12:彩愛 ある日の朝、昨日までの日々が

文字数 3,714文字

 ある日の朝、昨日までの日々がまるで他人事だったかのように、悪阻の予感が治まっていた。もうやってこないのだと、彩愛(あやめ)にはそれがはっきりとわかった。
 無性にコーヒーが飲みたかった。カフェイン摂取量と妊娠初期の流産とのあいだにネガティブな――良くない結果という意味でのネガティブな――相関関係があることは承知していたけれど、悪阻に苦しめられているあいだはコーヒーの香りそのものに強い忌避感があったので、自省する必要もなかった。それが今朝はコーヒーの香りが恋しくなっている。彩愛はキッチンの上の戸棚にしまい込んであったコーヒーメーカーを下ろし、冷蔵庫の奥に押し込まれていたドリップコーヒーの袋を取り出した。
 さすがにちょっと香りが飛んでしまっているように思えたけれど、着替えて近くのコンビニまで出かけて行くのは億劫だった。一般の店舗が空く時間を待ってから、改めて買いに行こう。今朝はひとまずなによりも〈コーヒー〉なるものを口にしたいのだ。
「なんだか懐かしいような香りだ」
「おはよう! ねえ、昨日で終わったのよ!」
「なにが?」
「今日から新しいステージに移ったの!」
「ああ、本当に? そいつはよかった。頑張ったね」
「褒めてくれてるわけ?」
「もちろんだよ」
 まだ髭を剃っていない織田の首に、彩愛が正面からぶつかるようにして抱きついた。織田はとっさに腰から背中にかけての筋肉を強張らせた。
 彩愛は軽くない。妊娠のせいではなく、一緒に隣りを走っているとつい邪念がよぎる。それを抑えられない豊かな胸と尻の持ち主だ。身構えることなく受け止めたりすれば、今日からさっそく仕事に支障が出るだろう。織田の仕事はただ椅子に座って言葉を交わすだけなのだが、そうであったとしても休診は免れない。予約リストに順番に電話をかけることを余儀なくされる。気が滅入る作業だ。……ああ、もうこの辺りでやめておこう。
「腰を痛めた?」
「なんの話?」
「いまちょっとそんな心配したわよね?」
「どうして俺がそんなことを心配する?」
「これからもっと重くなるわよ」
「こないだそれを聞いたからね、このところ背筋を鍛えてるんだ」
 床に足を下ろしてから、彩愛はいくらか乱暴にキスをして、織田の頬の髭を撫でた。
「髭を剃ってきてちょうだい」
 そのあいだに朝食の支度が調っていた。コーヒーのある食卓は、季節が夏から秋に変わったあと、この朝が初めてになる。彩愛は何度もコーヒーカップに鼻を寄せ、大袈裟に香りを吸い込んでみた。確かに冷蔵庫の奥に押し込まれていたものだから香りは薄い。けれどもこの数ケ月、道端に漂い出てくる香りでさえ、足早に逃げてきたのだった。
「今日はコーヒーを買いに行かなくちゃ」
「ステージが変わるとなにが起こる?」
「だからコーヒーが飲みたくなるのよ。ただし一日一杯くらいね。カフェインは控えないと」
「コーヒーのほかには?」
「なにかな……。そうねえ……。あ、セックスがしたいかも」
「ずいぶん飛躍するなあ」
「したくないの?」
「まさか!」
 だから、日中の診察時間中もずっと頭の隅っこで艶めかしく誘う彩愛の扇情的なイメージに困らされた…などと言うつもりはない。織田はその朝のやり取りを、少なくとも午前の診療が終わるまでは、一度も思い返すことはなかった。つまり、コーヒーを買いに行かなくちゃ…と言っていた通り駅までバスで出てきた彩愛は、そこでふと気まぐれを起こした。
 朝から気分が良かったし、店員に薦められたブレンドも好みの香りだった。そこに偶然にも、勤めていた会社の同僚に懐妊の情報が伝わって、九時過ぎから次々とお祝いのメッセージが届いた。妹尾課長はここまでおしゃべりなお口を抑え込んでいたのだろうけれど、なんともタイミングがいい。悪阻の絶賛セール中であれば、嫌がらせの電話をかけていたかもしれない。
「妹尾もずいぶん踏ん張ったよな」
 これはあくまでも彩愛の気まぐれだったから、織田が自分のつくったお弁当を食べるすぐ隣りで、彩愛はコンビニで買ったおにぎりの包装を剥いている。
「二ヶ月よ! あの妹尾さんが。信じられる?」
 けれどもこの日の彩愛は人が入れ替わったかのように機嫌がよく、自分がつくったお弁当を淡々と口に運ぶ織田の姿がいつになくキラキラしく映っている。
「一ヶ月は持つだろうと思ってたけどね」
「ああ、でもそれが今日だなんて、ほんと嘘みたい」
「あの男にはそうした運の巡り合わせみたいなやつが、きっとついてまわってるんだろうな」
「ねえ、そういえば池内さんのこと、妹尾課長にお話しした?」
