13:日高 代表受付から電話が回ってくることなど、

文字数 6,313文字

 代表受付から電話が回ってくることなど、普通の人間は想定しない。それを想定する普通じゃない人間がいるという意味ではなく、そのような想定は一定規模以上の会社組織になれば意味を喪失するということだ。
 しかし、代表電話番号というものが実在する以上は、そこに電話をかけてくる人間がいて、その電話を受け取る人間が生み出される。しかし、それは概ね新聞社やなんらかの団体からの電話であり、受け取るのは広報などそれを専門とする部署に限定される。
 ところが、このときは生産管理という社内のバックヤードを担当する部門の、それもこの春に入社したばかりの人間につなげられた。代表受付から回ってきた電話は、新人ということもあって、たまたま本人が取った。
「生産管理第二部第三課の日高英美里さんをお願いします」
「日高は私ですが」
「池内さんという方からお電話が入っています。親族だとおっしゃっているのですが……」
「……ああ、はい、池内さん。ありがとうございます。つないでください」
 英美里(えみり)は咄嗟の機転で、わずかに不自然な間が空いてしまったが、親族のふりをして電話に出るべきだと判断した。神崎兄弟に関係するあの「池内」であるに違いない。英美里はほかに「池内」という姓を持った人間を知らなかった。なんだろう?(どんな用件だろう?)とは考えたが、どうして私なのだろう?とは考えなかった。考えられ得る事態だと想定していたわけではない。恐らくつい最近、その「池内」をめぐる話を聞かされたばかりだったからだろう。
「お電話代わりました。日高です」
『ああ、日高英美里さん?』
「はい、そうです」
『池内夏馬という名前は聞いたことがあるね?』
「ええ、神崎瑞穂さんから」
『うん、けっこう。実は折り入って君に相談事がある。今夜、下北のカフェで会えないだろうか?』
「神崎くんのこと、ですか?」
『神崎瑞穂の件でもあり、月浦朱音の件でもある。二人に共通する相談事をするには君が最適だと聞いているよ』
「誰からそんなことを?」
『店と時間を指定してほしい。君は下北に詳しいとも聞いている。そうそう、くれぐれも瑞穂と月浦には内密で頼みたい』
「そうなんでしょうね、きっと」
『なかなか肝の据わった女の子だね。いい話し合いが持てそうだ』
 相手は英美里がYesと答えるよりほかない話の進め方をした。こちらはこれこれと聞いているのだが、あなたもこれこれを聞いているね?――電話の向こう側で話しているのが、瑞穂や真帆が口にする〈池内夏馬〉本人であるかはわからない。会話の中に名前は出てきたけれど、人品骨格に関する情報はなかったと思う。
 先方は自分のことを知っていた。神崎瑞穂、月浦朱音とつながる人間として。それで話の内容はほぼ確定されるだろう。〈彼ら〉が月浦朱音のかかっている医者にコンタクトしようとしている(あるいはもう終えた?)という、あの件だ。瑞穂があたふたと騒ぎ立て、真帆が淀みなくデタラメを口にした、あの夜の件だ。
 真帆の話がデタラメだと言ったのは瑞穂である。しかし英美里もそれをデタラメ(という言葉が適切だとは思えないが)なのだろうと感じた。姉弟にとって「池内」というのは警戒すべき存在であると同時に、二人の思考を混乱させる存在でもあるわけだ。それは、まあ、そうだろう。あのようなマンションを四年間も提供してくれるというところだけを取って見ても、警戒するし、混乱もする。普通ならそうだ。
 定時に退社し、真っ直ぐ下北沢に向かった。通勤経路上の駅であり、通学経路上の駅でもあったから、確かによく知っている街のひとつだ。
 指定したカフェが思いのほか混み合っていて、入り口で英美里はちょっと戸惑った。店員が歩み寄ってきたので、「二人です、あとでもう一人」と伝えた。入り口から遠く、見つけにくい(見つけられにくい)テーブルに案内されてしまった。
 ブレンドコーヒーを注文し、英美里はいくらか上体を前屈みにする姿勢で、店内を仕切る半透明の衝立の向こう側、大きな観葉植物が視界を遮る入り口を見張った。
 若いカップルが入ってきたあとに、やはり若くはあるがずいぶんとくたびれた感じの会社員が現れた。これは違う。ひとを探すのではなく椅子を探している。いや、そんなことよりも、挙動に余裕がない。あるいは自信がない。電話で話したイメージとかけ離れている。
 と、観葉植物の上に頭が覗くほどの大男が登場した。入り口でぴたりと足を止め、店内を睥睨するように見回す顔に、微かに笑みを含んでいる。あれだ!と直感して、英美里は背筋を伸ばした。その動きを捉え、大男は真っ直ぐに英美里のもとに歩み寄った。
「日高英美里さん?」
「はい。池内さんですね?」
「なるほど、噂に違わぬ美人だ」
 椅子を引き、どっかと腰を下ろした。テーブルが窮屈なようで、横に足を投げ出して座った。コーヒーを注文すると、ぎょろりとした大きな眼で英美里を矯めつ眇めつするように眺め入った。
「いやあ、美人だね」
「はあ、どうも……」
「瞳の色がこの島の民族とはいくらか異なるようだ」
「クォーターなんです。母方の祖父がアイルランド系のアメリカ人で」
「知ってるかな? 絵の具でつくる黒ではなく墨でつくる(くろ)は、他の色を混ぜてもそれを殺さずに受け入れる。君のはまさにそうした(くろ)だね。――ところでオフィスを出てからこの店に入るまで尾行されている気配はなかったかい?」
「尾行?」
「う~ん、見たところ怪しい人間はいないようだな」
 ぐるりと店内に首をめぐらせてから、届いたコーヒーに呆れるほどの砂糖を入れた。瑞穂と同じだ。真帆に窘められていた。一族の特徴のひとつだと、確か真帆がそう言ってた。しかしこの、どこまで真面目に話しているのか戸惑わせられる感じは、いったいなんだろう? これもまた「池内」の特徴なのだろうか? 真帆は「特定の人たち」という言い方をした。この「池内夏馬」の名前も、確かにその中に入っていた。
「さて、君がどの辺りまで事情に通じているか、まずそこから始めようか」
「たとえばどんなことでしょう?」
「織田という医師の存在は?」
「朱音ちゃんのお医者さんですね、大船の心療内科」
「イヤーマフというものを知っているかい?」
「真帆さんが使っていると聞きました。実物は見たことがありません」
「池内常葉というおっかないオバサンについてはどうだろう?」
「必要なときに必要なものを手配してくれる人」
「そのうえ自分で手配したはずの理由をすぐに忘れてしまう困った人でもある」
 池内夏馬はそこでコーヒーにひとつ口をつけた。
「瑞穂と月浦を説得して欲しいんだよ。真帆があのマンションを出るのが我々にとって正しい選択なのだということについて」
「真帆さんはどちらに?」
「池内常葉の傍らに。――そのためにはまず君にこの選択の正しさを理解してもらう必要がある。それが今日の会談の目的というわけだ。わかるかい?」
「どうして私なのでしょう?」
「そこに疑問がある?」
 同じことを、そう言えば会社で電話をもらったときにも思った。どんな用件だろう?とは考えたが、どうして私なのだろう?とは考えなかった。そこに疑問がなかったから、恐らく考えなかったのだ。いま、どうして私なのでしょう?と尋ねたのも、決してそこが不可解だからではない。むしろ、どうして私なのかを確かめるなんて愚かなことだと、そう納得させて欲しかった。
「疑問はありません。が、そのわけを自分に説明することができません」
「なるほど。では、こんな説明ではどうだろう? どうか気分を害さずに聞いて欲しい。――君は入社早々に瑞穂と絡んでいる。だから僕は仕方なくこの半年ばかり君のことを観察させてもらった。僕らは少々困ったところのある一族でね、関係してくる人間をいちいち値踏みしないことには気が済まない。日高英美里には我々を利する可能性があるか? あるいは我々を害する危険性はないのか? 半年余りの調査の結果、君は丁重に処遇すべき人物であると、我が『池内家』によって確かめられたという話だ」
「それは誇るべきことだと?」
「まさにそうだよ」
「ふふっ」
 と英美里はそこで、思わずというように笑った。
「そういうバカみたいなお話しって、私、嫌いじゃありません」
「我々の見込んだ通りというわけだな」
「でもちょっと、それって今さら?という感じがします。だったら初めから二人を隣り同士の部屋になんかしなければよかったのに」
「時に僕らも過ちを犯すことがある。常にそのリスクは付きまとうものだと考える。だからこそ、たとえばこうして日高英美里という人間に、細心の注意を払っておかなければならない」
「瑞穂はきっと凄く怒りますよ」
「怒るだろうなあ」
「朱音ちゃんは、ちょっとビビっちゃうかもしれません」
「ビビるだろうねえ」
「まさかそれ、ぜんぶ私に丸投げしようとか考えてます?」
 大きく見開いた英美里の眼を――その、他の色を混ぜてもそれを殺さずに受け入れる玄(くろ)い瞳を――池内夏馬はじっと見て、いかにもあざとく、つまりはわかりやすく、表情を消し口をつぐんだ。
「どうして黙るんですか?」
「どうしてだと思う?」
「それは、私の言ったことが当たってるから……」
「大正解」
 と、破顔した。
「こんな正解に

