19:日高 大きな窓の向こうにライトアップされた

文字数 5,733文字

 大きな窓の向こうにライトアップされた東京タワーが見えている。やはり、恐らく周囲にそれを引き立たせるものがあるかないかの違いのせいだろう、スカイツリーより見栄えがいい。テーブルの上の光景も素晴らしかった。あとは、向かいに座る男がもう少し、なんというか、体のサイズが一回りほど小さければ、脳ミソのサイズも一回りほど小さければ、さらには得体の知れない、なにを考えているのかわかりにくい、独特の気配が薄ければ――と、英美里(えみり)は胸の内で考える。しかし、そこに文句をつけはじめたら、今夜のこのテーブルはこの世界に存在し得なかったわけであり、確かに大き過ぎはするけれど、時々なにを言っているのかわからないこともあるけれど、そこは受け入れなければならないのだ。
「本当に知らないの?」
「そこまで手を回すことはしないよ」
「だけどお店を手配したわけだから、やろうと思えばできたでしょう?」
「やろうと思えばね。しかし僕はそんなことをやろうなんて微塵も考えなかった。それにもしそれが僕の手配であったとすれば、君との貸し借りはそこで清算されている。そもそもその程度の話だったと知っていれば、なにもこんな豪勢な食事を君に提供する必要もなかったわけだ」
「その程度の話? 女の子が泣いたのに? あんなところで泣かせたのに?」
「いや、済まない。今のはちょっと言葉が過ぎたかもしれないな」
「反省してない言い方」
「反省はしている。だから今ここに座って甘んじて君に責められている。本当に申し訳ないことをした。まさか瑞穂がそこまでの阿呆だったとは――」
「私いまちょっと思ったんだけど、いい?」
「なんだろう?」
「さっき貸し借りは清算されたとかなんとか言ったわよね? つまりこの食事であのことはすべてチャラになると、あなたはそう計算している。合ってる?」
「いくらか豪勢に過ぎたのではないかと、勘定書を目にするのを恐れているくらいだ」
「ちょっと待って。――確かにお勘定はあなたが持つわけだけど、私たち、同じものを食べて、同じ景色が見えてるわけだから、今この場であなたにとってのマイナスはお金だけよね?」
「なるほど、確かにそうだ」
「でもね、あなたには明確なプラスもあるのよ。私みたいな若くて綺麗な女の子を眺めながら食事ができる。ここは圧倒的にあなたのほうにプラスじゃない?」
「いや、そこは承服し兼ねるね。君はいささか僕を軽く見積もっているようだ。これだけの食事を用意すれば、君を遥かに凌ぐ美女をそこに座らせることが、僕には易々とできる」
「私を遥かに凌ぐ美女? そんな人があなたのそばにいるの?」
「いるよ」
「それはプロの女の人じゃなくて?」
「むろん素人さ」
「なにもの?」
「従妹だよ。父の妹の娘だ」
「申し訳ないけれど、あなたを見る限り、そんな美女が親族にいるなんて信じられない」
「それがいるんだよ。――そうだなあ、あいつを基準点…つまり百点とすれば、君は恐らく八十二点くらいにはなるだろう」
「八十二点!? そんな点数つけられたの、私、生まれて初めてだわ。ちょっとその人の写真とか持ってない?」
「持ってるよ。それこそつい先日この同じテーブルで写したものがある」
 池内夏馬はその大きな手にすっぽりと収まってしまうスマートフォンを操作して、問題の美女とまさにこの同じテーブルで撮ったという写真を取り出すと、英美里に手渡した。受け取った英美里の口から、思わず「ああ……」と声が漏れた。
「どうかね?」
「そうね、確かに同じ点数はつけられないかも……。でも、でもさ、八十七点くらいはつけてくれてもよくない?」
「プラス五点かあ……。捻り出すとすればバストサイズかねえ。彩日香はBカップだが、君はもう少しありそうだ。それで五点も加点していいものか、いささか迷うところではあるけれど」
「私はEよ。それでプラス五点だわ」
「わかった。五点加えよう。君は八十七点だ。しかしそんな高得点を認めたのは何年ぶりかな……」
「これまでの最高は何点?」
「九十八点」
「え、ウソ!?
