14:朱音 双子の暮らすマンションに

文字数 3,101文字

 双子の暮らすマンションに朱音と英美里が連れ込まれた夜から、いくらか日数が経過した。
 池内常葉が織田のもとを訪ねた週末にも、朱音は瑞穂の部屋に泊まった。隣りの部屋に真帆がいることを、朱音は意識し続けて過ごした。瑞穂に愛撫されているあいだも、瑞穂に愛撫しているあいだも、交わりが頂点に達する瞬間でさえ、朱音は真帆を意識していた。背徳感はなかった。しかし明らかに興奮と官能は高まった。そのことに羞恥は感じた。が、当然のことのようにも思った。
 朱音と瑞穂はあれから一度も「池内」の話をしていない。瑞穂が真帆と話をしたのかも、だから朱音は尋ねていない。あのとき真帆は、瑞穂がここを出て行くべきだと言った。瑞穂は真帆の話をデタラメだと一蹴しようとしたが、朱音には真帆の考えが真っ当なことのように思えた。出て行くのであれば瑞穂だ。瑞穂が真帆から逃げ出すのだ。それは、瑞穂が朱音に放擲されたとしても、ここに真帆がいれば、瑞穂には戻る場所があるからである。
 もちろんそれは象徴的な意味合いに過ぎない。瑞穂がいずれ朱音に放擲されることを前提にしているわけではない。だからそれは象徴的というよりも、括弧の中に入っているものと見るべきかもしれない。そこにあるけれども、手に取ることは前提になっていない、いつでも手に取れるというふりをする、そんな意味だ。自分が母から逃げ出すことと同じ。物理的には家を出るわけだが、象徴的には母と縁を切るのだ。瑞穂は真帆との縁は切らないけれど。
 ……朱音の中にこのような理屈が展開されたわけではなかった。ただ、出て行くのは瑞穂のほうだと、漠然とそう思っているに過ぎない。真帆もそれを望んでいる。いや、望んでいるのか? たぶん違う。それは違うと、いつにない興奮と官能がそう告げた。あれはそういう意味だと朱音は思った。真帆が望んでいないから、快楽はその度合いを高めたのだ。
 瑞穂が部屋を探すときには一緒に街を歩こう。彼はこの春に東京に出てきたばかりだし、神奈川県の南部に生まれ育った自分も、そこから大学に通っていた。だから二人とも都心から西側に扇の骨のように拡がって走る、何本もの私鉄沿線のことはよく知らない。だから部屋を決める前にまず街を歩き、そこでの暮らしを想像してみるところから始めないと。
 でも――もしかすると、街並みなどはどうでもいいことかもしれない。そこに自分たちがいることで、街の景色は如何様にでも変わるものかもしれない。二人で歩けば、並んで見れば。
 同じ街を選ぶのは間違ったことだろうか? 同じ街に暮らすのなら、同じ建物だって、同じ部屋だって、どこも変わらないのではないだろうか? 
 二人で歩けば、並んで見れば、どこでも同じではないだろうか?
『いや、それはダメだ』
「どうしてダメなの? 私もこの家を出るのよ? 二人なら家賃も半分だし、ベッドも冷蔵庫もフライパンもひとつでいいのよ?」
『月浦さん、俺はそんな話をしているんじゃない。そんなことは問題にもならないよ』
「ああ、そうだった。あなたの叔母さんはお金持ちだものね」
『違う! これは「池内」とは関係のないことだ』
「じゃあ、あなたの叔母さんとお従兄(にい)さんが織田先生に会いに行かなったら、これからどうするつもりだったの? 私があなたのお部屋に行けばいいの? すぐ隣りに真帆さんがいるのに? それとも私は駅前にアパートでも借りるの? そしたらあなたは毎晩せっせと通ってくるの? それとも――」
『落ち着いてくれ。ねえ、月浦さん、ちょっと落ち着いて』
「落ち着いてるわよ。蒸し暑い夏の夕凪みたいに落ち着いてる。…ああ、もっと上手い言い方ってない? 私が落ち着いてることをあなたに伝えられる上手い言い方が思いつかないわ」
『わかったよ。君は落ち着いている。季節はもう秋だけど、君は夏の夕凪みたいに――』
 プツンッと通話が切れた。
 瑞穂はしばらくスマートフォンのディスプレイを見つめて立ち尽くした。それから仰向けにバタンッとベッドに倒れ込み、顔を覆った。部屋の灯りを消したかったが手を動かすのが億劫だった。けれども手のひらの隙間から射し込んでくる灯りはあまりに眩し過ぎた。気持ちよく寝ている朝にいきなり誰かが遮光カーテンを乱暴に引き開けたときみたいに、目に突き刺さってくる。
 叔母が真帆と自分のために用意してくれたこの部屋を出る。正確に言おう。叔母が真帆のために用意した部屋の隣り部屋から出る。我々はずっと隣り部屋で過ごしてきた。東京でもそうなることはわかっていたし、まったく抵抗はなかった。二人とも東京に就職すると決まった時点で、当然そうなるものだと思っていた。ただ、その部屋を叔母が用意してくれたことが想像外だったに過ぎない。
 正確に言おう。部屋を用意したのは二番目の叔母ではない。二番目の叔母が管理責任を負っている「池内」の資産が用意した部屋だ。実際のところ誰の名義でどれほどの資産があるのか瑞穂は知らなかった。しかしそこは問題ではない。問題はここがその「池内」が用意した部屋であることだけだ。そこを勝手に出て行くことなんて、やはりどう考えてみても、できるはずがない。
 ずいぶん頑張って痛みに耐えたのだが、ついに瑞穂はガバッと体を起こした。ベッドのヘッドボードの上にあったリモコンをつかんで乱暴にボタンを押した。一瞬にして部屋は夜の闇の底に落ちた。遮光カーテンを閉めたのはどこのどいつだ?
 瑞穂は闇の底をキッチンまで行きコップで水を飲んだ。ただの水道水はクソ不味かった。ベッドに戻ると放り投げてあったスマートフォンを取り上げた。ロックを解除して、通話履歴を見て、時刻を確認した。まだ三分しか経っていない。三分なら間に合う。
「月浦さん、ごめん。俺が浅はかだった」
『そんなこと言わないで』
「いや、本当にバカなのはこの俺だ。まったくどうしようもないバカ野郎だよ」
『そんなことない。だって瑞穂はすぐに電話してくれた』
「それは、だから、君が好きだから、そうするのは、当然だろう?」
『だから、瑞穂はバカじゃないよ。それが当然だって言える人は、バカなんかじゃない』
「――ああ、ダメだな。月浦さん、俺たちはダメだ。全然ダメだ。お話しにならない。こんなところで『愛してるよ!』とか言ってる

