05:朱音 昼休みが終わって間もなく、

文字数 6,548文字

 昼休みが終わって間もなく、瑞穂(みずほ)は同期の英美里(えみり)から社内chatでメッセージを受け取った。
 ――神崎、ちょっと話す時間ある?
 ――女の子からのお誘いは常に最優先に処理するもんだろう?
 ――常にそうするのはやめなさい。そもそも仕事中なんだから
 ――三時半なら空くけど。俺が行けばいい?
 ――私が行く
 ――しまった! バーボンを切らしてる! 防弾チョッキもだ!
 最後のジョークにリアクションがもらえなかったことに小さく首を振り、瑞穂はchatを閉じた。同時に、背筋を伸ばしてフロアーを見回したが、今泉の姿はどこにもない。英美里が時間をくれと言うのだから、今泉のことに違いないのだが。
 同期中最高峰との呼び声高い美男美女カップルの、瑞穂は〈相談役〉を自任している。東京で生まれ育ったクオーターの日高(ひだか)英美里(えみり)と、文明未開の地からやってきた今泉(いまいずみ)雅彦(まさひこ)のあいだに立ち、不幸な行き違いが起こらないよう目を配ってやる。――瑞穂はそのような役割の必要性を確信し、勝手に〈相談役〉という立場を創設して収まった。
 二時から会議室の末席に座り、あくびを噛み殺しながら議事録をとった。悪い癖が出て、なぜあくびは

なくちゃならないんだ?などと考えてしまい、議事の進行に置いて行かれた。仕方なくひとつ(たぶんひとつだ)を飛ばし、何食わぬ顔でノートに屈みこんだ。
 どうせ録音しているのだから困らない…という気の緩みが、瑞穂のような人間にとって、致命的・宿命的に逃れようのない陥穽と変ずるのは、どうにもしようのないことである。今日の仕事はこのあと録音を聴き返し、本日中に出席者確認用の速報を配信すれば終わりだった。
「ぬるい仕事してるわね」
「そこはまあ、俺の人徳ってやつだな」
「日本語勉強し直したほうがいいわよ」
「で、今泉がまたなにかヘマをやらかしたのか?」

? 

ってどういうこと? あの人なんかヘマしたの?」
 いかん…ヘマをしそうなのは俺のほうだ――瑞穂は首をすくめ、曖昧に笑って見せた。
 言うまでもなく、瑞穂と今泉は、カノジョには内緒にしておいたほうがいいような事柄を、いくつか一緒に抱えている。今泉にとって不都合な事情は、そのまま瑞穂にとっても不都合な事情となる。英美里と朱音は決して仲良しではないけれど、同じフロアーに座る同期なのだ。
 英美里はその、墨を流したように幽玄な色合いを帯びた瞳をギラリと光らせてから、声をひそめた。――二人はいまフリースペースの端のほうで、いかにも密談をしていますと周囲に喧伝するかのように、椅子を隣り合わせに寄せて座っている。
「週末、月浦さんに会った?」
「勿の論さ」
「彼女、朝から上の空な感じなんだけど、なにか悪いことしてない?」
「いいことならしたよ」
「あんたそんなことベラベラしゃべってないわよね?」
「当たり前だよ! 日高英美里様だからこそ、包み隠さず吐いてるんじゃないか」
「私が彼女に声かけても、神崎は困らないって請け合える?」
「そんな心配な感じ?」
「ちょっとね。……あの子さ、そもそもなにか抱えてるでしょ?」
「前にもそんなこと言ったよな? おまえ、知ってるのか?」
「私はなにも知らないわよ。でも神崎は知ってる。そういうことでいいのね?」
「ああ、知ってる。でも俺は問題ない。問題なく受け止められる。訓練が行き届いているからな」
「もしかしたら今日にも月浦さん誘うけど、ホントに大丈夫?」
「日高、おまえは根本的なところで大きな思い違いをしているようだな。――いいか? 『池内』という一族のどこかに生まれた人間はだな、呑気に薄っぺらな人生なんて過ごさせちゃもらえないんだよ」
「わかったわ。いつかそこのところ、ゆっくり聞かせてちょうだい。話はそれだけよ」
 いかにもクオーターの美女をイメージさせる甘ったるい残り香を漂わせ――それは今泉をバカにできない同じ田舎者の瑞穂の感性である――英美里はさっと席を離れた。瑞穂とはセクションが異なり、英美里の自席はふたつ上のフロアーにある。が、セキュリティ・ゲートを押し開ける手前でふと足を止め、引き返してきた。なにごとか?と瑞穂は身構えた。
「ねえ、〈防弾チョッキ〉て、なにかのスラング?」
「コンドーさんのこと」
「じゃあ、〈バーボン〉は?」
「知らない? トウモロコシから造る田舎者のための蒸留酒なんだけど」
「神崎、あんた人生やり直したい、て思ったことある?」
「まったく」
「でしょうね。訊いた私がバカだった」
 皮肉を受け取る能力を生来的に欠いているらしい瑞穂を残し、今度こそ英美里はフロアーを出た。そのプロポーションのいい背中を見送ってから、瑞穂は椅子に背中を預け、天井を仰いだ。
 土曜日の夕方――それに夜にもう一度――瑞穂は〈防弾チョッキ〉を使ったが、朱音は間違いなく初めてではなかった。それは紛れもなくわかったし、それで正直ホッとしたのだ。朱音が纏う気配には、もしかすると…と思わせるところもあったから、瑞穂は高校生のときの悲しい経験を思い出しつつ、少しばかり警戒していたのである。
 朱音が以前――それこそ付き合いはじめた最初の日に――「