「あ、忘れてた。すっかり抜け落ちてた。…いや、でも無理だったよ。とにかく凄い人だ。あの場で妹尾の話をするなんてとんでもないよ」
「どんなお話しだったの? …あ、聞いちゃマズい?」
「構わないよ。――あのね、お姉さんを彼女が引き取るそうだ。そのために引っ越し先を探すって。有能な不動産屋を知らないか?て尋ねられたよ」
「お姉さん? お姉さんのほうなの?」
「そうしないと弟くんはいつまで経っても独り立ちできないからね」
「そういうもの?」
「わかりやすいケースだよ。譬えは良くないけど、家族に一人病人がいると結束が強まるみたいな話と同じだ。実態は転倒している。病人が入院したり亡くなったりするとそれが露わになる。もちろん快癒しても同じことだね。家族はただ病人という共通の一点を見ていただけで、お互いのことはまったく見ていなかったわけだから。――弟くんは今度は朱音ちゃんを見ることになる。でも朱音ちゃんはずっと一緒に育ってきたお姉さんとは勝手が違う。要するにあの人たちはこれをきっかけにして弟くんを自立させようと目論んでいるわけだ。そうしてくれないとお姉さんのほうがいずれ困ったことになる。――お姉さんに関しては、彼らは無条件に保護することができるけど、弟くんに対してそれはできない。いつまでもくっついていれちゃ困るんだよ。彼らは弟くんを引き剥がすきっかけを探っていた。たぶんそのために四年という猶予期間を設けたんだろう。ところが早くも半年余りで今それがやってきたわけだ」
「じゃあ彼女は? 彼女はどうなるの?」
「もちろんあの子にとってもこれはいい話だと俺は思ってる。弟くんの独り立ちは歓迎すべきことだ。そう思わない?」
「でも、弟くんは今度は彼女に寄りかかるんでしょう? それを支えられるの?」
「あの子は母親から逃げ出そうとしているんだ。そのとき誰かに寄りかかってもらうのは、逆説的に聞こえるかもしれないけど、むしろあの子の背中を押すことになるだろう。あの子にはそうした方向からのなにかが必要なんだよ。それがないと母親から逃げ出すのは難しい。仮に家を出られたとしても、彼女の眼差しはその後も母親のほうを向いたままになる。それではどこまで行っても、地の果てまで行っても、今となにも変わらない。彼らがあの子を口実に使うように、あの子も弟くんを口実に使う。――この世界はそんなふうにして倒れずに回っているんだ。難しい話かい?」
 ときどき織田はこうした人と人との関係性を、パズルのようにして彩愛に見せることがある。特定の誰かと、あるいは自分自身と向き合うというような話を、織田は好まない。相手が誰であろうと、自分自身であろうと、正面から向き合ってしまっては、視線を逸らすことができないと言う。逸らした先に視線を受け止めてくれる人が必要なのだと言う。そのようにして終わりのない連鎖が、あるいは迂回してまた元のところに戻る回廊が、我々の〈正気〉を支えているのだと言う。
「それですんなり収まるのかしら……」
「そうだね。確かにあとひとつかふたつ、まだピースが足りないようにも思えるね」
「たとえば何? たとえば誰?」
「もしかすると、君かもしれない」
「私!?
「あるいは、この子かもしれない」
 織田の手が横からすっと伸びてきて、このところはっきりと膨らみはじめた彩愛のおなかの上に乗った。彩愛の顔がポンッと弾けるように赤くなった。
「またバカにして!」
「ほんとうに君の、君

の出番があるかもしれないよ?」
「高志さん、今夜はサボってた二ヶ月分、たっぷり働いてもらいますからね」
 耳元で囁かれ、織田がごくりと唾を呑み込んだ。これは池内常葉が口にした「生唾をゴクリとやりたくなる」というやつとは、明らかに意味が違う。いや、少しばかり意味合いが違う。
 今日はきっちり仕返しができたという顔をして、彩愛は織田が食べたお弁当の空き箱を手に取った。さっと周囲に人目のないことを確かめてから、織田の頬にキスをした。彩愛は上機嫌というよりむしろ、いくらか〈ハイ〉になっている。しかし恐らくそれでいいのだろう。
 確かに池内常葉のアイデアは悪くないと思った。そもそもどうして最初からそうしなかったのか、そちらのほうを怪しみたくなるくらいだ。しかし、この春にはそれだけでよかったはずのことが、この秋にはそれだけでは収まらない。
 織田はふと、自分の仕事ではそこまでの面倒は見られないのだと思い、そのことを少し残念に感じた。物語の行く末を見届けられないかもしれない寂しさだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み