04:彩愛 日曜日の診察は十二時半で終える。

文字数 5,210文字

 日曜日の診察は十二時半で終える。今日は桜木町に出て遅い昼食をとる計画だった。そのあとは元町で誕生日プレゼントを選ぶ。僕があれこれと思い悩むより間違いがなくていい――織田という男はそういう発想をする。恐らくだから四十を過ぎるまで独り身だったのだろう。プレゼントという祭事の持つ意味を履き違えている。選ばれた品物が相手の好みに合致しているかどうかは問題ではないのだ。彼があれこれと思い悩むところにこそ価値がある。
 ところが、最後の患者が思いのほか長っ尻で、人のいい織田はそれに付き合って話がなかなか終わらなかった。どこからどう見ても抑うつ症や不安障害などを抱えているようには思えない。驚くほどに背が高く、他方で身ごなしに軽妙さを感じさせる男であり、目鼻立ちが大きく骨張った顔の上に、皮肉っぽい――あるいは愛嬌のある――笑みを浮かべつつ現れた男だ。
 患者の親族かもしれない――時々そういう相談がある。医者にかかるべき状況に周りは困っているのだが、本人がそれを受け入れようとしない。よくある話だ。しかし彩愛(あやめ)も半年ばかりクリニックの受付に座ってみて、ひとつ気づいたことがある。自ら病気だと訴えて駆け込んでくる患者のほとんどが、単に不快なだけの――あるいは都合が悪いだけの――現状から、良心の呵責を感じることなく逃れられる免罪符として、専門医の診断書を求めるのである。
 だが、いま織田と話している男がそんなものを欲しがるなんて、想像もできなかった。自信満々というのでもない、余裕綽々というのでもない、どこか浮世離れした気配を漂わせている。適切な喩えになるかわからないけれど、蚊の目玉のスープだと謳われて出された皿から、スプーンに一匙掬って口にしたところで、これは蚊の目玉のスープじゃないよ、と笑えるような気配である。言うまでもなく、男はそれ(

)を賞味した経験があるというオチだ。
 十二時半を二十分ばかり経過して――つまり話し始めて五十分も経ってから――彩愛が痺れを切らせて診察室の扉をノックしかけたところ、ふっと男が椅子を立った。やってきたときと同じように笑みを含みながら診察代を支払うと――指が斬れそうなほどの新札だった――大きな体を軽々と運んで表に出た。彩愛は訝しげな表情で、盛夏の陽射しの下を行く背中を見送った。
「不思議な男だったなあ」
 ふと、隣りに織田が並んで立っていた。
「あの人、患者さんじゃないわよね?」
「おお、大正解!」
「どなたかご家族のことで困ってるとか、そんな話?」
「彼と君とは五つのステップでつながっている」
「難しいこと言わないで」
「そんなに難しくもないさ。いいかい?――彼、彼の従妹の女の子、その女の子の弟、その弟のカノジョ、そのカノジョの医者、その医者の妻」
 と、織田は「医者」と言うところで自身を指差し、「妻」と言うところで彩愛を指差した。
「ひとつ多くない? 従妹の女の子の弟なら、従弟の男の子よ」
「そこが大事なところでね。あいだに従妹の女の子がいるからこそ、彼は俺に会いにきたんだよ。……まあ、この話はあとだ。いや、この話はできないか。俺にもまだよくわからない」
「話してくれなくていい。それよりお腹が空いた」
「そうだね。すぐに出かけよう」
 しかし――いや、そして――案の定、根岸線内でも桜木町のレストランでも、織田はなにごとか考え続けていた。

もなにもない。診察時間の最後に現れた、あの長身の男が持ち込んだ話に気をとられているのだ。それでも元町での買い物の際には、彩愛のプレゼント選びに意識を向けてくれたから善しとしよう。
