18:彩愛 秋はそれと気づかぬうちに深まる。

文字数 4,473文字

 秋はそれと気づかぬうちに深まる。夏はたっぷりと助走を利かせ、暑くなるぞ暑くなるぞと脅かしながらやってくるのに対し、秋はいつの間にかひっそりと背後に佇んでいて、ある日、すとんと夏が転げ落ちたときにはもう、辺りをすっかり秋の気配に埋め尽くす。
 貝になってしまった…と織田が評した通り、朱音(あかね)はこのところ二回ほどの診察で、瑞穂に関する話題を口にしなかった。朱音から口にしない限り、織田は日常生活に関する事柄――睡眠や食事や仕事など――から逸脱する問い掛けはしない。確かに朱音からは、母親の話も恋人の話も聞いた。そもそも朱音が訪ねてきたきっかけは母親のいくらか捩じれた不貞行為を目にしたことであり、神崎瑞穂という名の新しい恋人は、朱音を母親の(くびき)から解放するために現れた白馬の棋士と見做されている。それでも織田は、朱音の日常が乱れはじめ、歯車が狂いはじめない限り、睡眠や食事や仕事などの話題を踏み越えることはしない。
 家族のこと、恋愛のこと、あるいは広く人間関係に悩むのは、生きていれば当たり前である。しかしそのことで、睡眠障害や摂食障害に陥ったり、職場や学校に行くのが辛くなったり、そんな乱調を招いていない限り、それは人として生きている証しであるとしか言いようのない話だ。そして朱音は眠れているし食べているし仕事は楽しいと話すのだから、織田がそれ以上の物語を求めないのは当然のことだった。朱音と相対するのは診療行為であって、身の上相談に応じているわけではない。
「あの、先生?」
 この日、朱音は膝下丈のやや生地の厚いフレアスカートの下で、腰かけていた両足をふと真っ直ぐにそろえた。おや?と思った織田はなるべく柔らかく、穏やかに聴く姿勢をつくった。
「この先で道がふたつに分かれているとします。そうですね――Y字型で、左右の道の先がぼんやりと見えているような、そんな分かれ道です。イメージできました?」
「うん、大丈夫」
 朱音は小さく微笑んでから続けた。
「いま言ったように、道の先はぼんやりとしか見えないから、行き先になにが待っているのかわかりません。でも私はそのどちらかを選ばなければいけないの。どうしても、どちらか一方を。――そんなとき、どっちが正しい道なのか、どっちに行けば正しい場所にたどり着けるのか、それを判断する方法ってありますか?」
「君はいま高速道路のジャンクションに立っているわけじゃないよね?」
「違います」
「新しい渋谷駅の地下で迷っているのでもない」
「あそこ、迷いますけどね」
「そうなると、朱音ちゃんがいま持っているわずかな情報や、これまでの数少ない経験から、それに、そう、君の心に問い掛けて、えいやっ!て決めるほかないだろうな。そうしてどちらかに歩き出したら、その先で正しい場所にたどり着けるかどうかは、道が分かれていたところでの判断とはもう関係がない。左右のどちらが正しいかではなく、右にも正しい場所と間違った場所があるし、左にも正しい場所と間違った場所がある。――そういうものだと、僕は思うよ」
「選んだほうを正しいものと見做す、て意味で合ってます?」
「ちょっと違うかな」
「ちょっとって、どれくらい?」
「正しいものと見做すのではなく、正しいものを創り上げるんだ。道の先がぼんやりとしか見えないのはね、たぶん、最初から行き先なんて用意されていないからなんだよ」
「ああ……」
 それで得心したのか、朱音は大きく口を開けて「ああ……」と一声出してから、また小さく微笑んだ。この数ケ月のあいだに、この子は見違えるように魅力的になったと、織田はそんなことを思った。いつも少し不安げに、そっと首を傾げているような、あの十六歳だった少女から。
「なにか難しいことを決めなくちゃいけないのかな?」
「そうですね。難しいこと……。う~ん、どうなんだろう。難しいことなのかな。もしかすると、けっこう単純な話かもしれません」
「いや、右か左かというのは、いちばん難しい選択だけどね」
「ふたつしかないのに?」
「ふたつしかないからさ。数が多ければ多いほど、迷いはぐんと減る。どれも同じに見えてくる」
「なるほど。ふたつしかないと違いが際立つんですね」
「実際のところ大して違わなくてもね」
「だから細かいところまで見て考えるなんてことをしてはいけないと、そういうお話しですか?」
「あれ? 今そう納得したんじゃないの?」
「だったら最初からそう言ってくれないと困ります。私そんなに頭のいいほうじゃないんだから」
「ごめん。つまり、そういう話だよ。ふたつしかないのであれば、たとえば少しでも陽射しの明るいほうに向かうとか、ちょっといい匂いがしているほうに向かうとかね」
「それだと、お腹が空いてるときといっぱいのときで、違うほうに行っちゃいます」
「だから、それでいいんだよ」
「ああ……」
 今度こそ得心したのか、朱音は先ほどよりさらに大きく口を開けて「ああ……」と一声出してから、明るくにっこりと微笑んだ。彩愛(あやめ)がこの子に嫉妬するようになったのは、きっとつい最近のことに違いないと、織田はまたそんなことを思った。自分よりも先に彩愛は気づいていたのだ。
「先生は、私がもうここに来ないかもしれないと言ったら、寂しくなっちゃう?」
「そうだね。ちょっと寂しいかな」
「だけど綺麗な奥さまもいることだし、可愛い女の子も産まれるし、だから全然問題ない」
「可愛い女の子?」
「その子が私の生まれ変わりだと思って、たくさん抱っこしてチューしてあげてください」
「そうか。いよいよ決めるんだね」
「まだまだいっぱいモヤモヤが残ってて、すっきりしたとはとても言えないんだけど、ただなんとなく、そっちのほうが少し明るいような気がするし、いい匂いもしてるから……」
 ――十六歳の夏に、朱音にいわゆる〈屈曲点〉があった。朱音の人生における意味を切断する出来事である。それ以来、朱音が歩んできた時間は、「家を出ること」=「母を自分の人生から切り離すこと」のみを目標に進み始める。織田が朱音に出会ったのはそのときだった。従って、織田が成すべきことは初めから明解だった。それを、一世一代の大勝負にさせないこと。一撃で仕留めなければならない、仕損じれば敗北するなどと思いつめさせないこと。
 織田が期待した通り、朱音は冷静にお金の計算をし、自分が暮らす部屋や街のイメージを、実現可能な将来の姿として、織田に話してきてくれた。一人暮らしをするためには、どれほどのお金がなぜ必要なのかという織田の話に、朱音は真剣に耳を傾け、信用してきてくれた。若い女性が一人で暮らすためには、どのような街のどのような建物であるべきかという話にも。だから織田は、出発の号砲を鳴らすまでが自分の仕事になるだろうと、漠然とそう思ってきた。
 ところが、思いがけない形で神崎瑞穂という青年が登場し、織田の思い描いていたシナリオは書き換えを余儀なくされようとしている。いや、織田はすでにその仕事を手放してしまった。池内常葉が現れたからであり、そして我々は織田高志よりも優れたシナリオを持っていると、目の前に突きつけられたからだ。月浦朱音など大した問題ではないと――いや、大きな問題ではあるけれど、我々はそうしたことに実際的に通じているから心配は要らないと、池内常葉はそう告げたのだ。
「それなら今度は診察ではなくて面会として予約してくれると嬉しいね」
「ああ、患者として舞い戻ってこられちゃ困る、と」
「いい

