15:真帆 河合教授といつものおしゃべりを

文字数 5,310文字

 河合教授といつものおしゃべりを終えると――本当は問診であり診断であり観察であるのだが――、瑞穂(みずほ)はさっさといちばん早い新幹線に乗って帰ってしまう。月浦朱音という名の同い年の彼女ができたせいだ。大船に澄んでいるという話だったから、きっと熱海か小田原か新横浜かで待ち合わせをするのだろう。熱海の温泉旅館に泊まるのかもしれないし、小田原から小田急線に乗って真っ直ぐマンションに向かうのかもしれないし、横浜の街でデートを愉しむのかもしれない。真帆(まほ)にとってはどれも同じ話だ。大学からひとりで本家に向かう。生まれ育った「池内」の本家であり、そこに神崎の父母がいて、池内の叔父がいる。古く大きな屋敷には、真帆と瑞穂が東京に出たこの春から、いまは三人しか暮らしていない。祖母が健在だった時期もある。従兄が一緒に暮らしていた時期もある。一番下の叔母がやってくるという話もあった。祖父の記憶はない。あるのは写真を見て、話を聞いて、亡くなった後から造られた記憶だ。
 地元の友達と連絡をとることもある。けれども母が食事の支度をして待っているからお茶をしながらおしゃべりをするくらいだ。そもそも真帆はお酒が好きではない。いや、違う。酒場が好きではない。これも違う。酒場の喧騒に耐えられない。もちろんイヤーマフをして出かけるのだが、そうすると今度は喧騒と一緒に目の前の友達のおしゃべりも遠退いてしまう。残念だし、悲しくなる。だから酒場へは行きたくない。職場での歓迎会や暑気払いには顔を出した。しかし話について行こうと頑張れば、恐ろしく消耗することになる。だからただ黙ってにこにこしていた。そういう子なのだと、多くの人間に思われている。直属の上司をはじめとする同じ課の人たちは事情を理解してくれている。それで不満はないし、むしろそのような小さなコミュニティの中のほうが落ち着く。
 今月は友達と予定を合わせられず、真帆は三時過ぎには「池内」の本家に着いた。思わぬ人が待っていた。なにか大事な話があるのだろう。そうでなければ叔母の常葉が本家に顔を出すことはない。従兄がここを出たとき、一番下の叔母がここには帰ってこないと告げにきたとき、そして真帆と瑞穂が東京に暮らす賃貸マンションの契約を終えたとき――真帆が覚えているのはそれくらいだ。
「河合は元気にしてるの?」
 叔父と叔母が待つ居間に入ると、母が熱いお茶を淹れてくれた。
「お元気です」
「あの人ちゃんとお風呂入ってるのかしら……。ねえ、臭わなかった?」
「常葉さんすぐそんなこと言うけど、河合先生はいつも清潔だよ」
「真帆が会いにくるときだけじゃないのかしらねえ」
 皮肉な表情で笑いながらお茶を口にして、熱そうにちょっと顔を顰めた。
「なにか新しい観察は?」
「あ、特別なにも。職場での過ごし方にも慣れてきたし、困っていることもないし」
「河合にも月浦の話はしたの?」
 真帆は小さく息を呑んでから、諦めた者がするように首を横に振った。
「瑞穂が一緒だったから……」
「ねえ、真帆。私は今日あんたに謝りにきたのよ」
「謝る? 私に? 常葉さんが? どうして? なにを?」
 そこまで言い終わるのを待ってから、常葉は真帆の顔をじっと見て言った。
「真帆、私たちと一緒に暮らしなさい」
 文節が意味するところは明らかなのに、真帆には言っている意味がつかめなかった。
「本当はこの春からそうすべきだったのにね。私が間違えた。間違った判断をした。そのうえ四年契約だとか、さらに悪い条件を重ねてしまったわ。ごめんなさいね。許してね。――いま新しいマンション探してるから、見つかったらそこにいらっしゃい。叶と静花と私がいる。夏馬も週に一回は顔を出す。あなたがいるべき場所よ。初めからそうすべきだったのに、私ったらなにを血迷ったのか。本当にごめんなさい。許してね。――食事のときは叶を手伝ってちょうだい。洗濯物は自分で責任を持つこと。掃除は当番制だけど、自分の部屋はそれぞれでね。食費や光熱費は少し出してもらうわよ、そのほうがお互い遠慮なくできるから。でも家賃は要らない。あと、そうねえ、なにがあるかしらねえ……」
「おい、常葉。ひとりで先に進み過ぎだ」
 叔父がそう言って、はじめは真帆の眼に向かって語りかけていたはずなのに、いつの間にかものを考えながら眉間にしわを寄せている叔母を、居間のテーブルの現実に引き戻そうとした。
