だけど七十点くらいはなんとか取ってきたわけよ。もちろんテストとは違うけど、避けて通れないことは同じ。だけど決して落第はしない。なんとか乗り越えられる。そうじゃない?」
「盗み聞きしてたの?」
「当てずっぽう。…ていうか、それらしいことを言ってみただけ」
「ねえ、今夜って暇…?」
 そっと朱音が視線を戻したその先で、英美里が上手にそれを捕まえた。
「今泉に断りの連絡を入れれば暇になるけど」
「あ、それはダメだよ」
「大丈夫。――私はどこに行けばいいの?」
「神崎くんの部屋。…あ、真帆さんの部屋かもしれない」
「なるほどね。いいよ、同席する」
「でも、今泉くん……」
「〈日高と今泉〉は、〈月浦と神崎〉ほど脆くも不安定でもありません」
 引き攣った笑みをつくりながら、勝手に決めちゃっていいのかな…と朱音は迷った。なんとなく、英美里の笑顔があまりにやさしく美しいものだから、ついおかしなことを口にしてしまったような気がする。けれども一方で、〈直感〉とかいう怪しげで信頼できるなにものかのほうは、間違いではないと囁いていた。
「神崎には先に帰っててもらおう。今日中にって言われた仕事があって、終わったら急いで向かう。…とかなんとか」
「ああ、うん……」
「誰かが神崎の暴走を抑え込まなくちゃいけない。――そんな感じなんでしょ?」
「そうなの。真帆さんのことになると、神崎くんは周りが見えなくなっちゃう」
「知ってる。自分で言うのもなんだけど、適任だと思うよ、私」
「そうだね。そんな気がしてきた」
「お願いしちゃいなさい」
「じゃあ、お願いされてください」
 ふふっと秘密を共有した者たちの笑みを交わし、英美里が朱音のデスクを立ち去った。こんなとき、どうしてだろう…なんて考えるのは愚かなことに違いない。日高英美里は友達なのだ。道端で酔いつぶれている脇を素通りしたりはしない。ちゃんと行き先を告げてタクシーに乗せてくれる。フィリップ・マーロウふうに言ってみれば。自分がそんな事態に陥るなんて考えられないけれど。

     §

 ――話は俺の部屋でするよ。食事の心配は要らない
 真帆さんの部屋で、と言われなくてよかったと、特に意味はないのだが、朱音は少しほッとした。進言された通り、英美里と一緒に瑞穂から少し遅れて退社して、電車の中でメッセージを受け取った。あの、見事になにもない瑞穂の部屋を見て、英美里はどんな顔をするだろう?
 ちょうど瑞穂が月例の帰郷を終えた後に訪ねてから、必ず会おうと約束した木曜と日曜を、朱音はその後、すべて瑞穂の部屋で過ごしている。木曜はわずかな時間しかいられない。職場から瑞穂のマンションを経由する道程は、帰宅するには明らかに遠回りになってしまう。他方、日曜は土曜の延長線上にある。母も義父もなにも言わない。母と義父は違う考えを抱いているはずなのだが、結果する行動は同じ姿に収斂する。
 朱音が母と距離を置き、それを知った母が朱音と距離を置き、それを知った義父が朱音と距離を置く。朱音が最初に母と距離を置いたのは義父のせいではない。義父はまったく関係がない。にもかかわらず、義父は朱音と距離を置かないわけにはいかなくなった。従って、義父はすでに現時点で存在しないも同然である。だから次は母の順番だ。家を出れば、母も存在しなくなる。そのはずだし、それでいい。論理的にも正しい。…と思う。
「まさか、これなの?」
 エントランスに入ろうとする朱音の隣りで、英美里が足を止めた。一見して、そこが普通の会社に就職した新入社員が借りられるようなマンションではないことくらい、誰にだってわかる。英美里は瑞穂の事情を――すなわち双子の姉の真帆の事情を――話には聞いていた。しかし、実物を目の当たりにするのは初めてだった。
「なるほどね。よく言ってる『池内』ていうのは、神崎の空想じゃないってことだ」
「空想だと思ってたの?」
「いまのは驚きの大きさを表したの。――あ、そうだ。『神崎』て呼ぶのはよくないよね? お姉さんも『神崎』なんだし。どうすればいい?」
「あ、私もだね。それ、考えてなかった……」
「瑞穂で行くしかないか」