にしてほしい」と口にしたことの意味を、そのときは「約束する」と言い切ったものの、本当にはよくわかっていなかった瑞穂は、ひょっとするとそういう意味だったのかもしれないと考えながら、この週末、朱音を賃貸マンションの部屋に迎えたのだった。が、そういう意味ではなかったらしい。
 では、どういう意味だったのか?
 難しく考える必要はない。朱音は高校生のときから心療内科に通っている。今はありふれた入眠剤しか飲んでいないけれど、当時はいわゆるマイナートランキライザーを処方された。名前を聞けば確かに穏やかな種類であり、従姉の彩日香が持ち歩いていると聞く、電源を引っこ抜くような恐ろしいものではなかったけれど、朱音が「

」と口にしたことの説明には充分だ。
 俺は決して甘く見てなどいない――瑞穂はなお天井を見上げながら、この週末の朱音の様子を思い起こそうとした。しかしそこに、英美里が心配してやってくるほどのなにごとかが隠されているようには、瑞穂には思えなかった。朱音がぼんやりしているように見えるのは、単純に、この終末が楽しかったからだけなのではないか? 俺が今朝からそうであるのと同じように――
「なあ、神崎……」
 と、英美里が立った椅子に、男が腰かけた。四つ五つ先輩の山岸である。
「さっきの綺麗な子、なにもの?」
「同期の日高です。……けど、もう手遅れっすよ」
「手遅れ?」
「今泉が掻っ攫いました」
「今泉って、あのデカいイケメン?」
「ただデカいだけじゃなく、ヤツは少林寺の使い手です。決闘なんか申し込んだら、山岸さん、確実に死にますんで。どうしても…とおっしゃるなら、俺が立会人を引き受けますけど」
「神崎はあいつに俺を殺させたいわけ?」
「山岸さんの評判、(かんば)しくないっすからねえ」
「え、マジで? ど、どんなふうに?」
「途中で放り出される。いつも面倒くさそうだ。うまくやっても褒められない」
「だ、誰がそんなこと言ってるんだよ!」
「それ、聞きたいっすか?」
「……いや、聞きたくない」
「あ、でも、俺は山岸さん好きですよ」
「おまえに好かれてもなあ……」
「じゃ、仕事に戻りますんで」
 五時前に議事録(速報)を主任に見せ、会議の出席者にメール配信した。七名のうち三名から「ご苦労さん」「ありがとう」との返信があり(残る四名からは翌日になっても返信がない)、瑞穂はその三名と四名の名前と顔を記憶に刻み込んでから、定時で退社した。
 山岸は確かに面倒くさそうな顔をするけれど、確かに褒めはしないけれど、「ご苦労さん」だけは口にする。仕方がない、山岸さんは生かしておいてやろう――瑞穂はそんなくだらないことを考えながら、混み合うエレベーターを避けて階段を駆け下り、正面ではなく裏通りへの通用口からオフィスの表に出た。
 風の止んだ東京の夕暮れは、呆れるほどに暑い。空はまだ明るいし、この暑さがなければ渋谷まで歩きたいところだが、汗を滴らせてこの時間帯の井の頭線に乗り込むのは、ステルスチックな迷惑行為だ。時々そういうやつがいて、ドアの外に蹴り出したくなる。
 恵比寿から一駅だけ山手線に乗り、比較的空いている井の頭線の各駅停車から、下高井戸で小田急線に乗り換えた。瑞穂は誰かと約束でもない限り、通勤途中に寄り道をすることがない。言い換えれば、欲しいものも、したいことも、これと言って特段ない。真帆から晩御飯の誘いがない夜は、最寄駅そばのスーパーかコンビニで弁当を買って帰る。ほとんどの若者がそうであるように。