「ねえ、兄さん――賃貸契約ってさ、途中で解約するとどうなるんだっけ?」
「一ヶ月前に伝えればいいはずだよ」
「違約金は?」
「一般的にはない。契約によるが、あそこはまず発生しないだろうな」
「ふ~ん、そういうもの。――姉さんは引っ越しの手伝いにくるつもり?」
「行かないわよ。手伝いが要るなら夏馬にやらせればいいでしょう。どうせぷらぷらしてるんだから。真帆にそんな荷物があるとは思えないけどね、半年しか経ってないんだし」
「ふつうは母親が手伝いにくるんじゃないの?」
「結婚して子供がいるとかなら考えるけど。一人暮らしの娘の引っ越しなんか、わざわざ手伝いに行かないわよ」
「ふ~ん、そういうもの。――ああ、兄さんさ、それで新しいマンションのほうなんだけど、売って買ってというわけにはいかないから、買って売ってになるのよね。一時的にけっこうな額を現金化することになるんだけど、そのつもりでいてちょうだい」
「銀行から連絡があったらそう言え、てことだな。わかった」
 池内の姉兄妹(きようだい)は――長女の芙蓉と長男の拓馬と三女の常葉とは――そうして今この場で確かめる必要もないはずの手続きについて、もうしばらく話をつづけた。
 初めは呆然とした顔を見せたものの、そのあとすぐに泣き出してしまった真帆の魂が、ここ数カ月を過ごした不安の淵の底から顔を上げ、陽射しに眼を慣らして周りが見えるようになるまでの、それは要するに時間稼ぎだった。やがて真帆が、わざわざ手伝いになんか行かないと突き放すように言った母の本音に思い至り、従兄の夏馬はものを乱暴に扱うからやはり母に手伝いにきてほしいと、甘えたことを口にするようになるまでの時間稼ぎである。
 しかし叔母の常葉が二度までも、「ごめんなさいね。許してね」なんて言葉を口にしたものだから、真帆の涙はそんな短時間では止まらなかった。だから程なく池内の姉兄妹(きようだい)も、時間稼ぎなどすることを諦めて、黙ってお茶をすすりながら、自分たちが生まれた頃にはまだ新しかった居間の天井の梁や、手入れが面倒だからとすっかり植木を切り倒してしまった縁側の向こうの庭などへ、所在なく視線を往来させながら真帆を待った。
 この日は土曜日で、だから父がいないのはきっと担当している部活がどこかに出かける引率の用事でもあったのだろうと、やがて真帆がそんなことを考えはじめた。そんな気配を最初に察知したのは母親で、真帆にティッシュボックスを手渡した。真帆がそれを抱え込み、悪い癖で不必要に何枚も何枚もティッシュを引っ張り出し、その手がやがて止まるまで、叔父も叔母も縁側の向こうの庭を眺めながら、息がつまらないようにという程度の言葉をぽつぽつと交わしていた。
「でも、常葉さん――」
 真帆は最初に叔母に呼びかけた。常葉が顔を向けるのを待ってから、ふと思いついたことを口にした。
「そんな話、瑞穂が黙って受け入れるはずないと思う」
「そっちは夏馬がなんとかするはずよ」
「そっちが夏馬さんで、こっちが常葉さんなの?」
「あんたにそんなふうに泣かれたら、夏馬はパニックになるでしょうが」
「そっか。そうだね。――あの、私のお部屋って、広い?」
「さあ、どうなるかまだわからないわね。広い部屋を静花と分け合ってもらうかもしれないし」
「でも、静花ちゃんてカレシいるよね?」
「いたわねえ、そう言えば。忘れてたわ、それ。簡単な仕切りじゃすまないのか。ちゃんと五部屋必要なのか。新しいの見つかるまで、ちょっと時間かかるかもしれないわねえ」
「今の私の部屋ってさ、解約しないで、誰か入ればいいんじゃない?」
「いいわけないでしょ、あんな高いマンション。あんたのために用意したんだからね。瑞穂にだって出てってもらうわよ。ふつうの安アパートで充分」
「なんだか瑞穂が可哀そう。これまでずっと一緒だったのに……」
 そうだ、瑞穂とはずっと一緒だった。母のおなかの中にいるときから。保育園も、小学校から大学まですべての学校でも。社会人になった今でさえ隣り合う部屋に。