「これも親族だがね。実は腹違いの叔母がいるんだよ。しかしそもそも世代が違うから、その意味では彼女はあの世代の基準点とすべき人かもしれない」
「ねえ、もしかして、あなたが例外なの?」
「おいおい、君は真帆と瑞穂を見ているじゃないか」
「ああ、そうね。そうだった。確かにこの人が例外かも。真帆さんには失礼だけど。……でもほんと綺麗な人。悪魔みたいに綺麗ね」
「まさに悪魔だよ。これ以上死人が増えないように、我々が常に気を配っているところだ」
「ねえ、引っ越し先は決まった?」
 死人などという戯れ言はスルーして、英美里はスマートフォンを池内夏馬に返した。
「決まったよ。結局4Lをリフォームする。広大なリビングの端を潰して一部屋増やし、ダイニングスペースとのあいだに壁を造る。年内には引っ越せるらしい」
「どの辺り?」
「明治神宮のそばだと言ってたけど、正確な場所は聞いてない。僕は不動産の話には関与しないことにしている。どうせ自分が入るわけでもないしね」
「明治神宮なら、瑞穂ともそんなに遠くないかな」
「君も見に行ったの?」
「うん、見てきた。なんかいかにも新婚夫婦が選びそうなとこだった。別れたらどうするんだろう…とか言っちゃいけないけど。――また少し援助してあげるの?」
「月浦が納得すればね。でもあの子は受け取ろうとしないだろう。生活拠点を移す以上の意味があるわけだから、気持ちはわからないでもないけどね。しかしあまり意固地にならないほうがいい。すぐに瑞穂と別れたって、金を返せとは言わないよ」
「嫌がってるのは瑞穂のほうじゃなくて?」
「あいつにそんな矜持はないだろう。もらえるものは有り難く頂戴する。そういう男だ。そして、それでいい。そのほうが我々も気が楽だ」
「真帆さんのお話しを聞かせて」
 空になった飲み物をオーダーし、食事も進んだこともあり、英美里はすっかりリラックスして、池内夏馬に約束の物語をねだった。
「真帆は成長が遅い。総合的な意味でね。障害が手伝っているのは事実だが、真帆のそれは個性と言うべきだろう。たとえば君がこれと言って理由もなく早熟であるように、真帆はただ単に奥手なんだよ。もちろん真帆の聴覚過敏は実際的な困難を与えているわけだけど、それはむしろあの子にとって自らを守るために利用されたのではないかと思っている。――真帆の中では時間が周りよりもゆっくりと進んでいる。〈体験内在時間〉という概念があるけれど、要するに、主観的に感じている時間の流れが遅く、なかなか一日が終わらないとか、そうした感覚を持っているんだ。こうした場合、なかなか未来がやってこないために、過去が幅を利かせる状態になるケースが多い。――真帆は君たちに〈日記〉の話をしたと言ったね。あれはあの子がなんとか〈未来〉を作ろうとしてきたことの証しなんだよ。きっかけは違ったようだけれど、そのように働いてきたんだね。そしてあの子が作ろうとしてきた〈未来〉の姿は瑞穂によって提供されてきた。真帆は瑞穂の体験をなぞることで、〈現在〉に置き去りにされること、〈未来〉から見放されてしまうことを、必死に回避しようとしてきた。だけどそれは嘘であり、真帆はそれを承知していた。瑞穂もそれを承知していた。だけどやめられなかった。むろん怖かったからだ。――しかしこの夏に転機が訪れた。実は転換はすでにこの春から起きていた。真帆は無意識のうちに日記を削っていたんだ。それができたのは、日記がノートに鉛筆で書かれているのではなく、デジタルデータでクラウド上に置いてあったからだ。ここは重要なところだと思う。真帆は選択的にある特定の記述を削除した。性的な経験に関する記述だ。真帆はそれを消した。それを受け入れた。経験していないという事実を受け入れた。そうすることで、真帆は〈過去〉に呑み込まれてしまうことから逃れられたんだ。偽りの〈過去〉にね。――本人はそのことの意味をまだよくわかっていない。しかしもうわからなくてもいい。なにしろそれは削除されてしまったから、もう真帆を脅かすことがない。今あの子はとても落ち着いている状態だ。君たちの眼にはそのように映っていないかもしれないけれど、我々には違う。我々も実に今ほっとしているところだ。真帆が正しい時間の〈現在〉に立っているからね。その意味では、この半年ほどの時間は、決して無駄ではなかったのかもしれない。――これから真帆は『池内』の中で、真帆なりの時間を、真帆なりの時間で、本当の〈未来〉を生き直すことになる。日記には偽りの〈過去〉が記録されてきた。言い換えれば偽りの〈未来〉を記してきた。でもこれからは違う。本当の〈未来〉が〈現在〉となり、そして〈過去〉になる。我々が真帆を瑞穂から引き剥がすというのは、真帆の側から見たときには、そうした意味を持つ事柄だと考えている。――それが〈いま〉で正しいのか、あるいは正しかったのか、僕にはわからない。もっと早くにそうすべきだったと言うことは、〈いま〉にいる僕らには容易いことだけれど、〈そのとき〉にいた僕らには難しかったのではないか。