 朱音は周囲からイメージされている通りの女の子だった。毎晩電話をかけてきたり(あるいはそれを求めたり)、欠かさず「おやすみ」のメッセージを送ってきたり(あるいはそれを求めたり)、そんな気配は微塵も見せない。もしかすると、内心そうしたいのだが恥ずかしいだけなのかもしれないと訝しみ尋ねてみたところ、神崎くんが寂しいって言うならそうするけど…と返された。
 従って、ひとりで部屋に帰った瑞穂は、シャワーを浴び、食事を済ませたあとはノートパソコンを開き、のんびりぼんやりと映画や動画を眺めている。たまには本も読む。真帆に薦められた(強制された)本を開く。真帆は厄介な本は読まない。だから瑞穂も厄介な本を読まされることはない。プルーストやドストエフスキーや、ウルフやジョイスや、ラカンやデリダが割り込むことも、忍び込むこともない。
 しかしこの夜は珍しく朱音から電話があった。当然それはこの日に予期される展開だったので、物語性のある映画などを観はじめることは避け、毒にも薬にもならない動画を漫然と自動再生させながら待っていた。午後三時半に英美里の訪問を受けたのだから、予期されて当然なのだ。
『ひとり?』
「二股はかけないよ、それが俺の倫理だ」
『真帆さんのことよ』
「あ、真帆ね。飯食ってるか瞑想しているか本読んでるか――」
『今日ね、日高さんと食事したの』
「へえ、日高と」
『知らないふりするように言われてた?』
「どっちかわかないから聞いてないほうに賭けたんだけど、違ったかあ」
『あの人、クオーターなんだってね。間近で見ると、ほんと綺麗』
「嫉妬してもらえるのは最上の悦びだよ」
『もしかして日高さんと神崎くんが…とか? それはあり得ないでしょう』
「あれ? 今泉にするか俺にするか迷ってるうちに、月浦さんに俺を攫われたから、仕方なく今泉のほうで手を打った…て聞いてるんだけど?」
『私が攫ったの? 攫われたんじゃなくて?』
「お好みのほうの物語にいつでも書き直す用意はある」
『どちらかといえば攫われたい。そのほうがドキドキが長続きしそう』
「おお……。なんて言うか、月浦さんて、さらっとグサッとくるよね」
『ねえ、私どこかおかしかった?』
「日高に言われてさ、十五時三十八分くらいからずっとそのことを考えてるんだけど、これと言って思い当たる節がないんだよなあ」
『今から会いたいって言ったら飛んできてくれる?』
「もちろん! 『池内』にヘリをチャーターさせよう」
『どこに降りるの?』
「そうだな、横浜スタジアムを貸し切りにしようか?」
『……やっぱり明日でいい。神崎くんの声聞いたら、なんか落ち着いた』
「いや、いますぐ抱き締めたい!」
『そうされたいけど、いますぐは無理だし、もう遅いし、明日も仕事だし……』
「ああ! 俺たちはなんで社会人なんてつまらないもんになっちまったんだ!」
『でもまだ一時間くらいはおしゃべりできるわ』
「それはもはや拷問以外のなにものでもない」
『じゃあ、切る?』
「切らないでくれ~!」
 こうしたときのおしゃべりが予告通り一時間で終わるはずがないと考えるのは、少なくとも月浦朱音に関する限り、誤りである。一時間と口にすれば、彼女はきっちり一時間で終える。世の中には稀にそのような女がいるものであり、朱音がそうであることを、この夜、瑞穂は再確認した。
 もうひとつ、瑞穂が驚きとともに――もっと言えば衝撃とともに――推察し、汲み取った事柄があった。どうやら真帆が――恐らく生まれて初めて