 真帆はすっと立ち上がった。母と叔父と叔母をあとに居間を出た。階段を上がり、この春まで過ごしていた部屋を覗いた。今日はここに泊まるので母がベッドメイクをしてくれていた。隣りの部屋を覗いた。瑞穂のベッドはマットレスが剥き出しのままだった。締め切った窓のせいで、それに瑞穂はこの部屋で小学生から大学生になったものだから、鼻を突っ込むとぷんと瑞穂の匂いがした。男の子の匂いだ。これまで気がつかなかった。今日になって、今になって、きっと叔母からあんな話を聞いたから、瑞穂が急に男の子に――いや、成人男子になった。
 真帆はそのまま瑞穂の部屋に入った。
 なにもない部屋。ベッドと机とクローゼットしかない。いまはどれも空っぽだ。窓には色褪せたレースのカーテンが引いてある。真帆は歩み寄ってそれを手に取った。鼻に近づけてみるとレースのカーテンからも瑞穂の匂いがした。色あせて見えるのは瑞穂の匂いが染みついたせいなのだ。今度はクローゼットの中に鼻を突っ込んでみた。ここのほうがもっと強く臭う。いつも瑞穂の服が――学生服やジャケットやコートが吊る下がっていたからだ。今度は机の椅子に座ってみた。机の表面に頬をつけてみた。冷たいけれど、ここからはなにも匂わない。古い木の匂いだけ。最後にマットレスの上に俯せになった。やはりこれがいちばん強く匂う。瑞穂の匂い――男の子の匂い――いや、瑞穂の匂いだ。男の子の匂いに紛れ込んでしまうことのない瑞穂だけの匂いだ。自分にはまだそれがわかる。いつかわからなくなってしまうのだろうか。
 私たちは倫理的に見て変なことをしてきた。双子だから許されることをしてきた。お互いの成熟がお互いを理解不能な存在に変えて行く経過をつぶさに観察してきた。じっくりと間近に見せ合ってきた。あるときふと気がついてみたら相手が相互理解のままならない見知らぬ怪物に変貌してしまっていた…なんてことにならないように。瑞穂のペニスが勃起する様子も見た。真帆のヴァギナが濡れる様子も見せた。いつまでそんなことを続けたのだったか。結局そんなことをしても理解は決して及ばないのだということを悟り、やめた。
 だけど相手のために日記をつけることはやめなかった。それをやめたのはつい数ケ月前のことだ。いつからか真帆が嘘の日記をつけ始めていたことを隠せなくなった。しかし瑞穂はずっと前から知っていた。真帆の日記が瑞穂の日記を追いかけるだけの稚拙な創作に過ぎなくなっていることに。だから真帆は瑞穂に謝った。謝るべきだと思ったのだ。瑞穂は本当のことを記してきたのだから。裏切りとまでは言い過ぎかもしれないけれど。日記は今でもインターネットのクラウド上に残っている。アカウントもパスワードも二人しか知らない。
 真帆はふとベッドから起き上がり、母の世代からずっと書庫として使われてきた北側の大きな部屋に入った。ここでは古本屋さんに入ったときと同じ匂いがした。湿った紙の匂い。一族の人間の手垢の匂い。真帆はアンブローズ・ビアスの選集を探した。それはチェーホフの全集の後ろにあるはずだった。『ビアス選集4 幽霊2』の箱を取り出した。二人が電子デバイスを与えられる前まで使っていた日記帳が入っている。B6版のノート。真帆は少し迷った。けれどもやはりこれはいつまでもここに置いておくべきではないと決断した。
 自分の部屋に戻ると日記帳を枕の下に隠した。明日、ここを出るときにバッグに入れて持ち帰ろう。叔母が用意してくれるマンションに持って行こう。叔母のマンションには今度も書庫が用意されるはずだけれど、もうそんなところに隠すのはやめよう。自分の机の奥にしまっておくのがいい。まだしばらく私にはこれが必要だ。瑞穂にはもう要らない。そもそも瑞穂には初めから要らなかったような気がする。いつか私にも要らなくなるときがくるだろうか。そのときは捨てることになる。ネットクラウド上のデジタルファイルも削除することになる。それができるのは私であって瑞穂ではない。だから、捨ててもいいか?なんて、私はそんなことを瑞穂に尋ねたりはしない。ごめんなさい…と言ったから。もうそんなことをする必要はないのだ。
 食事の支度ができたと母に呼ばれるまで、真帆はベッドに眠ってしまった。枕の下に隠した日記帳を――そこに記されたまだ幼かった頃の自分たちの体に起こり始めた変化の発見と驚きの記録を――枕を通して思い返しているうちに眠ってしまった。日暮れて部屋は肌寒くなっていた。真帆は部屋を出て階段を降りた。父が帰宅していた。
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