バカップルだ。こんなところで『愛してるよ!』なんて言ったところでなんにも解決しない。そうだろう? そうだよね?」
『確かに、そうかも……』
「だから、もう一度よ~く考えよう。とにかく今日はもう寝よう。明日も仕事がある。俺たちは

な会社員だ。そこを冷静に見極めないといけない」
『そうね。わかった。…さっきはごめんなさい』
「そんなのはいい」
『うん、じゃあ、おやすみなさい』
「おやすみ。ソニョドーロ!」
 ソニョドーロ? スペイン語? イタリア語? たぶんその辺りだろう。意味はわからないけれど、南ヨーロッパの暖かな匂いがした。暖かく、香しい空気が、朱音の部屋に流れ込んだ。
 やはり間違っていない。私をこの家から連れ出してくれるのは瑞穂なのだ。いや、そんなふうに考えるなと、いま釘を刺されたばかりだった。「愛してるよ!」なんて叫んだところで、なにひとつ解決しない。その通りだ。「愛してるよ!」は魔法の言葉かもしれないけれど、黄金を産み出す魔法ではない。お腹を満たしてはくれないし、当然のことながら、家賃も払ってくれない。
 朱音は部屋の灯りを消した。灯りを消さずに待っていたのだ。そして待っていたものは確かにやってきたのだけれど、問題は相変わらずなにひとつ解決していなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み