「え、じゃあ私は?」
「キャラ的には、朱音ちゃんは〈瑞穂くん〉よね。お姉さんの手前、〈瑞穂くん〉て呼んどいたほうが印象もいいんじゃない?」
「わかった。……けど、ちょっと恥ずかしい」
「なに言ってるんだか。で、神崎――じゃなかった、瑞穂は何号室?」
 インターフォンの前に立とうとして、英美里は慌てて朱音に交代した。ここのカメラには映らないほうがいいと考えた。部屋の前で追い帰される事態もあり得ないではないけれど、瑞穂はそこまで来た英美里を追い帰すような男ではない。驚きはするだろうけれど、咄嗟にそのほうが良さそうだと頭を切り替えるはずだ。そうした側面での瑞穂への理解は、朱音より英美里のほうが勝っている。
 瑞穂はドアを開けて待っていた。
 英美里の姿を目にした瞬間、ちょっと眼を見開いたものの、すぐにニヤリと笑った。その一瞬の間に瑞穂の中でどんな計算が働いたのか――英美里はそれを探ろうとする試みをさっさと捨てて笑みを返し、朱音は早くも「ごめんなさい…」の姿勢に移っている。二人の個性がそもそも大きく異なるからこそ、こうしたとき、状況はそれぞれをより際立せる方向へと働く。
「日高は陪審員か?」
「瑞穂は裁きを受けたいの?」
「み、みずほ!?
「真帆さんの前で『神崎』て呼ぶわけにいかないでしょう?」
「なるほど。そりゃそうだ。で、月浦さんは俺をなんて呼んでくれるわけ?」
「み、みずほくん……」
「くぁーッ! 痺れるなあ! 日高、でかした! おまえを歓迎するぞ!」
「瑞穂、なに騒いでるの?」
 ふわっ…とドアの中から真帆が顔を覗かせた。
 なんだ、ふつうの女の子じゃないの――英美里は拍子抜けするようにそう思った。同じ印象を、やはり朱音も受け取っていた。しかしそれは真帆が二人に与えたものだとは、ちょっと言い難い。二人とも〈神崎真帆〉について、かなり大袈裟に歪められたイメージを与えられてきたからだ。言うまでもなく、〈神崎瑞穂〉の言動によって。
 真帆はサンダル履きでヒョイと瑞穂の隣りに出た。
「え~と、月浦さんと、日高さん。合ってる?」
 真帆が朱音と英美里に順番に顔を向けてそう言ってから、にっこりと笑った。
「はい、合ってます。急にお邪魔しちゃって、すみません」
「真帆は〈お姉さん〉じゃない。みんな同い年の同級生だ。ふつうにしゃべれ」
「ああ、そうだったね。ごめん」
「暑いから中に入って。いっぱい素麺茹でといた。おかずは冷凍ものだけど」
「日高、ビールもあるぞ。心配するな」
「私はどういうキャラ設定になってるわけ?」
 テーブルがふたつ、ひとつは真帆の部屋から持ってきたものが中央に並び、山盛りの素麺とコロッケやチキン(これが冷凍ものなのだろう)に、ブロッコリーと枝豆が茹でてあった。それだけで、部屋の印象ががらりと違って見える。いつもの通り、ほかには何もないのだが、食卓らしき光景が加わるだけで、いっぺんに生活感が添えられる。それも、テーブルふたつに四人前だから、いくらか華やいでいるようにさえ見えた。
 奥のテーブルに朱音と英美里、手前のキッチンに近いテーブルに瑞穂と真帆が座った。冷蔵庫から取り出した缶ビールのロング缶から、瑞穂が四つのグラスにビールを注いだ。こうしたとき、社会人はなんとなく、お疲れさまと言ってグラスを合わせてしまう。今日のこの場は仕事とはまったく関係のない集まりだったのだが。
「レンジは俺のを使ったぜ」
「レンジを誇ってどうする?」
「瑞穂が急に言うからこれしか準備できなかったの。ごめんなさい」
「これだけあれば充分よ」
「まあ、食いながら話そうぜ。…ん? 月浦さん、どうしたの? 調子悪い感じ?」
「うゝん、大丈夫。ちょっと緊張してるだけ」
「さっき〈瑞穂くん〉とか言っちゃったからねえ」
「英美里さん、冷やかさないで……」
 お互い、どこの出身で、大学ではなにを専攻していて、いまはどんな仕事をやっているのか、そんな当たり障りのない話をしながら、食事が進んだ。