だから、この春の選択が間違っていたのかどうかについて言えば、いま僕らは間違っていたと考えているわけだけれど、そのときなぜそのような選択をしたのかを検証すべきかと思う。――いや、わからなくていい。君にはわからない。君と真帆とではあまりに時間の流れ方が違い過ぎる。だから想像するのは難しい。しかしそれでいい。君は君で、時間が早く流れてしまうことに、周りが遅れて行くように見えてしまうことに、君なりに対処しなければならない。きっとこれまでもそうしてきたのだろうし、これからもそれをつづけなければならない。――もし君が受け入れてくれるなら、なにかできることがあるのかまだわからないけれど、我々は君に対しても手を貸す用意がある。君は我々にそれだけのことをしてくれたし、君は我々にとって当然その資格を持つ人間だ。むろん手助けなど必要にならなければ、それがいちばんいい。言うまでもない。当たり前の話だ」
 英美里はぼんやりと池内夏馬の顔を見ていた。そこで池内夏馬の話が終わったことに、英美里はしばらく気がつかなかった。はッとそのことに気づいたとき、もしかしたら自分は今また泣いているのかもしれないと慌てたが、そうではなかった。頬にあてた指先は、そうした湿り気を感じ取らなかった。
 池内夏馬の話は情報量が多過ぎて、これまで聞いたこともない理屈ばかりが並べられ、英美里にはほとんど理解できなかった。辛うじて、彼が自分に言及してくれたところは、少しだけ頭に残った。時間が早く流れてしまう、周りが遅れて行くように見える――それは英美里が明確にそうと認識できないままに抱えていた、この世界での〈生きにくさ〉のように曖昧だったなにごとかを、確かに言い表してくれたように感じた。それと、それに、手を貸してくれるということも。
 いや、まだもうひとつある。私たちにとって〈過去〉と〈現在〉と〈未来〉とは、どうやら同じくらいの重みがあるのだということ。三つがちゃんとそろっていなければならないのだということ。神崎真帆には〈未来〉がぼんやりとしか見えなくて、自分には〈過去〉が薄く軽くしか扱われなくて、そうして私たちは、神崎真帆とは姿形は違うけれど、私もまた、神崎真帆と同じように、考えなければいけないこと、対処しなければいけないことを、いくつも抱えているのだということ。
 要するに池内夏馬は、あるいはこの「池内」の人たちは、そうして私たちに理解と共感を寄せてくれているのだと、英美里には、なおよくは理解できないまでも、そこを受け取ることはできた。できたと思った。
 池内夏馬の声は抑制されている中でも低く張りがあり、独特の抑揚があった。その声を、英美里はずいぶんと長く、いくらか長過ぎる時間、聴きつづけていたために、ある種の高揚した気分に内側から包まれた。
 だから、英美里はつと椅子を立ち、テーブルを回り込み、なにが始まるのか訝し気な様子の池内夏馬のすぐ脇に近寄ると、椅子の背に体を預けて見上げる大男の首に腕を回し、そのこめかみの辺りに頬を当てた。
「夏馬さん、お食事もおしゃべりも、もう充分です」
 呆然として体をぴくりとも動かさずにいた池内夏馬から離れ、英美里はその足でテーブルからも離れ、化粧室に入った。先客はいない。だから鏡に全身を映すように立った。
 私はただ彼の声を長く聴き過ぎてしまったに過ぎない。そのせいでいくらかぼんやりとし、またいくらかふんわりとしているだけだ。言うまでもなく、これは家に持ち帰ってはいけない。家に着く前にどこかで適切に処分しなければいけない。そうしておかないと、ふとした間隙からぬっと顔を出し、そのつど処置に困る感情を残すことになる。苦しむに値するものであるならば仕方がない。存分に見苦しく苦しむほかにない。でも、これは違う。そんな価値のない苦しみに姿を変えるやつだ。私はその正体を知っている。神崎真帆は知らないだろう。だけど私はよく知っているつもりだ。
 テーブルの向かいに戻った英美里は、離れる際に告げた通り、食事とおしゃべりとを〈過去〉に追いやって、新しい〈未来〉を今この〈現在〉に引き込もうとした。
「このまま私をひとりでタクシーに乗せたりしませんよね?」
「それでは勘定が合わなくなる。そう宣ったのは君のほうだぞ」
「いいえ、私はすべてを精算する提案をしているの。だから、ちゃんと口説いてください」
「そういうのは苦手だ……」
「誰にでも苦手なことはあるわよね。あなたがどんなふうに苦しむのか興味津々」
「悪趣味だな」
「さあ、頑張って。ここで酔いつぶれるなんて許さないから」
 まさに池内夏馬はいま、スコッチのストレートでも注文しようかと考えたところだった。そこに英美里の手が伸びてきて、アルコールの残ったグラスを引き寄せると、代わりに水の入ったグラスに差し替えた。大男は大袈裟に首を横に振り、英美里は愉しそうに笑みを含んだ。
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