08:彩愛 「どうしたの…?」

文字数 2,543文字

「どうしたの…?」
 リビングのソファーに腰掛けてノートパソコンを開く――それは夫がなにか胸の内にすっきりしない困り事を抱えているサインだった。困り事と言ってもほとんどは深刻なものではない。彩愛(あやめ)が尋ねれば、実はね…とあっさりと話してくれる。だからこのときもは彩愛は隣りに腰を下ろし、遠慮なくディスプレイを覗き込んだ。が、なにも映っていない。電源が入っていないのではなく、膝の上に置いたまま放置していたためにスリープしている。織田はハッとしたようにパッドに指を当て、スリープ状態を解除した。ブラウザが現れて、しかしそれはchromeのトップページ――つまりGoogleの検索窓の状態のままだった。
「なにをキーワードにすればいいのか見当がつかなくてさ」
「探し物はなに?」
「池内夏馬と話がしたいんだけど。…彩愛、憶えてる?」
 織田の手のひらがそっと彩愛の腹部を撫でた。そこにいる小さな命を愛でるためだ。
「大男」
「そう、大男だ。――あ、彼が連絡先にデタラメを書いたの、気づいてた?」
「デタラメ? そんなの番号を見ただけじゃわからないでしょう?」
「わかるんだよ。わかるような番号を残したんだ。デタラメというよりイタズラだな」
「どんな番号?」
「1646-0930」
 彩愛は首を傾げた。どこがイタズラなのか、わからない。
「イロジロオクサマ、て読むんだよ」
「はい?」
「綺麗な奥さんですねって、俺にメッセージを残したわけ」
「それ、ほんと?」
「仮に実在する番号だとしても、池内夏馬にはつながらないよ」
 揶揄われているのではないかと警戒している彩愛の様子がおかしくて、いや可愛らしくて、織田は思わずといった感じに笑みを浮かべた。
「デタラメで構わないんだけどね、彼は僕の患者でもその親族でもないわけだし。でもそのせいで、こちらから連絡をとることができない。綺麗な奥さんをもらうと、こういう困ったことも起きるわけだ」
「バカにして……」
 彩愛は完全に揶揄われたものと考えて、少し頬を染め、唇を尖らせた。
「でもほんと困ったなあ。このままだと朱音ちゃん、家を出られないぞ」
 電話番号のことはともかくとして――それは間違いなく自分を揶揄うための織田の創作だと彩愛は決めつけた――どうやら本当に困っているのは間違いないらしい。問題となっている「大男」の訪問を思い出しながら、彩愛はそのあとに交わした会話の断片を拾い上げてみた。
「誰かのお葬式でお話ししたとか、そんなこと言ってなかった?」
「うん、彼の叔母さんとね。彼女の居所はわかってるよ、妹尾のライバル会社の研究所だ。しかし彼女が俺なんかに会ってくれるはずがない。電話も取り次いでもらえるかどうか。掛け直すと言われて、それっきりになりそうな気がする」
「それならお手紙を書いたほうがいいわね。電話のことづけなんかより、ずっと記憶に残るわ」
「物理的にもデスクの上に置かれることになるわけか」
「ドサッと書類を重ねられちゃったら、思い出してもらえるのは三年後かもしれないけどね」
「よし! 書いてみよう」
「え、ほんとに?」
「おいおい、君のアイデアだぜ?」
 織田が文書作成ソフトを立ち上げると、彩愛もすぐ隣りに体を寄せてきた。悪阻はちょっとツラいようだが、胎児の成長は順調である。出生前検査は受けないと決めた。なんらかの主義・主張があってのことではない。どのような結果が出ても受け入れようという結論に至ったので、検査そのものが意味を失った。二人はつい先日、そういう話し合いをしていた。
「拝啓――とか要るかね?」
 織田はさっそく〈池内常葉宛の手紙〉の書き出しを彩愛に問いかけた。
「時候の挨拶とか? 要らないでしょ、それは」
「このようなお手紙を差し上げる無礼をお許しください――とか」
「へりくだり過ぎじゃない? あなたは月浦さんのことを心配して、あくまでも彼女の主治医として、あの大男に会いたいって話をするのよ。同じ医者なら、立場は対等なはず」
「その通りだ! 彩愛、君はやっぱり綺麗なだけじゃない」
「またバカにした……」
 しかし、織田が今度は揶揄っているのではないことくらい、彩愛にもわかる。そうしたことがわかるようになった。それらは、少しずつわかって行くものなのだと、このところ、彩愛はそう考える。わかってから、ではない。日々、わかって行くものなのだ。そして、私たちは日々変わって行くものだから、わかることにも終わりがない。
 それから三十分ばかり、ああでもないこうでもないと話しながら、二人で手紙を書き上げた。連絡先は自宅でも携帯でもなく、病院の番号にした。診療時間内でしか受け取れないことになるが、これはあくまでも〈月浦朱音〉という症例に関わる問題であり、プライベートな私信ではないのだと明確にすべきだと考えた。だから封筒も、明日の朝、病院の名が入ったものを使う。手紙が確実に池内常葉のもとに届き、彼女を動かすためだ。
 その夜、なぜ今になって〈池内夏馬〉が必要になったのか、彩愛は尋ねなかった。関心がないわけではない。むしろ月浦朱音は気になる患者のひとりだ。決して特別なところはないけれど、長く織田のもとに通っている。月浦朱音を知ることは、織田という男を知ることにもつながる。大袈裟に言えば、織田の世界観・人生観などが、月浦朱音の上に投影されている。彼女をどう扱って行くのか、彩愛は織田のすることに目を凝らし、耳を澄ませてきた。
「ねえ、お散歩に出ない?」
「いいよ。気分がいい感じ?」
「うん、ちょっとね」
 気をつけなければすぐにお肉がついてしまう。そもそもがそうした体質で、だから本当に気をつけなければいけなかった。そろそろ悪阻が落ち着いて、一気に体重が増えるタイミングがやってくる。寒い季節に向かって行く時期でよかったと、彩愛はそんなことを思った。
「もう増えはじめたの?」
「まだだけど、どうしたって増えちゃうから、笑ったりしないでよ」
「笑っちゃうくらい増えるのか?」
「だから、笑ったりしないで、て言ってるの」
「でも俺、ぽっちゃり系のほうが好きだよ」
「だから、そういう問題じゃないって言ってるの!」
 日中どんなに晴れても夜には過ごしやすくなる。表に出ると、いつしかそんな季節に移っていた。
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