 瑞穂と真帆のやり取りを、初めてこうして間近に見ると、瑞穂はいつも躍起になって否定するが、二人は明らかに姉と弟だった。まずそのことに、朱音も英美里も安心した。二卵性双生児と関係することなどこれまでなかったので警戒していたのだが、こうした日常的な場面では、想像もつかない特殊な関係性を意識する必要はないのだとわかった。
 真帆は物怖じする様子もなく、初対面の二人と言葉を交わしている。表情や仕草にも、取り立てて気になるところはない。しかし、押しかけてきたのは要らぬお節介だったかもしれないとは、英美里は考えなかった。朱音の緊張が完全には解けていないことがわかる。もしかすると、この即席の食卓でいちばん脆い箇所は、

かもしれない。
 食事を終えると真帆がコーヒーを淹れてくれた。女三人がブラックで口にするそばで、瑞穂が信じられないほどの砂糖を使い、真帆に窘められた。テーブルの上がコーヒーカップだけになってみると、さすがにこの部屋の異質さに英美里も気がついた。改めてぐるりと部屋を見回してから、まず朱音の顔を見て、それから瑞穂の顔を見た。
「私たちが来る前に散らかってたものを全部バスタブの中にでも放り込んだの?」
「バスタブに放り込むような代物なんてない。少しばかり落ちていたゴミを拾ったくらいさ」
「どこかの安いシティホテルだってもう少し気が利いてるわよ」
「じゃあ日高、ここになにを足せば客をとれるようになる?」
 そう言われて、すぐに言葉を返せなかった。英美里は自分の部屋(実家である)を思い浮かべ、今泉の部屋(アパートである)を思い浮かべ、そこからここに持ち込むべきもののリストを作成してみようとしたが、無ければ困るようななにかを見つけることはできなかった。
「英美里さん、これは『池内』の特徴的な側面のひとつなの。さっき瑞穂がコーヒーに砂糖をいっぱい入れたことも」
「つまり真帆さんの部屋も同じようだってこと?」
「うゝん、私は違う。テレビと本棚があるし、時計やカレンダーがかかってるし、ぬいぐるみなんかもいたりする。でも瑞穂に言わせれば、『池内』のある特定の人たちに言わせれば、そんなものはすべて部屋に置いておく必要はなくて、すべて別のなにかで代替できるし、あるいは必要なときに手配すればいいだけだって話になるの」
「いま『特定の人たち』て言ったね?」
「そう。たとえば安曇彩日香、安曇大和、池内夏馬――そういう人たち」
「例の〈常葉叔母さん〉ていう人も?」
「常葉さんは必要なときに必要なものを手配してくれる側の人よ」
「この立派なマンションみたいに」
「そういうこと」
 真帆の説明に、瑞穂が満足げに頷いた。
「でもな、日高。いま言った連中と俺のあいだには決定的な違いがある。あいつらは大秀才で、俺はいわゆる99%だ。地方の国立大学を出て普通の会社に就職してまっとうな人生を送る。間違っても『池内』の世話にはならない。このマンションは俺がたまたま『池内』の人間で、真帆がたまたま〈聴覚過敏〉なんてものを抱えていて、そんな偶然の組み合わせの結果に過ぎない。こんなことはたぶん二度とやってこない。絶対とは言わないぜ。たとえば俺が鬱病に罹って働けなくなれば、そのときはさすがに『池内』のご厄介になるかもしれない」
「あんたが鬱病に罹るなんて、私がファーストレディーになる可能性より低いと思うけど」
「自分を安く見積もって引き合いに出すのは感心しないね」
「あ、うん。そうね。ありがとう。――で、瑞穂、そろそろ本題に入ってくれない? あなたが、あなたたち二人が、いまなにを問題にしているのか、私も朱音ちゃんもよくわかっていないのよ」
「オーケー、説明しよう。真帆、よろしく」
 瑞穂から丸っと放り投げられても、真帆は当たり前のように受け取った。いつものことなのだろうと、英美里と朱音はちらっと顔を見合わせ、小さく笑みを交わした。食事中のおしゃべりで、朱音の表情も柔らかくなっていた。勝手に想像していたイメージと違い、真帆は頭の回転が速く、言葉数も多く、表現がはっきりしている。〈聴覚過敏〉という器質的障害が、彼女になんらか決定的に悪い影響を及ぼしているようには見えなかった。
「最初に、あの、朱音さん」
「はい?」
