03:朱音 玄関のドアを開けたとき、

文字数 8,943文字

 玄関のドアを開けたとき、あ、誰もいない…と朱音(あかね)は直感した。その直感が外れるとは思っていなかったが、念のため、リビング、キッチン、洗面(バス)、トイレと一階を確かめてから階段を上がった。母も義父も弟も、気配すら残さずに消えている。気配とは、具体的には冷たい空気の名残り――冷房を切ってから、すでに三十分以上は経過しているはずだ。
 ――このまま消えてくれちゃってもいいんだけど……
 しかし、こんな郊外の一軒家に一人で暮らすのは避けるべきだろう。まず掃除が大変。そもそも通勤が遠いのも嫌で引っ越すのだし。ああ、それに、なにより物騒よね。こんなに魅力的な二十三歳の女が戸建てに一人で暮らしていたら、それはもうむしろ事件を誘っているような話でしょう? きっと被告の弁護士が、失礼な発言を裁判長に咎められるわ。
 昼前に出かけたとなれば、少なくとも陽が傾きはじめるまで彼らは帰らないだろう。朱音は自室で着替えると――織田に会うために少しばかりオシャレをしていた――キッチンに降り、冷蔵庫や乾物を置いた棚などを眺め、ひとまず素麺と晩御飯の残り物があるのを確かめてから、まだお腹が空かなかったので自室に戻った。その間に、東南向きの部屋はすっかり冷えてくれている。
 ――だけど、さて、はて、なにをしよう?
 神崎(かんざき)瑞穂(みずほ)と出会うまで、神崎瑞穂と休日を過ごすようになるまで、いったい自分がこの長大な四十八時間の自由――と言うべきか単なる〈空白〉を、どのように過ごしていたのか忘れてしまった。それもまた、神崎瑞穂の魔法のひとつだ。……いや、思い出した。日がな一日、ネットで賃貸住宅サイトを眺めながら、物件ごとにどんな暮らしが待っているのか想像していたのだ。
 間取り図にベッドやテーブルを置いてみたり、ストリートビューで近くの街を歩いてみたり、一人でニンマリしたり眉を顰めたり。……瑞穂は女の子の部屋を訪ねたいタイプだろうか? それとも自分の部屋に誘いたいタイプだろうか? いや、後者はない。隣り部屋に〈姉〉が暮らしていると聞いた。お金持ちの叔母さんが用意してくれた立派な賃貸マンション。母方の一族がかなりのお金持ちで、叔母さんはその資産管理を一任されているのだとか。
 資産管理という言葉を直接だれかの口から聞いたのは初めてだった。それに、いまどき「本家」なんて呼んでいる人たちがいるということも。しかし実際そこには「本家」と呼ばれるべき広大な敷地と部屋数の多い屋敷があり、なによりも、「本家」ならではの重く湿った空気が梃子でも動かぬ具合に横たわっていたらしい。彼ら姉弟はその家に育ったがために、その空気を強く意識することはなかったそうだけれど。
 ああ、瑞穂に会いたい……。どうにかして会えないものか……。聴覚過敏の〈姉〉が一人で帰ってくれるなら、途中の新横浜で会えるはず。大船からなら、その前の小田原でも、いや熱海でも? おい、こら、朱音ちゃん! いまあなたちょっと淫らな想像をしたわね? 頬が赤くなってるわよ!
 そしてまさかの事態が訪れる――朱音の期待が現実となる――昼過ぎに瑞穂からメッセージが届く――真帆は本家に泊まるが俺は東京に帰る――月浦さん、今日どこかで会えるかな?――そう、瑞穂はまだ朱音を「月浦(つきうら)さん」と呼ぶのだ。朱音がまだ瑞穂を「神崎(かんざき)くん」と呼ぶのと同じように。
 ――これから静岡を出るの?
 ――さっき十二時半の「ひかり」に乗ったとこ
 ――その「ひかり」は熱海には停まるのかしら?
 ――その「停まる」は「泊まる」とのあいだを逡巡してから「停まる」に落ち着いた感じ?
 ――その想像は神崎瑞穂の淫らな欲望? それとも月浦朱音の淫らな印象?
 ――月浦さんに淫らな印象なんてない! 俺の淫らな欲望は否定できないけど…
 ――でもいま世間は夏休みよね? 気の利いたホテルは軒並み値段を釣り上げてそう
 ――我が「池内家」の実力を甘く見てもらっては困るねえ
 ――それはダメ
 ――潔癖で鉄壁で吝嗇な僕の月浦朱音
 ――僕の…て言われちゃった
 ――君の神崎瑞穂より 愛を込めて
 ――真帆さんがいないのなら、今日はあなたのお部屋に行きたいのだけど
 ――!"#$%&'*?
 ――?
 ――ゴメン いまちょっと気絶してたっぽい
 ――??
 ――新横1322着です
 もう時間がない。朱音は母にメッセージを送った。今夜は食事は要らない。友達の家に泊まる。こういうとき、実の父親となればいろいろと面倒な話になるのだろうか? 誰の家に誰と一緒に泊まるのか?と執拗に詮索を入れてきたり、とか。その点、義父は優しい。いや、見たくないものには目をつむる。そこに見たくないものがあると知っていなければ、目をつむって回避することはできない。故に、義父は恐らく母の不貞を知っている。知っているからこそ目をつむる。
 早くこの家を出たい。あと三ヶ月――吝嗇家と呼ばれようとも、お金は徹底して節約する。だから熱海はお預け。素敵なレストランもお預け。
 既読にはなったが、母からはいつものように返信はない。返信などないほうが気楽でいい。高校一年の夏の日のある瞬間から、朱音と母親の関係は変質した。地方の国立大学へ…とも考えたが、それでは終わらせたことにはならないと思った。だから、この七年足らずのあいだ、朱音はただそこだけを目当てに生きてきた。朱音の眼差しがその一点から揺れ動いたことはない。一度で、一発で、ケリをつける。家を出たその日から、母は近しい人間ではなくなる。

