01:朱音 「このひと月はどうだった?」

文字数 2,583文字

「このひと月はどうだった?」
 いつものように織田(おだ)からそう尋ねられ、朱音(あかね)には珍しく少し首を傾げた。
「一度、同期の飲み会に参加して、カラオケにも顔を出しちゃって、そのときはちょっと……」
「どんな感じに?」
「いえ、別に大したことじゃなくて。うちは駅からも離れてるからずいぶん遅くなっちゃったところに、運悪く母の機嫌が悪い日だったんですよね。それで……まあ、そんな感じ」
「ふ~ん。…で、眠れたの?」
「眠れましたよ。あのお薬は私に合ってるから。なにがあっても、すこーんと眠れちゃいます」
「ほかはいつもと一緒?」
「いつもと一緒です。日曜と木曜。それ以外に今回はその一回でした」
 織田との付き合いも七年になった。ひと月に一度、本当はもうそこまでして通う必要もなくなっているクリニックに、朱音はおしゃべりをする目的で通っている。十六歳だった少女は二十三歳の女性に成長し、三十代だった医師は四十代のオジサンになった。
 処方されている入眠剤は向精神薬に分類される種類ではなく、従って、近所の内科でもらっても構わないのだが、なんとなく「大人の男性とおしゃべりをする時間」を失いたくないという、自分でもうまく説明できない思いがあって、朱音の月一回の「診察」は維持されてきた。
 日曜の夜は、新しい一週間が始まる不安というか緊張から、木曜の夜は、四日間を大勢の人に触れて過ごした気持ちの昂りというか疲労から、入眠剤の力を借りる。それで大過なく過ごせるのだから、このまま一生そうして行くのでも構わないと、朱音は少し前からそんなふうに考え始めていた。
「ああ、でも――この二週間は飲んでません。日曜も、木曜も」
「へえ、なにか心当たりは?」
「カレシができたから」
「あッ、ほんとに?」
「厳密には、カレシと呼んでも間違いではない、くらいの感じだけど」
「二年ぶり、かな?」
「二年……。ああ、そうかも」
「そのカレシに会うと眠れるわけ?」
「日曜と木曜には必ず入眠剤を飲むって言ったら、じゃあ日曜と木曜は必ず会うことにしようって。そう言われちゃうと飲みにくいでしょ? それで飲まずに横になってみたら、眠れました。……不思議じゃないですか? あの人、なにか〈技〉を使ってるのかも」
「そんな〈技〉があるなら僕が習得すべきだな。薬を処方しなくても済む」
「でも、それだと毎日来る人が出てきません? 私は日曜と木曜。それも毎日というか、毎晩みたいな時間だったり。せっかくあんなに綺麗な奥さんが先生みたいな偏屈な人のところに来てくださったのに、そんなことになったらきっと実家に帰られちゃいますよ」
 朱音のあけすけな物言いに苦笑しつつ、織田は処方箋をつくりはじめた。
 織田に〈奥さん〉なる面妖な人物が現れたのは、つい半年ほど前のことである。受付に座る女性が、それまでの(ちょうど朱音の母と同い年くらいの)中年女性から、妙齢の(と言ってもけっこう幅があるけれど)三十代半ばのちょっと色っぽい感じの美人に替わった。朱音はすぐにピンときた。診察室に入るなり、単刀直入に「奥さんですか?」と尋ねたところ、織田が思いがけず照れた。朱音は調子に乗って、「先生は以前、大人になったら私をお嫁さんにしてくれるって、約束してくれましたよね?」と言ってみたのだが、最後まで言い終える前に自分で笑ってしまい、織田を狼狽させることにしくじった。
 決してハンサムではないけれど、おおらかで、柔らかな感じの頭の良さを持つ織田先生――おしゃべりをするのが楽しくて通っているのは、織田に惹かれてきたからだ。が、いかにも年齢の差があり過ぎる。親族に理解ある叔父さんがいるといった存在に近い。真剣に考える相手ではない。
「でもまあ、一応これまでと同じだけ出しとくよ」
「明日フラれるかもしれないから?」
「そしたら来週にも来ることになるのか。薬が足りません!とか言って」
 笑う織田を見ながら、朱音は真面目な顔をつくった。
「明日フラれたら、その足でまっすぐここに来ます」
「僕の前で泣かないでくれよ。そういうのは苦手なんだ」
「そういうのが専門なんじゃないんですか?」
「身の上相談の免許は持ってない」
「来月、まだフラれてなかったら、彼の話をしたいんですけど……」
「じゃあ、少し長めに取っておこう」
 四週間後の同じ土曜日午前中に予約を入れてもらい、朱音は診察室を出た。受付で色っぽい〈奥さん〉に診察代を払い、処方箋を受け取って、道の向かいにある薬局で入眠剤を十錠もらった。週に二回と、予備に二つ。「いつもと同じですね」と薬剤師に声をかけられて、「いつもと同じです」と答えた。
 盛夏の陽射しが痛いほどに降り注いでいる。
 瑞穂(みずほ)との約束のないこの日の午後をどうするか――朱音は家に向かうバス停のベンチに腰掛けはしたものの、一台、二台とやってきたバスをやり過ごした。少し風のある日だが、日陰になっているベンチに座っていても、汗がじわっと滲み出て、こめかみを伝い落ちる。
 瑞穂は今日、双子の姉と一緒に帰郷していた。月に一回の診察――瑞穂ではなく、姉の真帆(まほ)のほうが〈患者〉なのだが、なにしろこの姉弟は二卵性双生児であり、二卵性双生児であることに起因するきっかけから、姉のほうの診察が続けられている。だから、瑞穂も必ず同行する。
 二人は遺伝子研究のサンプルとして育ち、瑞穂曰く「一卵性の引き立て役」として地元の国立大学の研究室に通う中で、姉の聴覚過敏が露見した。女の子の成長に伴う一過性の症状ではなく、それは、彼女が生涯にわたって付き合って行く必要のある器質的問題だった。
 瑞穂からはいつも「姉」と呼ぶなと言われるのだが、朱音にはまだ会ったことのない彼女を「姉」ではない「真帆さん」に落ち着かせるのは難しい。双生児に姉も弟もないという理屈はわかるけれど、姉か妹か、女の「きょうだい」を名指す代名詞は、日本語にはいずれかしかない(「しまい」は固有の誰かを名指す言葉ではない)。数分か数十分の違いであったとはいえ、先に生まれた真帆は(だから)瑞穂の「姉」だ。
 朱音は諦めて――行く当てが見つけられなかった――三台目にやってきたバスに乗った。午後、母がどこかに出かけてくれたらいいのに…と思いながら座席に腰を下ろし、でも、それもあと数カ月の我慢だから…と自分に言い聞かせた。この秋、朱音は家を出る。
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