07:朱音 「奥さまはお休みですか?」

文字数 4,537文字

「奥さまはお休みですか?」
 ここ数日、同じ質問に幾たびとなく答えている。むろん尋ねるほうは初めてなのだが、答えるほうはいい加減ぞんざいになって行く。椅子に腰を下ろした朱音(あかね)に、またそれか…といささかうんざりした様子で織田は笑みをつくり、面倒臭いので直截に言い放った。
悪阻(つわり)が人より早いタイプみたいでね」
 初めて尋ねるほうは初めて知るわけであり、初めて知るのは悪阻の早い遅いではなく、そもそも懐妊の事実からして初めてなのだから、朱音が口を開けたまま言葉を失ったのも無理はない。
「ああ、そうそう。子供ができたんだよ」
「……誰の、ですか?」
「え? いや、俺のだと思う、けど……」
 さすがに「誰の子か?」と重ねられるとは思ってもみないことで、織田もふと「俺のだよな?」と自問してしまった。その様子に、我に返った朱音が慌てたように赤面した。
「ごめんなさい。変なこと言っちゃって……」
「まあ、驚くよね」
「いいえ、驚くようなことじゃないです。ご結婚されてもうすぐ一年ですし。…あ、おめでとうございます! 女の子ですか?」
「どうして女の子?」
「なんとなく。女の子のほうが画的にいい感じだなあ…なんて思ったので」
「そうかい?」
「お母さん似だといいんだけど」
 ペロリと舌を出した。織田は怖い顔をして見せてからペンを手に取り、少し考えてからそれを机に戻すと、互いにリラックスできるよう足を組み、右腕で頬杖をついた。
「さて、今日は新しいカレシの話を聞かせてくれるんだったね?」
「ああ、そう言えばそんなこと言いましたねえ……」
「あれ? もうフラれちゃった?」
「フラれてませんよ! ……ただちょっと、難しいお話しなんです」
「無理しなくてもいいよ。日を改めようか?」
「いえ。先延ばししても、状況はしばらく変わりませんので」
 小さく目を伏せた朱音の様子に、織田は黙って彼女が顔を上げるのを待ちながら、ひと月前に現れた「池内」の大男が語った内容を思い返し、朱音がそれをどう受け止めているのか、いくらかの懸念を抱きつつも、興味と関心とを抱かずにはいられなかった。
 恐らくそれは、多分に〈池内常葉〉という女の存在が意識の隅に留まっているからであり、そしてもちろん「池内」の大男が語った内容の手強さのせいでもあった。男は朱音の新しいカレシの姉が――姉と言っても二卵性双生児の一方だったが――生来的な器質として聴覚過敏を持ち、自閉症状としては軽度と言い得るものの、日常的に弟の助けを――弟が折につけ手を差し伸べることを――今もなお――そしてこれからもしばらくは――予定せざるを得ないと語ったのである。
 男は「この春から四年」という期間を区切った。しかし、四年後の約束ではなく、あくまでも、四年後への見通しとして。――長いな…と織田は感じた。四年という歳月は、いま二十三歳の朱音にとって、容易に想像できる将来ではない。「待つ」という心の状態を維持するのは難しい。しかも「約束」ではなく「見通し」に過ぎないと言われてしまっては、「待つ」ことの意味からして喪失しかねない期間だ。二十三歳と二十七歳のあいだには、十三歳と十七歳と同じくらいの跳躍がある。
 朱音が眼を上げた。織田は気取られぬよう用心しつつ胸のうちで身構えた。朱音はひとつ小さな笑みを見せてから、二つ目のまばたきの瞬間に、ぽろりと涙を落とした。そのことに、朱音は気づいていないように見えた。織田も気づかぬふりをとった。
「彼に間違いないと思うんです。好きだからそう感じるのだというのではなく、彼の資質が――いえ、彼のすべてが、そうだと私に告げているんです。……でも、私は今すぐに彼を手に入れることができません。本当は今すぐにでも彼に預けてしまいたいのに、彼にはすでに預かりものがあって、彼はそれを放り捨てることができません。……でも、私も待てないんです。もう少しなんですよ。もう少しで母を断ち切れるから、だから私、ちょっと慌ててしまって。そんなことをしているあいだに彼を誰かに攫われたらどうしようとか、そんなこととか考えちゃって。……バカですよね。どっちが大事なことかわからなくなっちゃうなんて。ほんと、私ってバカです」
 話しているあいだに二つ目、三つ目の涙が落ち、朱音もそのことに気がついたようで、それでも話を止めることはせず、手のひらで頬を拭いながら話しつづけた。一呼吸ついた様子に見えたところで、織田はティッシュボックスを差し出した。
「ありがとうございます」
「ねえ、朱音ちゃん。無理に〈彼〉と呼ぶ必要はないんだよ。いつも呼んでいるように、名前で呼んだほうがいい。そうしたほうが感情も素直に流れてくれる」
「私、素直じゃありませんか?」
「途中からなんの話なのか僕にもわからなくなったよ」
「でも私たち、まだ名前では呼んでいないから」
「どう呼んでるの?」
「私は『神崎くん』で、彼は『月浦さん』なんです」
「それなら『神崎くん』にしよう」
 しかし、朱音はちょっと首を傾げた。
「あの、そこって、実際に呼んでるふうにじゃないと、ダメですか? 私、面と向かっては『神崎くん』ですけど、ひとりで考えてるときは『瑞穂くん』で、それはお姉さんを『真帆さん』て呼んでるからで、そうしないとなんかおかしくなっちゃうから」
 やはり姉が出てくるのだな、と織田は男の話と照らし合わせつつ、少しだけ話を促してみた。
「彼にはお姉さんがいるんだね?」
「え、あ、そうなんです。二卵性双生児だから、『お姉さん』て呼ぶと叱られるんですけど」
「ん? 二卵性双生児だと、どうして叱られるの?」