     §

 新幹線を降りた瑞穂がそのまま新横浜の改札を出てしまったために、横浜線への乗り換え口で待っていた朱音は時計を見ながら首を傾げていた。小田急沿線に暮らす瑞穂が――小田急を上ろうが下ろうが――横浜線に乗り換えないはずはなく、やがて乗り換え口がふたつあることに気づいた朱音は東口から西口へと移動して、ホームに降り、ふたたび東口から元いた東乗り換え口へと戻ってきた。
 すっかり汗だくになったところでようやくスマートフォンを取り出したのは、朱音という人間の特性をよく表している行動様式かもしれない。
 他方で、田舎者の自分が新幹線の改札から離れるのは得策でないと考えた瑞穂は、その場に立ち尽くしたままで朱音からの連絡を待っていた。
「神崎くん、いま見えている改札口の名前を読んで」
「新幹線東口」
「外? 内?」
「瀬戸内?」
「違うって。ちょっと、もお、なにそれ……」
 お腹を押さえてくつくつと笑い出した朱音の気配に――その姿はむろん見えないものだから――改札の前で瑞穂が怪訝な顔つきをし、反対側の耳に指を突っ込んで、スマートフォンの音に集中する。
「月浦さん?」
「あのね、改札の外か内かって訊いたの」
「なんだ。それなら外に出たよ」
「じゃあ、横浜線の改札から入り直して」
「了解っす!」
 程なく、瑞穂が軽快に改札を駆け抜けてきた。その輝くほどに眩しい笑顔に目を細めはしたものの、そのままの勢いで抱き締められそうな気がした朱音は、思わずクッと身を縮めた。瑞穂は足元から煙が出るほどの急ブレーキで、朱音のわずか数センチ手前に停止した。
「月浦さん、今日も素晴らしく綺麗だ!」
「あ、ありがとう。でもちょっと、近すぎる……」
「危うく抱き締めそうになったよ!」
「声も大きすぎるって。みんな見てるよ、ほら」
 ささっと左右に首を振った瑞穂だが、周囲の様子など――実際、朱音が言うようには誰も二人に注目などしていなかった――まったく意に介さず言葉をつづけた。
「新幹線の駅にこんな綺麗な女の子が待っててくれる男なんて、日本中探してもゼッタイ俺しかいないって断言できるね!」
「なんでそんなにテンション高いの?」
「月浦さんに会えたからさ! それに河合先生から最短で逃げ出せたしね。今日の俺の運勢は☆七つだな、うん!」
 ☆が七つも並ぶ占いなど見たこともないと思いながら、朱音は壁際を横に這うようにして、瑞穂の真正面からすり抜けた。暑さのせいばかりでなく、首まで真っ赤になっているのが自分でもよくわかる。が、朱音が横に逃れた挙動に反応し、こっちに行くんだね?といった顔で瑞穂が歩き出した。朱音は慌ててその腕をつかんだ。
「そっち行ったらまた新幹線乗っちゃうから」
「おっと!」
「ねえ、少し落ち着いて。ほんとに怪我するよ」
