17:日高 「選択肢は三つあるわけよ――

文字数 4,580文字

「選択肢は三つあるわけよ――同じ沿線、同じ駅、同じ部屋」
「いや、日高。同じ部屋はないぞ」
「どうして?」
「俺たちは結婚するわけじゃない」
 真顔でそう応えるものだから、英美里(えみり)は思わず吹き出してしまった。
「意外とコンサバなのね。まあ、同棲しちゃうと喧嘩したとき面倒だしね」
「どういうこと?」
「どっちかがホテルとか友達のうちとか、ネカフェとかに泊まることになるじゃない?」
「月浦さんがネカフェに泊まるなんて、そんなの絶対ないから」
「瑞穂がヘタこいて朱音ちゃんが飛び出すケースだとそうなるわよ。ちゃんとシミュレーションできてる? 瑞穂が怒って飛び出すことはないにしても、朱音ちゃんが泣いて飛び出すことはあり得るんだから。そんなの絶対ない!て、あんた言い切れるの?」
 週末の渋谷で運よく上等な個室を予約することができた。少々値が張るけれど、英美里には軍資金がある。勘の鋭い瑞穂からすぐに金の出所を探られたが、二人の引っ越しの前祝いだと告げると、瑞穂はあっさり喜んだ。簡単な男である。引っ越し先の選定も同じくらい簡単に考えてしまえないところが、とはいえ、今のこの男の問題だった。
「日高、その議論はおかしい。俺は同じ部屋はないと言ったはずだ。従ってそんなバカげたシミュレーションは必要ない。――以上、証明終わり」
「あら、その通り。瑞穂ってやればできる子?」
「日高もきっとそうだぜ」
「こないだそれ言われたばっかり。でも二十三はもう手遅れだって」
「俺も言われたぞ。この先はただ堕ちていくだけだって。だからこそ知恵を絞ってなんとか誤魔化していく。人生を愉快に乗り切るには知恵に頼るほかない。――これ、意味わかるか?」
「さっぱりね。賢い人の言うことなんて、みんな似たり寄ったりよ」
 同じ人間が言ったのに違いないと思いながら、英美里は不必要に瑞穂との無駄話を重ねないようにと自戒した。彼らの従兄だという大男の言葉を信じるとすれば、瑞穂は初動を誤ると修正に時間と手間のがかかる、ちょっと厄介な性格らしい。英美里は半年ばかりの付き合いだが、なんとなく、言わんとするところはわかる気がした。
「朱音ちゃんは正直どうしたいと思ってる?」
「瑞穂はやっぱり真帆さんに近いところを選ぶべきだと思う」
「真帆さんを除いて考えるのは難しいということね?」
「それは難しいよ」
「いいわ。じゃあ精いっぱい瑞穂を引っ張り出すとしたら、どれくらい?」
「う~ん、二駅くらい、かな……」
「じゃ、そこに決めましょう」
「いや、待ってくれ。――月浦さんさ、二駅ってなに? なにか根拠ある?」
「こんなのに根拠なんて要らないわよ、新しいお店出すとかじゃないんだから」
「日高はちょっと黙ってくれ。俺はいま月浦さんと――」
「歩くにはちょっと遠いけど、自転車ならすぐに着く。それが二駅の意味よ」
「いいじゃない! 瑞穂、納得した?」
「日高は黙れよ。――月浦さん、いや朱音ちゃん、それはかなり近いと思う。それだと俺は毎晩自転車で真帆の様子を見に行きかねない。今は隣りだからそんなことしないけど、離れたらきっと始める。生まれて初めて離れるんだ。二駅しかないと、疲れれてても、飲んで帰っても、終電ギリギリでも、まだそれが可能だよ。そんなときは行く気にならないくらいの距離じゃないと、俺はダメだ。二駅じゃ自信がない。――ごめん、朱音ちゃん、これはもうどうしようもないことなんだよ」
「そっか。離れると却って気になるのね。そうかもしれないね」
 英美里は本当に黙るべきなのか、迷った。