「瑞穂から少し話を聞いてるの、ごめんなさい。でも、それを教えてもらわないと、『池内』がなにをしようとしているのか、私にはわからなかったから」
「それなら私も真帆さんのこと聞いてるから、お互い様だと思う」
「うん、ありがとう。――え~と、朱音さんの織田先生に、常葉さんか夏馬さんが接触しようとしているのは、たぶん間違いないと思うの。あの二人は私と朱音さんを天秤にかけて――あ、これはよくない喩えね――あの人たちは私たちを天秤量りの両側に乗せて、どんなものを足したり引いたりすれば水平になるか、そんなことを探ろうとしているんだと思う。…あ、わかる?」
 朱音も英美里も首を横に振った。
「そうだよね。つまり、なんて言うのかな――はっきり言っちゃうとね、私と朱音さんが喧嘩にならないように、瑞穂を引っ張り合うようなことにならないために、どうすればいいのか?てこと」
「ああ、俺がいつも女の子たちのあいだに巻き起こしてしまう、例の大騒動のことだな」
「瑞穂、真面目に聞いて」
「はい、すみません……」
「このマンションの契約期間というか、私たちと常葉さんとの契約期間のことだけど、それが四年間になってるのは、朱音さん、聞いてる?」
「うん、聞いてる」
「じゃあ、そのことの意味だけど、私が社会生活にしっかり対応できるようになるまで瑞穂をすぐ隣りに置いておきたいって『池内』が考えてるって話は?」
「それは、なんとなく、そうじゃないかな…て、思ってた」
「うん、それで正解なんだけど、でもね、私たちが『池内』にお願いしたわけじゃないの。――あ、私たちっていうのは、厳密に私と瑞穂の二人って意味ね。私たちの母親は『池内』の長女だし、私たちは『池内』の本家で育ったから、『神崎』と『池内』のあいだでそんな話し合いがあったかもしれないんだけど、そこは知らないし、否定できない。でもこれは、私と瑞穂がお願いしたことじゃない。…ああ、もっとはっきり言わないといけないな。――私がときどき瑞穂に助けてもらわないといけないのは事実だし、瑞穂も私を放っておけないと考えてくれてるわけだけど、ただ、なにも同じマンションのお隣りさんである必要まではないのよ。実際、毎日行き来したりなんかしてないし、一週間くらいまったく顔も見ないことだってある。…ああ、これもダメ。やり直し。――私と瑞穂はずっとお互いのすべてを共有してきた。変な話するけどね、あそこに毛が生えてきたとか、私の生理のことや瑞穂の夢精のことなんかもすべて。ごめんね、朱音さん。でも本当なの。でもそれはもう終わったの。終わってるの。終わらせたの。東京に出てきて、私が瑞穂に嘘をついてきたことがバレちゃったから。瑞穂は実はずっと知らないふりをしてきてくれたんだけど、それも持ち堪えられなくなっちゃったから。…うん、これが真実。――それはね、朱音さんが現れたからなの。朱音さんはこれまでの瑞穂の女の子たちとは違うから。だからもうそんなバカげたことは続けられないって言うか、続ける意味がなくなっちゃった。だって瑞穂はもう私がいなくてもちゃんとやっていけるから。瑞穂にはもう私を助けるなんていう大義は必要ないのよ」
 部屋の空気が突然そこでぴたっと動きを止めた。
 真帆が口をつぐんだ途端、耳鳴りがするほどの静けさがやってきた。拡げては畳み、また拡げては畳んだ真帆の言葉で満たされていた時空から、一瞬ですべての言葉が回収されたかのようだった。真帆の言葉はそれが発せられた時々には理解されずにいた。放り出されたまま中空に貼りついていた。真帆が言葉を二転三転させたがために、理解が困難になったのではない。真帆はただ折り紙を折るときのように、折り目をつけるために畳んでは拡げ、折り目に沿って畳み直すというような作業を繰り返したのだ。従って、すべてを畳み終えたところで、理解は初めて唐突にやってくる。
 思いがけないことに、最初にこの空気を動かしたのは朱音だった。
「それなら真帆さん、たとえば本当に困ったときにはすぐに駆けつけられるとか、そんなところに神崎くんがいれば問題ないの?」