 そこでなにごとか、瑞穂は口元でにやりと笑い、急に穏やかな声に変わった。
「俺はいま天啓を得たよ」
「どんな?」
「月浦朱音は運命の女性だ」
「それ、会うたびだいたい同じこと言ってない?」
「ほんとに? そっかあ。俺には絶対的に語彙が足りてないんだなあ。もっと勉強しとけばよかったよ。でもさ、今からでも間に合うよね?」
「間に合うと思うけど、取り敢えず今は電車に乗りましょう。どっちから回りたい? 菊名・渋谷・下高井戸か、町田ひとつかどっちかよ。――あ、小杉から南武線もあるか」
「町田ってさ、俺まだ通ったことない気がする」
 瑞穂が舞い上げたキラキラ光る塵や埃がようやく鎮まって、朱音はいま自分がどこにいて、これからどこに向かおうとしているのかを思い出した。今日は☆七つだと瑞穂は叫んだけれど、朱音は俄かに緊張した。気を引き締めておかないと、とんでもない失敗を犯してしまいそうな予感がする。
 殊に、織田と話したあとは危なかった。十六歳の少女が意を決してドアを叩いたときからの七年間を知る織田と会うことは、なにかも知ってもらっている安心感と、なにもかも知られてしまっている不安感とが織り交ざり、複雑な心模様を惹き起こす。今日は瑞穂の部屋に行きたい…などとメッセージを返してしまったのも、恐らくは織田と会ったすぐあとの出来事だったからだ。
 瑞穂が絶対的に足りていない語彙で〈運命〉と口にする以上の

を、実は朱音のほうこそ感じ取り、それを受け入れ始めていた。瑞穂はこれまで出会った誰とも似ていない。似ている人間は男女を問わずひとりもいない。それは恐らく彼の〈姉〉のせいなのだろうと、朱音にも少しずつその意味が解けてきたところだ。――いずれ私は〈真帆さん〉と対峙しなければならない。しかしそれは瑞穂をめぐる奪い合いなどではなく、自分自身との遭遇・邂逅とでも呼ぶべきものになるだろう。そうでなければならないはずだ。
 生まれて初めて町田に降り立った瑞穂は、東京の端っこにこんな大都会があるのかあ…と大袈裟に感嘆し、土曜の午後の人混みを楽しそうにきょろきょろと見回した。暑いけど手をつなぐか?暑いから手はつながないか?と困難な選択を迫られて、ん~…とやや迷った末に、朱音は暑くてもいい!と答え、瑞穂を大いに喜ばせた。が、しかし、やはり暑かった。
 瑞穂の賃貸マンションを訪ねるのは初めてのことだ。が、話はずいぶん聞いている。母方の一族の資産で――彼らの叔母(母親の二番目の妹)の名義で――借りられており、少なくとも今後四年のあいだは家賃負担を保証してくれているという話だった。それは偏に〈真帆〉の聴覚過敏と、それに伴う軽度の自閉症状――〈音〉への恐怖心――への配慮であり、〈真帆〉が〈音〉に煩わされることなく暮らせるように整えられた環境にほかならない。
 瑞穂もまた同様に、