 瑞穂のマンションの部屋で、神崎真帆を加えた四人で話をしたあの夜から――話をしたのはもっぱら真帆だったが――瑞穂があそこを出て行くという方向に、この二人は考えを向けはじめていた。あのときの無茶苦茶な話のあとで、どうしてそうなるのか、英美里には理解できなかった。真帆の言葉を真に受けるなんてことはあり得ない。そもそも瑞穂だってデタラメだと吐き捨てたはずだ。
 だから一度、池内夏馬に電話をかけた。彼はなにもしていないと言った。「池内」が真帆を引き取るという話はすでに決定事項として動いているらしいが、瑞穂にはまだ伝えられていない。真帆が瑞穂に話してしまったという様子も見受けられない。実際いまここで議論されているように、瑞穂と朱音は真帆のマンションを起点として、自分たちの住まいをどこに置くべきか検討している。
 それにはまったく意味がないことを承知している英美里は、だから駅などどこだって構わないという方向に持って行こうとするのだが、黙っていろと瑞穂に撥ねつけられる。しかしこの場で本当に英美里が黙ってしまったら、恐らく瑞穂と朱音はなにも決められず、どこにも行けない。……そう英美里は思っていたのだが、瑞穂の主張は思いのほか具体的で説得力を持っており、架空の起点に過ぎないのだとしても、それで二人に意思決定ができるのであれば、自分はこのまま黙ってしまってもいいのではないか――そんなふうにも感じはじめていた。
 そこで英美里は、二人が難しい顔をして黙り込んでしまうことのないよう、それだけに注力することに切り替えた。なにも今日ここで決める必要はない。二人の課題が少しでも明らかになればいい。そのためにはあらゆる方面からこの問題を考えさせたい。たくさん寄り道をして、いろいろと捏ね繰り回し、本当のところなにが障害となり得るのか、それを二人に考えさせたい。深く考えるのではなく、あれこれと色々様々に考えるべきだと思う。
「二つが近いなら、倍の四つにしたらどう?」
「四つ? 四つは、日高、あり得ないだろう。上れば下北、下れば成城だぜ。どっちもまとな人間が暮らす街じゃない。おまえ東京の人間なのに、そんなの田舎者に諭されてどうするよ?」
「沿線に住んでないんだから、駅四つとかすぐに頭に出てこないわよ」
「確かにそうだ。東京は駅が多過ぎる。隣り駅のホームがすぐそこに見えてるとか、ほんと、なにごとかと思ったぜ。――とにかく二つじゃ近いし、四つはヤバい。となれば、三つか五つか、もうどっちかって話だな」
「私ね、やっぱりギリギリまで下ったほうがいいと思う。だって瑞穂はあそこを出たら、お給料だけで生活しなくちゃいけないでしょう? 家賃ていちばんの出費だから、大変よ」
「朱音ちゃん、いいところに気がついた」
 気づいてなかったのかよ…と英美里は呆れたように眉をしかめた。
「だから私、同じ部屋でもいいと思ってたんだけど……」
 なかなか大胆だな…と英美里はこちらでもいささか驚かされた。
「そうよね。仮に同じ建物で二部屋見つかっても、近くの建物でも同じだと思うけど、結局どっちかの部屋が生活拠点になって、片方は物置みたいになるわよね」
「日高、おまえも鋭いな。よし、発言を認めよう」
「それはどうもありがとう」
「でもさ、俺と朱音ちゃんが一緒に住んでるとかって、会社的にどうなのよ?」
「別れるときにけっこう面倒かもね」
「日高、おまえに許したのはそういう発言ではない!」
 朱音からもビックリした顔で見られてしまい、確かに不用意な発言だったと、英美里はほんの少しばかり反省した。が、反省はあくまでもほんの少しばかり、表面上の話である。この場の英美里の役回りでは、反省などしているようでは困る。悩むのは瑞穂と朱音の仕事だ。
「ねえ、親はどうなの? もう大人なんだから勝手にすればいいって感じ?」
「うちは、たぶんそうだよ」
「朱音ちゃんはそうよね。そもそもそこが発端なんだからさ。――瑞穂のほうは?」