「前後は偶然に過ぎないから、姉とか弟とか言うのは違うって。そういう感覚は持ってないって」
「なるほどね。兄と妹だった可能性もあったと言いたいわけか」
「たぶん、そういうことなんだと思います」
 そこで話が途切れてしまった。
 朱音は口を閉じ、ふたたび視線を落とし、明らかに迷っている。なにを迷っているのか、織田には瞭然であるとはいえ、今度は促すことを控えた。その〈姉〉がちょっとした問題を抱えているなどと、朱音にとっては織田が知るはずのない事柄である。それを、七年もの「かかりつけ医」である織田が相手だからといって話していいものか、朱音が迷うのは至極当然のことだ。
 それでも、視線を落としたままではあったが、朱音は迷いつつ口を開いた。
「難しいお話しなんです」
「うん」
 ――それはさっきも聞いたよ
「出口というか、解決策みたいなものがあるのか、私にはわからなくて……」
 ――なるほど、確かにそうだろう
「先生、『聴覚過敏』てご存知ですよね?」
 朱音がそろりと顔を上げた。
「知ってるよ」
「音や声が怖くて、仕方なく自閉するしかないっていう話も」
「もちろんだ」
「あの……」
 ――言ってしまえば楽になるぞ
「あの……真帆さんは、そういう人なんです」
 ――うん、それでいい
 そして、朱音はつかえていたものを一気に吐き出した。
「でも私、わかったんです。私たちは、これまで経験してきたカレシ/カノジョとは、本質から違うんだってこと。デートしても夜には実家に帰ってきて、親と同じ家で眠るのとは違うんだってこと。私も、瑞穂くんも、なんて言うか、初めてなんだって、わかったんです。社会人になったからというだけではありません。そういう人が現れたんです、初めて」
 ――ん? これはひょっとして、あの男の描いたシナリオから外れていないか?
「真帆さんのことなんか考えないで欲しいとは言えません。でも、私が家を出て母を断ち切るには、瑞穂くんが必要になってしまいました。これは私の失敗です。そのあとで出会えればよかったのに、その前に出会ってしまったから――だから私、失敗しちゃったんです。そうですよね?」
「どうかなあ。とにかく瑞穂くんが八面六臂に頑張るしかないように聞こえるけど」
「つまり、瑞穂くんが二重生活をするとか、そういうこと?」
 ――ほら、朱音ちゃんの回路が、どこかでおかしな接続になったじゃないか!
「あ、私いま変なこと言いましたね。――ああ、でもなんか、少し気が楽になりました。――いえ、ぜんぜん楽にはなってないけど、ちゃんと空気が吸えるようになったみたいな感じ。――ああ、でも、やっぱりこれって、私が真帆さんを受け入れないと…という話になるんですよね?」
「お互いにね。正妻と愛人とは相手を尊重し合わないと、いつか共倒れになる」
「なんの話ですか?」
「二重生活の話だけど」
「先生、もう愛人とかいるの?」
「いないよ」
「でも今、経験者みたいな言い方だった」
 朱音はひとりでしゃべり、ひとりで笑みを含み、晴れ晴れと…とは言えないまでも、椅子を立つときに織田をキッと睨みつけた様子は、一見すると、ひとりでどこかに着地したように映った。が、そんなはずはなかった。そうでないことはよくわかっている。しかしこれは自分の領分ではない。それは明らかだ。どうやらあの大男の訪問の意図を、自分は見誤ったらしい。
 診察室を出て行く後ろ姿を見送って、織田は翌月の予定表に「月浦朱音」の診断時間を登録した。朱音は失敗と口にしたけれど、いつ誰と出会うかなんて計算できるものではない。確かに彼女の言うように、家を出てから出会ったほうが良かったかもしれない。しかし、家を出るために瑞穂という青年の助けが必要なのであれば、順序が逆では家を出られないことになる。
 そもそも朱音に家を出ることなどできるのか? 彼女は自分ではしっかり計画を立てて準備を進めているように考えているようだが、立てた計画を消化して行くことと、計画の先にあるものを手に入れることのあいだには、実はちょっとした跳躍が求められる。ふたつは決して連続した地平にあるわけではない。我々はそのことに、そのときになって、初めて気がつくものだ。
 いや、それよりもなによりも、家を出ることで一気に決着がつくように考えているらしい時点で、大きく間違えている。今の朱音に病を疑う必要はないけれど、このような間違え方は少し怖い。期待していた結果が得られなかったとき、どのような症状が顔を出すか、油断できないようにも思える。しかし今、それは間違えだと彼女に言ったところで、どうなるというのか?
 そうであるならば、むしろ瑞穂という青年の登場は、朱音の最後の跳躍を実際的に助けることになるかもしれない。彼が自由の利く身でないこともまた、朱音の助けになるのではないか。おままごとのような一人暮らしを始めてしまったら、恐らく朱音は大きな落胆を覚えることになる。母親の軛からは、それほど簡単に逃れられるものではない。
 やはりもう一度、あの大男と話をしてみるべきなのか?
 すぐにも連絡をとろうとか、そんなつもりもなく、織田はパソコンから「池内夏馬」の診断記録――むろん診断などしていないのだが――を取り出した。が、登録されている連絡先を見て唖然とした。彩愛は気づかなかったのだろうか? 090-1646-0930は「色白奥様(イロジロオクサマ)」と読む。「お綺麗な奥様ですね」と、ふざけてメッセージを残したに過ぎない。
 織田は診察室でひとり笑い出してしまった。
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