 昼食が遅かったので晩御飯は軽く済ませた。家に帰ってきてからあと、織田には珍しく、リビングでずっとノートパソコンを開いている。心なしか難しい顔になった。彩愛は九時からテレビドラマを観たかったのだが、リビングから出てくれとは言いたくない。
 ソファーの隣りに腰掛けても、織田はディスプレイを隠すようなことも、ブラウザを閉じるようなこともしなかった。彩愛が横目で覗き見ると、タブがいくつも並んでいる。覗き見されていることに気づいた織田は、タブを切り替え、ページを上にスクロールして、一枚の写真を中央に持ってきた。
「この人とどこかで会っているんだけど、思い出せない」
「池内常葉、さん?」
「今日きた大男の叔母さんだよ」
「有名な人なのね?」
「循環器系ではトップクラスの医者だったらしい」
「今は?」
「大手の製薬会社にいる」
 難しい顔の理由は判明した。患者の親族ということらしい。いや、彼は患者ではなかった。それに、彩愛はふと思い出したのだが、織田が口にした彼と自分とのあいだにある五つのステップには、〈池内常葉〉なる〈叔母〉は登場していない。
「でも、あなたの話には出てこなかったわよね? この人」
「問題の従姉弟の母親じゃないからね。……ああ、でもどこで会ったんだろうなあ」
「大学は違うの?」
「俺と違って大秀才だよ。この写真ではわからないけど、やっぱり背の高い人でさ。……あ、ちょっと待てよ。パーティー、披露宴、いや、葬式だ! 木之下さんだ」
 織田の話によれば――その木之下という人物は数年前に五十代で亡くなっており、もし七十代まで生きていればノーベル賞をもらってもおかしくないくらい、高名な研究者であったという。ノーベル賞はさすがに大袈裟だけど…と織田が笑ったのは、木之下氏は研究者であることよりも臨床医であることが自分の務めだと考えていた人で、多くの人間に慕われていたらしい。
「大野さんのクリニックと大学病院を掛け持ちしていたときだよ、木之下さんとよく食堂で一緒になった。テーブルに座るなり機銃掃射みたいに質問を浴びせかけてくる人でさ、なにを食ったのか忘れてしまうくらい必死に答えたもんだ。なにしろ有名な先生だったし」
「どうしてあなたに?」
「偶然だよ。食堂のテーブルで俺の名札を見て、心療内科だってわかったらいきなり話しかけてきた。こういう患者がいま入院してるんだが君はどう思うか?てな具合にね。それからは見つかるたびに捕まった。気に入られたんだろうな、有り難いことに」
「その木之下さんを通じてこの人と関係しているわけね?」
「うん、間違いない。あれは木之下さんの三回忌だ」
 立っているだけで人目を惹く女性だったと言う。背が高いからというだけではなく、その強烈な眼光と、怜悧の迸る額とに、織田も思わず目を奪われ足を止めた。何者だ!?と好奇心を大きに掻き立てられ、それとなく近くに寄った。恐らく意識的にそうしていたのだろう、彼女は椅子には腰掛けず、壁を背に身じろぎもせず祭壇を睨みつけていた。口元が皮肉っぽく歪んでいたのは、木之下のような人物を五十代で失う運命というなにものかへの、当て擦りだったのかもしれない。
 ――あなたも教授に教わったの?
 ――私は教授に個人的にお教え差し上げました
 ――あらまあ、畏れ多いこと
 ――息つく間もなく矢継ぎ早に質問を浴びせかけられましたよ
 ――それは「教わった」ていうことよ、覚えておくといいわ
 池内常葉は祭壇から眼を離さずに、そこで口元にふっと笑みを含んだ。
 ――でも、そう、あなたもやられたわけね
 ――我々は同志ということですか?