「こっちはどこまで行っても真帆しか出てこないさ。俺が離れても真帆は大丈夫なのかって、ただそれだけだよ」
「そこさ、大丈夫だよって真帆さんが言えば、神崎家は納得するの?」
「難しいこと訊くね、おまえも」
「いやだって、そこであなたたち躓いてるわけでしょ? それでいま住んでる駅から三つとか五つとか、そんな議論になってるんじゃないの?」
「うん、そんな議論になってるな。駅は三つか五つだ。それでうちの親が納得するか?て訊かれても、ちょっと俺にもわからない。でも、日高、ひょっとすると神崎はもう関係ないかもしれない」
「どういうこと?」
「俺たちが東京に出てきて、常葉さんが用意したマンションに収まった時点で、すでに神崎から池内に管轄が移ったとも考えられる。そうであれば、納得させる相手は常葉さんだ。なにしろあの人が用意してくれたものを放り捨てるわけだからな」
「でもあれは真帆さんのためなんじゃないの?」
「防音効果が高いという点だけ拾えばそうかもしれないけど、俺と真帆は常にセットなんだよ」
「セットだったんだよ、の間違いじゃなくて?」
 言葉尻を捉えたに過ぎないと言えば、確かにその通りだった。英美里は言葉尻を捉えて打ち返したに過ぎない。しかし瑞穂のほうは、まさかそれを打ち返されるとは思っていなかった。真帆はそんなことを口にしたけれど、あれはデタラメであり、あるいは真帆の強がりに過ぎない。瑞穂はそう思っている。だから同じ沿線で、近過ぎず遠過ぎず、着かず離れずを維持しなければならない。なぜなら真帆と瑞穂は常にセットだから。
「日高、おまえなに言ってるんだ?」
「瑞穂こそ、自分が言ってることわかってる?」
「俺は、だから――」
「どっち向いて言ってるのよ。私じゃなくて、朱音ちゃんの顔見て言いなさいよ。俺と真帆はセットなんだって、朱音ちゃんの顔見て言ってみなさいよ!」
「いや、日高、ちょっと待て――」
「ほら、瑞穂、言ってみなさいよ!」
「待て、日高、なんでおまえが泣く?」
「うるさいわね、早く言いなさいよ! それがあんたの言いたいことなら、そう言えばいいじゃない! ちゃんと朱音ちゃんにそう言いいなさいよ! そうすれば朱音ちゃんも考えるわよ。こんな男でいいのか?てさ。こんな男が自分を連れ出してくれるのか?てさ。決めるのはあんたじゃないのよ、瑞穂。真帆さんと朱音ちゃんが決めることなのよ、これは。あんたが試されてるのよ。あんたが選ばれるかどうかって話なのよ。勘違いしないでよ……」
 英美里は席を立った。そのまま個室を出て廊下を歩いた。お手洗いは先客で埋まっていた。英美里は廊下に戻り、その場にしゃがみ込んだ。すぐに店の人間に声をかけられた。いくらか年上の女性だった。顔を上げた英美里を見て、ハッと息を呑んだ。それから左右を見回して、お手洗いの先にある引き戸を開けると、英美里の腕を取って立たせた。
 そこは客が出入りする場所ではなく、職員がちょっとした休憩をとる小さなスペースだった。椅子があり、女性は英美里をそこに座らせた。膝の上にティッシュボックスを置いてくれた。しかしまだティッシュを使うにはタイミングが早過ぎる。女性は一度姿を消し、すぐに戻ってきて、英美里の隣りに腰を下ろすと、スマートフォンをいじり始めた。
 自分がどこにいるのか、自分がなにをしているのか、なにやら頭が酷く重たくて、英美里はよく理解できなかった。隣りに座ってスマートフォンをいじっている女性も、どこのだれだか知らなかった。ただ、彼女が自分のためにそこでそうしてくれているのだということは、そこだけははっきりとわかった。今はたぶん、それだけわかっていればいいのだということも。
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