11:織田 「予約のお名前を見て驚きました」

文字数 3,748文字

「予約のお名前を見て驚きました」
「手紙を寄越したのはそっちよ」
「そうなんですが、僕はてっきり甥御さんがやってくるものだとばかり……」
「あら、夏馬でも済む用事なの?」
「どなたがふさわしいのかまでは、僕にはわかりません」
「月浦朱音の件でしょう?」
「そうです」
「神崎瑞穂と神崎真帆の件でもある」
「その通りです」
「私で間違いだとは言い難いわね」
 土曜日の午前、四人目の予約リストに〈池内常葉〉の名前があったために、正直なところ、一人目も二人目も三人目も、どんな話をしたのかよく覚えていない。初診ではなく、かれこれ半年ばかり通っている患者だったので、事なきを得たと言っていい。
 池内常葉は上等なスーツ姿でやってきた。恐らくどんな服装をしてくるべきか、見当がつかなかったのだろう。記憶にある通り、大柄な女性である。並んで立って比べれば、さすがに自分のほうが高いはずなのだが、見下ろされている感覚は否定できない。むろん池内常葉のほうにはそんな考えは微塵もない。織田が勝手に見上げているだけだ。
 挨拶が済むと、寛いだように足を組んだ。たぶんそれもいけなかった。診察室で足を組む患者とは、どんなに長く通っていたとしても、この国では滅多にお目にかかれない。言うまでもなく彼女は患者ではなかったし、勤めている製薬会社の肩書をもって来たのでもない。敢えて言うならば、「池内」という一族を代表して座っている。
「私は循環器系なのよね」
「存じています」
「専門外の話だからさ、素人に話すのと同じレベルで説明してよ」
「そうですね。甥御さんからはどの程度お聞きになってますか?」
 織田の話は手紙の文面と同様、簡潔で無駄のない気持ちのいいものだった。手紙に書き切れなかったところを、常葉に手紙の文面を思い起こさせつつ、上手に補って行く。こういう優秀な人間が、神経症だの抑鬱症だの適当な病名をこしらえて、来る日も来る日も愚痴だか不平だか泣き言だかに、街の片隅で穏やかに耳を傾けているというのは、悪い話ではない。
 が、しかし、常葉にはその〈月浦朱音〉という女の子の、いったいなにが問題なのか、さっぱり理解できなかった。求められているのは理解ではなく、共感なり同情なり、そんな類いのものなのかもしれない…とまで考えた。もし本当にそうであるとするならば、とんだ無駄足を踏んだことになる。やはりそっくり夏馬に預けてしまえばよかったのだ。
「要するに月浦っていうのは、大事な時期にちゃんとした大人と接する機会を逸してきたと、あなたはそういう話をしているわけ?」
「そういう言い方もできるかもしれませんね」
「だったら問題ないじゃない。その穴を埋めるためにあなたのところに通ってるんだから。違う?」
「僕の立場はそういう種類のものではありません」
「公的な立場の話なんかどうでもいいわよ。あなたはそのつもりでその子と接してきたんでしょう。だけど月浦がそれを活かせていないことに責任を感じる必要なんてまったくない。それは彼女の資質の問題。きちんと受け止められなかったのは彼女が至らなかっただけの話。違うかしら?」
「あなたは厳しい人だなあ」
 織田が職業的に身につけた穏やかな苦笑を見せ、常葉は釣り上げていた眉を――何事もなかったかのように――定位置と思しきところへと戻した。
「それにずいぶんと性急だ、思いがけないことに」
「目の前に自分より多くの情報と適切にそれを扱える人間が座っているのよ。遠慮がちな態度をとることにどんな得がある?」
「そんな駆け引きめいたことをする必要がありますか? あなたは僕なんか足元にも及ばない場所にいるはずですよ」
「肩書や経歴が人格を形成するなんて幻想よ。それこそあなたのほうが専門でしょうに」
「そうですね。……わかりました。僕の進め方が間違っていたようです」
 その間違いを正すかのように、織田は椅子の上で少し座り直した。常葉は足を組んだままの姿勢から、先ほどから恐らく眉しか動かしていない。
「月浦朱音だけを取り上げて見れば、確かにあなたの言う通りかもしれない。すみませんね、相変わらず