の言葉だろう?」
「どこがですか? 私をお嫁さんにしてくれるって約束してくれた人から、まさかそんな言葉を贈られるなんて……」
「う~ん、月浦さん、あなたには改めて鑑別診断が必要のようですね。さっそくいまのその妄想ですが、いつ頃から始まっていたのでしょう? 差し支えのない範囲で結構ですので――」
「うわあ、

になってるし」
「そりゃあ、

だからねえ」
 こんこんッとドアがノックされた。予定時間を過ぎている。朱音は腰を上げた。織田は背凭れに体を預けた。いくらかゆっくりと、いささかおおげさに、朱音が頭を下げる。織田は「お大事に」ではなく「元気でね」と声をかけた。「はい」と応えて顔を上げた朱音は、
「さようなら」
 と胸の前で小さく手を振りながら、診察室を出た。すぐ目の前の長椅子の端に、ときどき顔を合わせたことのある、同い年くらいの男が待っていた。朱音の顔を見て、すぐに自分が呼ばれると思ったのだろう、緊張した面持ちで座り直した。が、ひとつ間を開けて座った朱音のほうへ、男は視線を回した。どうしたのだろう…と朱音も思わず顔を向けた。男の瞳が泳ぎ、口元がいくどか開きかけ、いまにも声をかけられそうな気配に、朱音はなんとなく男を待った。が、受付から名前を呼ばれ、それに答えて立ち上がり、椅子を離れてふと振り返った先で、男はすっかり下を向いてしまっていた。
 朱音は受付に向き直った。織田の妻・彩愛が座っている。診察代を支払い、領収書を受け取ったところで、パソコンに向かう彩愛がふと小さく首を傾げた。
「お薬は、ないんですね」
「はい、ありません」
「次の予約はどうされますか?」
「それも、ありません」
「ああ……」
 と、一呼吸置いてから彩愛は座っていた腰を上げ、次回予定を無記入のまま診察券を差し出した。
「もう、来ないのね」
「来ちゃ困るよ、て言われました」
「え?」
「もっと上手な言い方を考えるように、旦那様におっしゃってください」
「あ、ごめんなさい……」
「お世話になりました」
 さっと朱音は軽く頭を下げた。
「お大事になさってください」
「奥様こそ」
「あ、ありがとう」
 朱音は診察券をそこに置いたまま立ち去った。彩愛はそれを手に少し迷ってから、〈月浦朱音〉のファイルのポケットに入れた。夫の声が次の患者の名前を呼ぶのが聞こえた。長椅子の端から若い男が立ち上がり、いま朱音が出て行った扉に目を向けて、ついでまだ受付に立っていた彩愛に目を向けて、慌てて下を向き、顔を赤くしながら診察室のドアに手を掛けた。若い男はその手を一度ドアノブから放し、ふたたび朱音が出て行った扉にちらっと目を向けてから、意を決したようにさっと診察室のドアを開けた。夫の声が聞こえ、ドアが閉まると同時に消えた。彩愛もまた朱音が出て行った扉に目を向けてみた。その瞬間、飛び上がるように立ち上がった。
「上野さん、ちょっと済みません。ここ、お願いできますか?」
 隣りに声をかけると慌てて受付を回り込み、扉の外に走り出た。
 乾いた秋の風が吹いている。路地を抜け、バスロータリーを見渡した。
 朱音はすでにベンチのひとつに腰掛けて、バスを待っていた。
「月浦さん!」
 ふたりのあいだには少しまだ距離があった。
 朱音はだれかに呼びかけられたような気がして、ふと顔を横に上げた。
 真後ろから駆け寄ろうとしていた彩愛は、ハッとして足を止めた。
 朱音の手が頬を拭うように動いている。
 彩愛はすっと背中を向け、ゆっくりと歩いて診療所に戻った。
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