真帆が――瑞穂にとって障碍となっているらしいという嫌疑である。俄かには受け入れがたい話であり、途方に暮れる…とまでは言わないが、まさかそんなことが起こり得るとは夢想だにしてこなかったのは事実だ。
 朱音がはっきりとそう口にしたわけではない。しかし、この週末の瑞穂の賃貸マンション――すなわちイコール真帆の賃貸マンション――への訪問が、ひとつの契機となっているのは間違いないように察せられた。言葉の端々に、瑞穂はそのような匂いを嗅ぎ取った。
 確かに、隣りの部屋に〈姉〉がいるのは――それも歳の離れた〈姉〉ではなく二卵性双生児の片割れが暮らしているのは――なにやら落ち着かない気分がするものだろう。しかし、瑞穂が嗅ぎ取ったのは「落ち着かない」などという穏やかな気配ではなく、明らかな「障碍」としての真帆の存在だった。
 この週末に朱音をここに迎えた際、このマンションが「池内」から提供されたものであり、それも四年という期間であり、すなわち四年間は真帆の隣りに暮らす必要があるのだと、そう話したことを瑞穂も思い出した。あれが不用意だったのか……。
 時刻は十時半を回ったところである。瑞穂は聴覚を筆頭に感覚器官を総動員して、その機能を研ぎ澄ませた。真帆は間違いなく隣りの部屋に帰ってきている。――いや、これには意味がない。それは感覚器官が捉えた事実ではなく、真帆をよく知ることによって脳内に構成された――しかし間違いのない――瑞穂の真実だ。この時間に、真帆が部屋に帰っていないことなどあり得ない。
 ――こんなこと、どうやって真帆と話すんだよ…?
 瑞穂にはほとんど途切れなくカノジョなるものが存在してきた。そして、どの女の子の顔を思い返してみても、真帆が障碍となった記憶はない。…と、瑞穂は思っている。
 ――もしかして、俺がそう思っているだけなのか…?
 元カノたちに訊いてみるか? 真帆がいなければ今でも俺のカノジョやってた?とか――いや、そんなバカな真似はできない。確かに俺はバカかもしれないが、いくらバカでもほどがある。それではもう、バカの底が抜けてしまっている。
 瑞穂は頭を抱えた。身動きが取れない。これが噂に聞く〈ダブルバインド〉という代物か。なるほど、いきなり進退が窮まった感じがするものだな。前後左右いずれにも動けないということなら、スポンッと上に抜けるか、スコンッと下に墜ちるか、どちらかしかないわけだ。果たしてそれで無効化できるものなのか、なんとも言えないけれど……。
 いま忍び寄ってきているものの正体に、瑞穂はまだ気づいていなかった。しかし、彼のような若者を責めるのは酷というものかもしれない。決して能天気にバカだけをやって育ってきたわけではないのだが、むしろ「池内」という世間一般の尺度から大きくズレた一族の中にあって、お陰で得難い見聞をあれこれと重ねてきたはずであり、それでもやはり難しいのだ。
 いや、むしろ、瑞穂のような若者を想定するか否かが問題なのではなく、凡そ若者というのは――あるいは年齢を重ねてみたところで――その正体に気づくことがあったとしても――さて、そこからなにをどうすればいいものか…となれば、やはり立ち往生するほかないのかもしれない。余裕をもって苦笑を浮かべられる人間は稀であり、困った…どうしよう…と頭を抱えつつ、日々を乗り切るしか手立てはないのかもしれない。
 ジタバタと足掻いたところで動けないことに変わりはないのだから、足掻きたければ大いに足掻けばいいし、黙然と座り込むのもまた一策だ。瑞穂の性格から推すと悪足掻きを始めそうではあるけれど、このようなとき、人は思いもかけない挙動に出るものである。――現実は、想像もしなかった方面から、なんともわかりにくい救いの手が、ぬっと差し伸べられることになる。しかしそれはまだまだずっと先の出来事だ。
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