「そうよ。だってそうじゃない? 私はずっと自分自身と闘ってきたんだから。瑞穂はそんな私にずっと寄りかかってきたんだから。どうしたって私のほうが強くなるでしょう? もちろん私は世間知らずな女の子で、瑞穂は真っ直ぐな男の子だから、助けて…て言うのは私のほうで、任せろ!て言うのは瑞穂のほうで、お願い…て言うのは私のほうで、わかった!て言うのは瑞穂のほうで、それはもうこれからもずっと変わらないはずだけど。――だって私たちは〈きょうだい〉だからね」
「だけど、それで神崎くんは大丈夫なの?」
「そんなのわからない。だって初めてのことなんだから。朱音さんに愛想尽かされたら、また戻ってきちゃうかもね。けっこう瑞穂ってだらしないとこあるから」
 どちらが本当なのだろう…と英美里は胸のうちで首を傾げた。
 朱音が動かした空気に反応して、英美里も不思議な静寂の底から目を覚まし、真帆と朱音のやり取りに神経を傾けていた。真っ直ぐに受け止めるならば、真帆が精いっぱい強がって見せているという解釈だろう。朱音は捩じれたところのない女の子だから――母親との関係は置いておくとして――こういう話になってしまうと、素直に疑問をぶつけるよりほかないのだ。瑞穂は大丈夫なのか? あなたはそれで平気なのか?と。しかし、そんな問い掛けには、たぶんほとんど意味がない。瑞穂は真帆にこんなことを言わせたかったのか? こんなつまらないことを。
 瑞穂も自分が大失態を演じてしまったらしいことに、さすがに気がついていた。
「真帆、今日はこの話は終わりにしよう。もう少し『池内』の動きを探ってみる必要がありそうな気がする。あれこれ考えるにはまだちょっと早い」
「そうね。そうかもね。でもあの人たちのやることなんて、いつも一緒よ。そうじゃない?」
「わからない。そうかもしれないし、今回はそうじゃないかもしれない。とにかく今日は終わりだ。――俺は月浦さんを駅まで送りに行くよ。ついでに日高も」
「うん、そうして。片づけはやっとくから」
「ああ、よろしく」
 それからいくつか言葉を交わし、瑞穂の部屋に真帆を置いたまま、明らかに悄然としている朱音と、見るからに憮然としている瑞穂と、二人を見ながら考え込む英美里とが、エレベーターを降り、エントランスを出て、夜の道を駅に向かって歩き出した。
「さっきの真帆の話は全部デタラメだ……」
「デタラメ?」
「ああ、いや、デタラメって言うのはね、月浦さん、いい加減ていう意味だよ。嘘ってことじゃない。嘘ではない。だけどデタラメだ。なんの関係もない話だ。少なくとも月浦さんには関係がない。月浦さんと俺には関係がない。まったく。ぜんぜん」
 瑞穂の話しぶりに、英美里は呆れてしまった。なんて下手くそなのだろう。それでは不安を煽るばかりではないか。ここから大船までの長い長い電車の旅が待っているというのに、空はもうこんなに真っ暗だというのに、今日はまだ水曜日だというのに。
「朱音ちゃんてさ、寝るときもブラって外さないタイプ?」
「え? なに?」
「寝るときはブラ外す?て訊いたの」
「うん、外して寝るけど…。え、でも、なんで?」
「瑞穂さ――ああ、もうこれから神崎のこと『瑞穂』で通すことにするけど、今夜は朱音ちゃん、うちに泊めるからね」
「なんで日高んち?」
「あんたがバカだから。それと私がお人好しだから」
「いや、ごめん。意味がわからん」
「あんたはわからなくていい。朱音ちゃんがわかってるから問題ない。――ね? わかってるよね?」
「あ、うん。ありがとう……」
「明日、俺にも説明してくれるか?」
「あんたが『一晩中真剣に考えてみました』て顔してたら説明してあげる」
「そういう顔の練習しとけばいい?」
「考える前に諦めるな!」
 朱音と英美里は上り電車に乗った。下北沢で井の頭線に乗り換える。瑞穂は改札口の前で二人を見送った。わかってないのはきっと彼女のほうだ…と思った。俺はわかっている。日高には感謝しかない。俺が大船まで送って行けないから。俺が真帆のところに戻らなければいけないから。彼女にはそんなこと、わかるはずもないし、わからなくてもいい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み