隣り合う部屋に暮らしている。
「確かにこれ、うちの新入社員のお給料で借りられる部屋じゃないね」
 そこは暇さえあれば賃貸住宅サイトを眺めてきた朱音の目利きである。
「それに、ほんとになんにもない」
「嘘はつかないさ」
「少し大袈裟に言ってるのかな?て思ってたんだけど……」
 クローゼットは作り付けで、キッチンの上下に棚や収納があるとはいうものの、見たところ、ベッドと冷蔵庫と電子レンジ、そしてローテーブルがひとつ――ただそれだけの部屋である。テーブルの上にノートパソコンが置いてある以外、モノと言うべきモノがひとつもなかった。
「なにか足りない?」
「まあ、確かにね。これで足るてると言われれば、その通りだと思う」
 仮にもし付け加えるとすれば――本やDVD、テレビやステレオ、フィギュアやプラモデル、釣り竿やカメラ、トレーニングマシンやイーゼル……どれも「趣味」や「暇潰し」に分類されるモノしか思い浮かばない。無趣味だ!と自信満々に言い放つ瑞穂の部屋には、とにかく何もない。
「でもさ、実はこの感じ、『池内』ではちょっと警戒されるんだよね」
「どうして?」

の中でも飛び切りおかしな二人が、やっぱりこんな部屋に暮らしてるんだよ」
 ここで、その二人はどこがどうおかしいのか?とは、朱音は尋ねない。物問いたげにではなく、意味を受け取り損ねたかのように、小首を傾げる。その説明をするもしないも瑞穂に預け、むしろ思いもかけない挙動でこの場が一掃されてしまうことを警戒する。あるいはそれは、朱音に特有の身振りだとは言えないかもしれない。誰もがそうするのかもしれない。
 

の中におかしな人間がいるという話は――それも

というのであれば尚更のこと――月浦朱音と神崎瑞穂のこの場においてはどうでもいい事実だ。実際のところ、そんな

がいるのでもいないのでもいいし、二人いるなら三人いても構わない。この手の言説は――瑞穂が計算して口にしたとは思えないけれど――効果的な誘惑の色を帯びる。
 朱音はそのように受け取って言葉を返さなかった。瑞穂もそのように受け取られたことに応じて腕を伸ばした。当然そうなるものと、果たして朱音は待ち構えていただろうか? 恐らくそうではないだろう。「おかしな

の話」が帯びている色合いを、そうされてみて初めて朱音は認識したのに違いない。ただし、初めからわかっていたかのように、だ。

     §

 先に瑞穂がくしゃみを始め、それを笑った朱音にもくしゃみが出て、二度三度はおろか四度五度と止まらなくなり、合い間に笑っては顔をゆがめて鼻をこすり、二人は脱ぎ捨てた衣服を探した。それはベッドの周りにはなく、ダイニングからユニットバスに渡って散らかっていたわけだから、身をかがめて拾って歩く様子はいかにもみっともなく思えた。
 どういう経緯があったのか――我々人類は羞恥心という不可思議なものを発明する以前から衣服を身につけていたようであり――つまりは衣服の発明が羞恥心なるものを生み出したようであり――着衣を終えた朱音は落ち着かない様子で瞳を泳がせながら、フロアリングの床に正座をした。求められたわけではないのだが、瑞穂も思わず向かい側で同じ姿勢をとった。…と、朱音が急に畏まり、膝の前に三つ指をついて丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「あ、いえ、こちらこそ……?」
「たいへんお上手なお手並みで、ご経験の深さを窺い知る思いが致します」
 どこか日本語がおかしいように感じながらも、瑞穂は返答に困った。困ったらその場で訊いてしまうのが、瑞穂という男である。
「ここって謙遜すればいいところ?」
「謙遜て、どんなふうに?」
「いやぁ、それほどでも~とか?」
「皮肉で言ったつもりだったんだけど」
「あ、だから、

