02:彩愛 「さっきの女の子――クレマチスの

文字数 3,130文字

「さっきの女の子――クレマチスのワンピースで、すらっとした感じの」
 昼食のテーブルで、ふと箸を止めた彩愛(あやめ)の眼差しに、織田も応じて手を止めた。
「朱音ちゃんかな? 彼女、どうかした?」
「あなたとお話しがしたくて通ってるのよね?」
「どうしてそう思う?」
「だってあのお薬、どこでも処方してもらえるし――」
「最初は違ったんだよ。不安定でね。心配な感じもあった。高校生が一人でやってきたんだぜ。母親には報せないで欲しい、と条件をつけて」
「うゝん、そうじゃないの。あの子のこと、あなた、いまでも心配してるわよね? 私も今日ちょっと感じたのよ。私のはただの勘だけど」
「ただの勘を侮ってはいけない。専門医の見立てより正しいケースなんて山ほどある。――話してくれないか? 君はなにを感じた? どんなことを感じた?」
 いけない……仕事のモードにスイッチを戻してしまった?
 彩愛はこの失敗を何度か繰り返している。いつも、そう、なにかぼんやりしているときだ。それを口にしたらどうなるか?なんて考えの至らない、ぼんやりしているときである。それが、彩愛には実のところよくあるのだ。
 子供の頃から大人にも友達にも指摘されてきた。大人になってからは(正直なところ)悪い思い出しかない。職場でもそうだったし、友人にも、そして恋人からさえも、彩愛の

は眉を顰められ、不興を買ってきた。
 織田は気づいていないのか、たまたま気づく機会が訪れなかったのか、気づいているけれど気にしていないのか――彩愛には、捉えどころのない夫の内面に、疑うというのではなく、落ち着かない気持ちになることがある。
「わからないわ。だって、ただの勘なんだもの……」
「言葉にするのは難しいか。――そうだね。君の言う通り、朱音ちゃんは心配だ。高校生のときショッキングな出来事に遭ったわけだけど、あれはひとつの屈曲点で、本質的なところはきっとほかにある。眼を離したくないんだよ。向こうから嫌われない限りは」
「来月の予約、少し長めにしたわよね?」
「ああ、彼氏のことを話したいんだってさ」
「ふ~ん、そうなの。……ねえ、夏休みの話に変えてもいい?」
「ああ、そうだった。まだ飛行機とホテルしか決めてなかったね」
 四十歳を過ぎるまで独り身であったことにはなにか理由があるはずだ――と、ある友人からは慎重に推し量りつつ見定めるよう忠告された。お節介なその友人は、興信所を頼むとかなんとか、そんなことまで口にして。自分は二十代の半ばにさっさと結婚したくせに、そんな水を差すように干渉してくる振る舞いが煩わしく、会えば織田の話をしないわけにもいかないために、彼女とはいつの間にか疎遠になってしまった。
 彩愛の結婚と前後して、その友人の夫の会社(一部上場の有名企業だ)が海外投資に失敗し、上場以来初めての巨額欠損を計上して、大規模なリストラ計画を発表したことを知った。考えたくはないけれど、すでに社内の噂でそれを知っていた彼女は、心療内科の開業医と付き合いはじめた自分のことを、心良く思っていなかったのかもしれない。彼女は私のことをいつまでも下に見ていたかったのだ。――とは、やはり考え過ぎだろうか?
 半年余り付き合って、一緒に暮らすようになってからも半年ほどが経過して、彩愛にはひとつだけわかったことがある。織田は生来的に女性が苦手なのだ。医師として相対する際にはまったくそんな気配は見られないけれど、彩愛の友人や、親戚や、プライベートな場で女性たちと同席すると、急に極端に言葉数が減ってしまう。見ていて気の毒に思えるくらいに、でも、思わずクスッと失笑してしまうくらいに。
 織田は転属先の新しい課長の友人だった。その課長は彩愛の