 ――お互い幸せだわね
 ――ああ、はい
 ――ありがとう。今日ここにきた甲斐があった
 木之下を知る誰かと話ができたから充分だと考えたのか(織田はそう感じたそうである)、池内常葉はそこで立っていた壁から離れ、祭場をあとにした。――因縁と呼ぶほどの出来事でもないが、今になって間接的にも彼女の親族と関わりができたことを、織田はおもしろそうに話した。
「会いに行くつもり?」
「え、この人に?」
「そんなふうに聞こえたから」
「そうか。――ん~、どうなんだろう……。俺はこの人に会いたいのかな……」
「そもそも今日の彼はどんな話だったの?」
「一方的に従妹の女の子のことを聞かされたよ。承知しておいてくれ、て意味だろうな」
「その子の弟のカノジョがあなたの患者だから?」
「彼は親族の心配をしている。僕の患者とカレシとの関係が、カレシの姉である彼の従妹の上に、好ましからざる影響を及ぼすのではないか?と恐れている。実際、彼が話した内容が事実であれば、ちょっと厄介なことになる可能性は否定できない。だからと言って俺になにができるというわけでもない。……そうなんだよな。結局のところ彼は、俺になにを求めているのかね?」
 彩愛はそこでふと視線を外し、ちらっと天井の灯りに眼を向けてから、織田に首を傾げて見せた。
「もしかして、昨日の今日って話なの?」
「君は勘がいいね」
「でも、それって、あなた――」
「彼は賢い人間だ。最初から最後まで〈月浦朱音〉の〈つ〉の字も〈あ〉の字も口にしなかった。もちろん俺も朱音ちゃんに関してはなにひとつ口にしちゃいない。俺の患者にそんな女の子がいるということすらね。……だけど、彼が指し示している人間が朱音ちゃんであることは疑う余地がない。すべてが符合する。そもそも彼は、朱音ちゃんが俺の患者であるのを承知してやってきたんだから、符合するのは当たり前なんだ。……まさに昨日の今日だよ。朱音ちゃんが昨日、カレシができたって教えてくれてたからこそ、あの男の話が俺の中でつながった。彼は昨日の話を聞いていたのかもしれない。もしくは朱音ちゃんが昨日カレシのことを口にするとわかっていたのかもしれない。……正直、気味が悪い話だけど、そんな気がする」
 彩愛の中に、唐突に様々な思念が湧き出して、それらが互いにつながり合った。そのことに、彩愛は微かに身震いしながら、やや熱を帯びた言葉を返した。
「あなたは今とっても怖いことを言ってると思う。……あの男は、もし自分の従妹になにかよくないことが起きれば、月浦さんをその周辺から排除するって言ったわけでしょ? その万が一のときのために、主治医であるあなたは心積もりをしておけって、わざわざご丁寧にもそう警告しにきたってことよ。……私、月浦さんが高校生の頃どんなふうだったのか知らないけど、あなたはまだ彼女のことを心配してるのよね。つまり彼女は、そんなふうに気持ちを大きく揺さぶられるようなことが起きれば、あんな入眠剤の処方だけじゃ済まなくなるわけでしょ? まだあの子はそういうリスクを抱えているわけでしょ? 悪い言い方だけど、あなたに後始末を依頼しにきたようなものだわ」
「そこまではちょっと穿ち過ぎじゃないかなあ。……彼にとって従妹の女の子が心配な親族であるのは間違いないにしても、その弟だってやはり親族だよ。同じいとこだ」
「それなら彼は、なんのために従妹の話をあなたに持ってきたの?」
「三人が穏やかに落ち着くべき場所に収まるよう、力を貸してくれって意味だと思うけどね」
「さっきはあなた、なにを求められているのかわからない、て言わなかった?」
「君と話していて、なんとなく思い至ったんだよ。たぶんそういうことなんだな、て」
 彩愛は黙り込んだ。どうしてこんな話をしているのだろう…と思った。今日は誕生日のプレゼントを買ってもらったのに、その夜にどうしてこんな話をしているのか? 特別な日曜日の特別な夜なのに、どうして気分良くベッドに入っていないのか? 夕方まではあったはずのそんな気配が、どこを探しても消えて見つからなくなってしまったのはどうしたわけか?
「俺はお人好しだからな」
「私、そんなこと言うつもりは――」
「いや、ごめん。君を皮肉ったわけじゃない。自分を卑下しているのでもない。実際、俺と彼とは力を合わせるべきだと思う。朱音ちゃんはもう高校生じゃない。大学を出た社会人だ。おかしなふうに聞こえるかもしれないけど、それはつまり、彼女はもう傷ついていい年齢でも立場でもないってことだ。子供なら護られるし赦されもする。癒されれば快復もする。だけど彼女にそれはもう望めない。望んではいけない。だから俺のような人間が力を貸すわけさ。俺はそういう商売をしているんだと思ってる。そんなふうに考える人間を、世間では〈お人好し〉て言うんだ」
「あなたの話は難しい……」
 織田が膝の上のノートパソコンを閉じ、テーブルに置いた。ずっとそこにノートパソコンを据えていたせいで、織田の膝の上は人肌よりも温かくなっている。おかしな格好だな…と思いながらも、彩愛はそこに頬を寄せた。膝枕というやつは、本来(理由はわからないけれど)、男が女の膝に頬を乗せるものだ。どうしてそうなのだろう? これをおかしな格好だと思う私は、いつそれをおかしな格好だと知ったのだろう? 誰からそう教わったのだろう? ――髪を探っていた織田の手が、首筋を経て女の体に降りてくるのを待ち受けながら、彩愛は目を閉じ、物思いを追い払った。
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