09:常葉 マンションの廊下を進むと、

文字数 5,240文字

 マンションの廊下を進むと、夕食の支度が放つ香しい匂いと一緒に、いつもとは印象の違うおしゃべりの声が耳に入ってきた。声の主は同居している姪の静花だが、話している相手が違う。いくらかトーンが高くなっているし、息継ぎの回数も少ない。一族の女たちの態度がどうしてこうもわかりやすく変わるのか? まだ若い姪たちばかりでなく、もうすっかりオバサンになった姉たちや妹もそうだ。常葉(ときわ)にはいまだに理解できずに横たわる、この世界の謎のひとつである。
 自室で着替えてから、ダイニングルームに入った。静花の声はキッチンから、ダイニングテーブルに座る甥に向けられている。静花の奥に叶がいて、姪は叔父の料理の手伝いをしながら、途切れることのないおしゃべりを、従兄の夏馬に浴びせかけているのだった。
「やあ、おかえりなさい」
 と夏馬が顔を振り向けた。
「今月の引き落としが多い。なにに使った?」
 長方形をしたダイニングテーブルの長辺、キッチンに近く、しかしキッチンを見る側の端――定位置の椅子を引きながら、常葉が斜め向かいに座る夏馬に詰め寄った。
「河合先生を二度ほど訪ねたけど、ほかは取り立てて変わらないよ」
「ホテルを使ったでしょう?」
「考え事をしたかったのでね」
「本家か安曇に泊まりなさいよ。タダなんだからさ」
「常葉さんにとってはタダかもしれないけど、僕には高くつくこともある。あの小うるさい――いや

は余計だな――詮索好きな叔母さまが待ち構えている、本家にも安曇にも。僕は格好のターゲットだ。なにしろ今、すべての情報は僕を通過する。酷い話だと思わないか?」
「ちょっとこれ見てよ」
 夏馬の愚痴を聞き流し、常葉は今日職場に届いた水色の封筒を、テーブルの上に滑らせた。
「ほお、きたね」
 封筒の裏面の送り主を確かめた夏馬がにやりと笑う。便箋を取り出す甥の表情の裏側を、常葉はその鋭利に閃く額と皮肉に歪む口元で読み取ろうと試みた。が、夏馬は笑みを崩さない。深くも浅くもならない。買い換えたばかりの勝手知ったる電化製品の保証書でも眺めるような顔をしている。
「その〈月浦〉ていうの、こっちに取り込もうとしてるわけ?」
「相変わらず性急だね。こいつは真帆の案件だ。急いては事を仕損じる」
「瑞穂はなんでそんな厄介な女に手を出したのかしらねえ」
「厄介とは言い切れないよ。こういう女だからこそ想像力を働かせることができる。…かもしれない。…あるいは。…もしかすると」
「真帆に引き合わせるの?」
「敢えて僕がそうするまでもなく、いずれ出会うことは避けられないよね。なにしろ月浦はもう瑞穂の部屋に出入りしはじめてるんだから。真帆の存在も凡そ理解しているわけだ、この織田という医者の言い分を信じれば。――ところでどんな知り合い?」
「袖振り合うも…ていう話。木之下教授の三回忌で立ち話をした。それだけ」
「よく憶えてたね。使い道のある人間なの?」
「あのときはこの男と話したらすぐに斎場を出たのよ、時間がなくてさ。記憶との結びつきがちょっとばかり強いという程度ね。あんたのほうこそ、役に立ちそうだと思って接触したんじゃないの?」
「う~ん……」
 なにを考えはじめたのか、間違いなくなにかを考える顔つきで、甥は織田という心療内科医の無駄のない簡潔な文章に目を落としている。
 常葉がダイニングテーブルに座ったことで、静花はおしゃべりをやめていた。伯母を煙たがっているわけではない。食事の支度を急がなければならないのだ。やむを得ない事情もなく、ただ無駄口を叩いていたなんて理由で食卓が遅くなったりすると、伯母の機嫌が悪くなる。
 夏馬はまだ動かなかった。それほど深く考えることでもないだろうに、と常葉は思っている。織田という医者に会えばいい。そして月浦という女が抱えている面倒な事情を聞いてくればいい。そのあとは「池内」のやり方で進める。異論はないはずだ。
「食事だよ」
 と、叶が声を上げたところで夏馬は便箋を封筒に入れ、そのまま常葉に向かってテーブルの上を滑らせた。さっき常葉がそれを夏馬に向かって滑らせたのとまったく同じやり方で。
「ちょっと! あんたが行くんじゃないの!?