のほうじゃなくて、

のほうだよ」
「けっこうなお手前で、なんて言ってないわ」
「でもなんかそんなこと言ったよね?」
「知らない!」
 すっと立ち上がった朱音はつかつかと冷蔵庫の前に歩み寄り、扉を開けた。
「これって飲めるの?」
 と、麦茶を水出ししたボトルを取り出して、瑞穂に見せた。
「飲めるの?じゃなくて、飲んでいい?だよね」
「一人暮らしの男の子の冷蔵庫なんて、世の中でいちばん信用できないやつでしょう?」
「昨夜つくったばっかりだって」
「真帆さんが?」
「真帆は俺の冷蔵庫になんてまったく興味がない」
 そんなやり取りのあいだに、キッチンまでやってきていた瑞穂からグラスを受けって、朱音はそれを矯めつ眇めつ眺めてから水道でさっと洗い、麦茶を注いだ。お願いします…といった具合に両手で差し出す瑞穂のグラスにも――こちらは水道で洗うことはせず――注いであげた。二人とも一息に飲み干すと、ふう~ッと大きく息をついた。
 陽が傾いてから買い物に出かけ、夕飯をつくった。どうせなにもできないのだろうと決めてかかっていたところ、瑞穂が思いがけず戦力になる事実を発見し、朱音は大袈裟に驚いてみせた。が、