傾向にすぐに気がついて、しかし、困った奴がきたと周囲に愚痴をこぼすのではなく、配属後の面談で彩愛に直接それを告げた。
 ――自分でも気づいてるのか?
 ――はい、わかってはいるんですけれど……
 ――Long Slow Distanceて聞いたことある? 完走が目標の素人ランナーがやる練習法でね、ゆっくり走るのと歩くのとを適度に繰り返す。意識的に歩く。疲れてから歩くのではなく、しばらく走ったら必ず歩いて休息する。止まって休むのではなく、歩いて休息するんだ。わかるか?
 もちろん彩愛はLong Slow Distanceという言葉をそのとき初めて耳にした。マラソンを完走したいなんて、人生の中で一瞬たりとも考えたことがない。運動を苦手にはしていなかったが、得意でもないし、なにより好きではなかった。しかし、この課長の話には少し引っ掛かるところを感じたのだ。疲れてしまう前に、立ち止まるのではなく、歩きながら休む。
 彩愛は仕事を分類した。自分にとって(比喩として)走らなければならない仕事と、歩きながらできる仕事に。それを、一日の中で順番に繰り返すようにしてみた。不思議なことに、ぼんやりは消えてなくなるわけではないのだが、走らなければならない時間には起きなくなった。ぼんやりは歩いているときにやってきて、歩きながらでもできる仕事には、大きく影響しなかった。
 ぼんやりをなくすことはできない。それはきっと持って生まれた資質であり、遺伝子に書き込まれていて書き換えのできない器質なのだろう。しかし、問題は「いつやってくるか?」だったのであり、それをほぼコントロールすることができるようになった。就職して十数年、初めて恥ずかしい失敗をすることなく、職場での時間が流れ始めたきっかけだった。
 ――完走するのはもう当たり前で、目指すところが記録に移ってきたら、違う方法に変える必要がある。でも君はまだしばらくは完走することだけを目標にしよう。上から記録を求められるようになったら、そのときにまた考えればいい。
 彩愛は、もしこの人と入社してすぐに出会っていたら、仕事も恋もすべてがうまく運んだかもしれない…と考えずにはいられなかった。残念ながら自分はもう三十代半ばであり、課長には奥さんも二人のお子さんもいた。あるいはもしかすると、彩愛のそんな想いを機敏に察したのかもしれない。一昨年の秋にバーベキューに誘われた。課長の家族、別の友人の家族、そして織田と彩愛というメンバーで、初めて顔を合わせるのは彩愛ひとりだった。
 ――彼女は二年後のフルマラソン完走を目指してるんだよ
 ――え? それは仕事のやり方の話でしたよね?
 ――実際に走ってみればいい。要領は一緒だから。なあ、織田?
 声をかけられた〈織田(おだ)高志(たかし)〉という男は、急にドギマギした様子を見せ、「一緒に練習しますか?」という一言をやっとのことで口にした。二家族の大人たちがニヤニヤ笑っている様子に、これが課長の策略であったことを、彩愛もそこで知ったのだ。
 ところが、連絡先の交換をしたにもかかわらず、その後、織田からはまったく音信がない。最初は忙しくしているのだろうと楽観し、次には私になど興味がないのだろうと落胆して、最後はそれでも一度くらいは連絡するのが礼儀ではないか!と腹が立ってきた。
 思い切って彩愛からメッセージを送ってみると、思いのほか早くに返信があり、しかし、あれは本当だったんですか?という、なんとも拍子抜けのする文面だった。だが、そのことがむしろ、彩愛を積極的にさせたとも言える。
 私は本気です! 二年後にフルマラソンを完走するんです!――などと、バーベキューの場で課長が勝手にそんなことを言うまで考えもしなかった目標を、だから織田さんと一緒に練習させてください!との言葉を添えて、宣言してしまった。
 その「二年後」は、この秋にやってくる。もう間もなくだ。
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