「彼は常葉さんに会いたがっている。これを僕に押しつけるのは筋違いだ。ただ面倒くさいだけなんだろう? そんな仕事を引き受けるのは御免だね」
「代理人てことでいいじゃないの」
「代理人なんか求めてない。読めばわかる。静花にだってわかる。それとも読んでないのか?」
「読んだわよ。わかったわよ。会えばいいんでしょ、私が」
 常葉は乱暴に封筒をつかむと二つに折り畳み、ゆったりとしたワンピースの腰に付いたポケットにねじ込んだ。それを、目敏い静花はしっかりと見ていたものの、伯母と従兄のやや尖りぎみの気配を嗅ぎ取って、詮索することは控えたほうがよさそうだと考えた。
 中目黒に建つこのマンションを購入したのは、夏馬が東京に出てくる春のことである。常葉と叶の姉弟に、甥の夏馬という三人で十年ばかり暮らしたあと、夏馬の世代で最年少の静花の上京を受け入れるために、夏馬が追い出された。3SLDKのSに、今は静花が収まっている。Sにも窓がある。間取り図上はSとされているものの、一室として充分に使える広さがあった。
 設計者がメインベッドルームとすべく用意したもっとも大きな部屋は、夏馬がやってきた当初から書庫だ。四面の壁の天井まで、そして中央にも胸の高さほどの本棚が背中合わせに四つ――そこは共に研究者である常葉と叶の部屋から溢れ出る書物の受け入れ先だった。このマンションに出入りする一族の人間は、それらを自由に持ち出していいことになっている。常葉も叶もそこになにを移したのか、もう憶えていない。すでに手を離れた研究テーマに関わる専門書のほかは、小説や、一般的な科学書や思想書など、彼らが繰り返し手に取ることのない書物である。若い世代が好きに持って行けばいい。書物というのは本来そういうものだ。
 食事の席での話題はほとんど静花が提供する。おしゃべりな娘であり、しかしそうした固有の属性よりも、彼女がまだ大学生である状況のほうがきっと重要だろう。常葉も叶もすでに四十を越え、一緒に食卓を囲む人間に提供すべき出来事が、そうそう毎日のように起こるはずもない。夏馬という男は食卓のような場ではあまり口を開かない(たち)だ。対面ではうんざりさせられるほどの饒舌になるけれど。――そうしたわけで、静花がおしゃべりの真ん中になる。本家のある郷里から上京してきた大学生の姪には、日々、ダイニングテーブルで披露すべきネタが舞い込んでくるのだ。
 長方形をしたテーブルの、キッチンに近い短辺に叶――彼はこの家のキッチンの支配者である。その右手に常葉、そして左手に静花。静花の隣りに夏馬。常葉と夏馬は絶対に正対しない。ひとつでもズレて座る。常葉と叶の椅子が定まって動かない以上、この家に夏馬がやってくるときの食卓は、いつもこの配置になる。椅子はあと四つ残っている。常葉の隣りにふたつ、夏馬の隣りにひとつ、叶の真向かいにあたる短辺にひとつ。このテーブルには都合八名の人間が座ることができる。
「あ、そういえば常葉さん、夕方に華澄伯母さんから電話あったよ」
「なんだって?」
「知らないけど、電話欲しい、て言ってた。私いま伝えたからね。忘れないでね」
「どうせ彩日香のことでしょう。夏馬、あんた電話しといてよ」
「はいはい」
「夏馬さん、『はい』は一回だよ。――ねえねえ、瑞穂さんて今度いつ来る?」
「なんで急に瑞穂なんだ?」
「華澄伯母さんとおしゃべりしたからだよ。真帆と瑞穂も元気にしてる?とか訊かれちゃって、そう言えば私、二人にぜんぜん会ってないなあ…て思ってさ。瑞穂さんて半年も経つのにまだ三回しか来てないよね? 私たち嫌われてる? 常葉さんが怖いから?」
「静花がうるさいからでしょうよ」
「私がうるさいから? ほんと? 私ってうるさい? うるさい子?」
「違うと思ってたの?」
「名は体を表さず、てやつだな」
「でもそうかもしれない。私こないだ瑞穂さんがきたとき、ちょっとうるさかったかも。でも仕方ないよね。瑞穂さん愉しいし。瑞穂さんしか愉しくないし。あとみんな頭良すぎておかしな人ばっかだし。だから私がうるさくなるのは仕方のないことだわ。そうじゃなくって?」
 この夜は夏馬がやってきたために、静花はいつにも増して調子がいい。ゲルマント公爵夫人(と本人が言っている)を真似た(と本人が言っている)語り口が飛び出してくるのは、上機嫌である証拠である。「池内」の女たちは例外なく、夏馬が現れるとひとつふたつネジが外れる。常葉は自分は例外だと思っているようだが、決して例外ではない。静花のために夏馬がこの家を出てから以降、やはり同じ症状が見受けられるようになった。