 だろう?と調子に乗ってふざけたことを口にした背中を、思い切り叩いてやった。
 映画を観ながら食べようと瑞穂が提案し、二人はベッドの縁に背を凭せ掛け、テーブルの上にノートパソコンを開いた。瑞穂は会員制の動画サイトを開き、見放題のランナップに朱音の眼を誘った。――『シン・ゴジラ』…No! 『この世界の片隅に』…No! 『ジュラシック・ワールド』…reserve. 『トゥモロー・ランド』…!? 『君の膵臓をたべたい』…?? 『オレンジ』…No! 『オリエント急行殺人事件』…reserve. 『海街diary』…No! 『アフタースクール』…Yes!!
「基準がさっぱりわからない」
「神崎くんはどれを観たいの?」
「可愛い女の子が出てくるやつ」
「ああ、ラフィ・キャシディとか、広瀬すずとか」
「そうそう」
「じゃ、『アフタースクール』に決まりね。私この監督さんの映画ほかにも観てるんだけど、とってもおもしろかった」
 適度な緊張と弛緩を繰り返す、良質な――特に役者が皆すべて一流の――エンターテイメント作品である。穿った見方をせず、捻くれたことは考えず、見せられるものをそのまま素直に見られる人間には、後味がいい。つまり、瑞穂は作り手の目論見通りに騙されて、大いに楽しんだわけだ。
 食事の片づけを終えたのが九時前で、まだまだ長い夜が待っていた。目的地のない寄り道ばかりのおしゃべりの途中に、瑞穂のスマートフォンに真帆からメッセージが届いた。隠そうともせずやり取りをはじめた瑞穂の手元が気になって、しかし覗き見るような真似はしたくなく、朱音は自分もまたスマートフォンを無目的にいじった。
 瑞穂と真帆の「会話」は短かった。
「もういいの?」
「真帆は昼まで一緒にいて、明日には隣りに帰ってくる。こんなメッセージなんて不必要だ」
「どんなメッセージ?」
「私がいない隙に女の子を連れ込んでる?――大正解!」
「それって私のことよね?」
「俺は二股をかけたことは一度もない」
「真帆さんには良く思われないわけね、私が鬼の居ぬ間に…みたいにしてここにきたりすると」
「そんな話じゃない。ほら、見てごらんよ」
 と、今まさにやり取りしていたメッセージをそのまま開いた形でスマートフォンを渡されてしまい、拒絶するのも熟読するのにも抵抗を感じつつ、それでも朱音は好奇心に抗い切れなかった。概ね好奇心というやつは、それを抱いた人間の胸を不穏に揺さぶるものであり、朱音もやはり戸惑い気味に顔を上げた。――これ、いま神崎くんが書いたの?と、その顔に書いてある。
「補足説明が必要かな?」
「違うの。なんだかこれ、神崎くんじゃないみたいに思えたから」
「俺と真帆は双子だよ」
「うん、それはわかってるんだけど……」
「子宮の中でも産湯の中でもベッドの中でも、いつもずっと互いの体をすり寄せて育った。本家でも壁一枚の隣り部屋だったし、東京でも隣り合う部屋に暮らしている。だから月浦さん、真帆は君の知らない神崎瑞穂を大量に知っている。この先も計測可能な量としては、君は真帆には追いつけないかもしれない。実際俺はまだ真帆のそばを離れるわけにはいかないんだ。常葉叔母さんがここを四年間借りたのは、少なくともそのあいだは真帆のそばにいたほうがいいと、あの人がそう考えているということだ。俺はそれに逆らえない。いや、逆らえないとかいう言い方はおかしいな。常葉さんがそう考えているからには、きっとそうすべきなんだよ。真帆のためにも、俺のためにも」
 瑞穂と真帆とのやり取りは、朱音のまだ知らない瑞穂の姿を映していた。こんなふうに、真帆のこととなると途端に熱を帯びてしまう話しぶりは、これまでも幾度か出会っている。けれども、メッセージに連なる言葉のやさしさは、瑞穂にとって今は真帆がいちばん大切な、あるいはもっとも注意深く扱わなければならない人間であることを、これ以上ないほど明瞭に示していた。
 瑞穂と真帆の四年間は、始まってまだ半年も経っていない。この先、三年半以上ものあいだ、どのようなことが起ころうとも――とは言い過ぎかもしれないが――家を出た朱音が瑞穂と一緒に暮らすような日はやってこないわけだ。……朱音はこれまで一度もそんなことを考えてこなかったのだが、瑞穂の今の話がそれを考えさせる契機となった。
 この類の思念は、いったん浮かび上がると容易には消え去らない。頭なのか胸なのか、どこだかはっきりとはわからないけれど、とにかく襞のようなところに潜んでしまい、折につけちらりと顔を覗かせる。捉えようとすればさっと身を隠す。そして茫漠として掴み難い不安感を――なにに対してだか特定できない不安感を――微かな圧迫感とともに呼び起こす。
 瑞穂のベッドは狭かった。心地よい疲労感とともにいったんは寝ついた朱音だったが、深夜に目を覚ました。そっと床に降り、薄明りの中でバッグの中を探りはじめた途中で、今日は入眠剤を持たずに家を出たことを思い出した。瑞穂と会うのだから、瑞穂と一緒に過ごすのだから、必要ないと考えたことを思い出した。
 ベッドに戻り、端に座り、瑞穂の顔を眺めた。初めて目にする瑞穂の寝顔だ。表情が消えると別人のように見えるという話も聞くけれど、瑞穂に関しては当て嵌まらないらしい。寝ても醒めても――は意味が違うけれど――瑞穂は瑞穂のまま眠っている。
 手を伸ばし、頬に触れてみた。できれば明日からでも――いや、日付が変わっているから今日からすぐに――瑞穂のそばで暮らしたい。どこか、隣りに〈真帆〉のいない、〈真帆〉の手が届かない、〈真帆〉の耳に届かない、二人だけの部屋で。
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