なんてくっつけて。断定する勇気もないのか?とか言われそうだな。――でも僕はね、池内さん、瑞穂くんにその役目が務まりますか?と伺っているんですよ。あるいは池内さんご自身に。あるいはあの甥御さんに」
 話の道筋が変わったらしいことを受けて、常葉もここで――具体的にどこというわけでもないのだが――明らかに力を抜き、受け取る側の姿勢をとった。
「月浦朱音は言ってみれば不発弾です。作動しなかった信管が残っている。しかし爆弾と違って人間から信管を取り除くことはできない。避難命令を出して誘爆させればいいという話でもない。爆発が一度で済むとは誰にも断言できないし、仮に一度であってもそれが致命的な結果につながることもある。もちろん彼女がこの先なにごともなく過ごせる可能性は低くありませんよ。腫物を取り扱うように接するべきだなんて言うつもりはありません。ただ、彼女は間違いなくそれを抱え込んでいる。否定できない事実です」
 常葉の頭の中に、ひとつの鮮明なイメージが浮かび上がっていた。
「夏馬はあなたにどんな話をしたの?」
「彼の従妹、あなたの姪御さんのことは伺いました」
「神崎真帆?」
「いえ、安曇彩日香です」
「なるほど、そういう話か。やっと見えてきたわ」
「申し訳ない。僕の話し方が迂遠だった」
「ああ、そうでもないわよ」
 池内常葉が放つ閃光のような気配が、蝋燭がともす小さく暖かな灯りに変わっている。今度は織田が聴く順番だった。が、警戒心を呼び出す必要はない。落ち着いて、心静かに待てばいい。織田は池内常葉の中にある、小さくて暖かではあるけれど、得体の知れない

に触れたのだ。
 常葉がちらりと織田のデスクに置かれている時計に目をやった。織田もその視線に誘われて時計を見た。間もなく午前の診療時間が終わろうとしている。かまいませんよ…と口にすべきか、織田は迷った。池内常葉がそれを求めているのか判別できなかった。
「だけどね、彩日香と引き比べて考えることはできないのよ。あなたの喩えを借りるなら、あの子はもう幾度となく爆発を繰り返してきた。ここ数年は穏やかに過ごしているけれど、いまこの瞬間に電話がかかってきても驚かない。少なくとも月浦はそういう状態にはない。そうよね?」
「はい」
「これまで瑞穂は慎重に、もちろん無意識でしょうけど、そうした女の子を避けてきた。数分歩いたところに彩日香がいて、隣り部屋には真帆がいたからね。そもそも出会う確率自体が低いだろうという話は無しよ。そんな確率はいつだって高めることができるんだから。あの子がそうすることをしなかっただけ。ところが月浦に関して言えば身構える余裕がなかった。…違うわね。きっと真帆との関係が変質したんでしょう。私の知らないところで。夏馬はその辺りのことは?」
「いいえ」
「職業的専門家としてのあなたに訊きたいんだけど、いま私たちが真帆を引き取って、瑞穂を自由にすることに意味があると思う?」
「どういうことでしょう?」
「私は弟と別の姪と三人で暮らしているの。そこに真帆のための部屋を用意する。引っ越しが必要なんだけどね。瑞穂とは電車で三十分くらいの距離かしら。そんな話。――これはあなたがさっき口にした、月浦を引き受けるということにつながりそう?」
「それは、朱音ちゃんのためにそうするのですか?」
「違うわよ、バカね。瑞穂と月浦はなにも結婚するって言ってるわけじゃないんだから。半年先にはお互いパートナーを入れ替えてるかもしれないわけだし。あなたはわかってるでしょうけど、相手に依存しているのは瑞穂のほうなのよ」
「まあ、普通はそういう形になるでしょうね。ただそれだと、瑞穂くんは今度は朱音ちゃんに寄りかかるだけかもしれない。……ああ、それでいいのか。それでいいんですね」
「あなた、知り合いに有能な不動産屋は?」
「残念ながら」
「ねえ、ここにくれば生唾をゴクリとやりたくなるくらいの奥様にお会いできるって聞いてたんだけど、まさか受付に座ってる

じゃないわよね?」
「家内はもうしばらく出てこられません。なかなか悪阻が治まらなくて」
 どこからだろう? ――恐らく「職業的専門家」なんて言い出した辺りからかもしれないが、池内常葉はすでにこの会談の目的を終えたと考えているらしい。不動産屋の件、次に生唾をゴクリとやりたくなる(?)家内の件と、スプロケットを切り替え、あるいはポイントを乗り替えた。
「あら、おめでとう。予定日は?」
「ありがとうございます。四月の頭です」
「医者にするの?」
「さすがにまだそこまでは……」
「そりゃそうだわね。――産まれたら連絡ちょうだい。お祝いを用意しておくから」
「期待しています」
 予定時間を十五分ばかり超過して、池内常葉は立ち上がった。最後まで組んだ足を解かず、組み替えもしなかった。午前の診療の最終予約だったので、織田は建物の外まで見送りに出た。池内常葉は軽く手を挙げて背中を向けると、もう振り返らなかった。なんて姿のいい人なんだろう…と、織田は秋の陽の下を歩き去る人をしばらく眺めていた。
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