 食後、そうはいっても週に一回は顔を出す夏馬は珍客というわけでもなく、静花も叶も片づけを終えると自室に消えた。そうなるものと承知していた常葉がリビングルームでコーヒーを淹れた。いや、コーヒーを用意しておいてくれたのは弟の叶だ。常葉はただカップに注ぐだけである。自分でコーヒーを淹れるようなことはしない。なければないで、面倒臭いが勝ってしまう。しかし家にいる叶がコーヒーを淹れずに食事を終えることは絶対に許さない。
「あんたが会いに行ったのって、いつだっけ?」
「先月。…いや、その前か」
「大船よね。遠いわよね、あそこ」
「呼べば来るだろう。月浦のことは放っておけないみたいだから」
「しょうがない。研究室に呼ぶか」
「大船まで行けば、美人で色っぽい奥さんを拝めるよ」
「私がそんなもの拝んでどうするのよ」
「色白でさ、吸いつくような肌をしてるんだよ」
「奥さんまで関わってくるなんてことないわよね?」
「それはない。残念ながら」
 三人掛けのロングソファーに夏馬が長大な体躯で寝そべって、常葉はその脚のほうの一人掛けに体を沈めている。ここでもやはり、二人は正対しない。それはちょうど、いわゆるテリトリーを持つ野生動物が、互いに無用の衝突を避けるように暮らす行動様式に似ている。去年の春に夏馬がこの家を出たとき、確かに上京する静花を受け入れるには部屋数が足りなかったのは事実だが、この二人が日常的に顔を合わせずに済むようにしたという側面も、実のところ多分にあった。静花のあと、この春に真帆と瑞穂も上京してきて以来、いつもほんの些細なところではあるものの、意見の食い違いに苛立つことが多い。世代交代の兆しなのだと、常葉も頭ではわかっているのだが……。
「で、落としどころは?」
「月浦はどうも家を出ようとしているらしい。が、四年は待てないという話だと思う」
「四年てなによ?」
「常葉さんが設定したんじゃないか。瑞穂を真帆のそばに置いておこうって」
「ああ、そうだったわね。真帆はその後どうなの?」
「落ち着いてるよ。あの子はなにも変わっていない」
「そう。じゃあ、引っ越そうか」
 夏馬は呆れたように、寝そべったまま、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「だから言ったろう? 最初からそうしておけばよかったんだ。静花は絶対に追い出せないし、叶さんがいなければこの家は飢えるか蛆が湧く。書庫は捨てたくないとなれば、必要な部屋数は五つだ。デカい部屋をリフォームしてもいい。静花と真帆なら共生可能だろう。大急ぎで物件を探すべきだと思うね。――あ、僕に振るなよ! 不動産は苦手だ」
「空いた部屋はどうする? あんたが入る?」
「瑞穂が気の毒だろう」
「彩日香はどう?」
「もっと気の毒だろう」
「どっちが?」
「瑞穂

に決まってる」
「そうよねえ」
 話はついた――常葉はソファーを立ち、コーヒーカップを手に窓辺の安楽椅子に移った。サイドテーブルに読み止しの本が置いてある。読み終わったら真っすぐ書庫に放り込まれる類の本だ。手を伸ばしかけたところで、やはり寝そべっていたソファーから体を起こした夏馬を呼び止めた。
「大船までどれくらいかかるの?」
「一時間」
「土日の診療は?」
「土曜は全日、日曜は午前のみ」
「なるべく早い時間で取っといてよ」
「土曜は仕事?」
「どっちでもいいわ」
「了解」
 自分のコーヒーを飲み干してキッチンに向かおうとする夏馬を、また常葉が呼び止めた。
「華澄に電話するの忘れないでよ!」
「ああ、華澄さん。忘れてた」
「私が文句言われるんだからさ」
「だったら自分ですればいい」
「どうせ大した用件じゃないわよ」
「今ここで済ませて帰るよ」
 間もなく、ダイニングルームとの扉の向こうから、相手を懐柔しようとするときの夏馬の声が聞こえてきた。それを確かめて、常葉はようやくサイドテーブルから本を手に取った。次姉の華澄の話が夏馬の手に余ってこちらに飛び火してくる可能性は薄い。いや、はっきりゼロだと言っていい。夏馬が相手をすれば穏やかに和やかに収まる。使い勝手のいい甥だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み