もありませんよ!」
 つい声が大きくなった。池内夏馬がさっとテーブルに身をかがめ、声をひそめた。
「むろんタダでとは言わない」
「凄いお金持ちだって話は聞いてますけど――」
 日高英美里も釣られて声をひそめた。が、目の前で大男が身をかがめたものだから、体は動かさなかった。必要以上の圧力を感じる。だから声だけをひそめた。
「お金がいいのか?」

って言おうとしたんです」
「なにか困っていることはないかな? 力になるよ」
「今あなたに困っています」
「たとえば君の今泉という男は郷里に将来を約束した許婚(いいなずけ)がいることを隠しているとか……」
「マジですか!?
「いや、知らないけど」
 相変わらず表情を動かさず、とぼけた顔で口にする。英美里のほうがニヤリと笑った。
「ああ、なるほど。つまりあなたは取り引きのネタを持っていないと」
「賢いな。どうしてあんな程度の大学にしか行けなかった? ちゃんと勉強したのか?」
「余計なお世話です」
「君が高校生だったら家庭教師をしてやれたのに、もう手遅れだ。残念だよ」
「まだ二十三なのに?」
「知らないのか? 人は十九で折り返す。二十歳からは惰性で飛ぶほかない。頼れるのは知恵だけだ。知恵だけは蓄えられる。憶えておくといい」
 英美里は露骨に嫌な顔をした。まるで心当たりがあるように。
 日の暮れのカフェは人の入れ替わりが激しかった。待ち合わせとか、営業報告とか、仕事帰りの一服とか、腰を据えてなにかに熱心に取り組んでいる人間は少ない。
 英美里は大男から視線を外し、剥がし、そんなカフェの人の出入りに眼を向けた。男の話はわかった。なんらかの――なんであれ――報酬を期待する用向きではないことも。そもそも会社からもらう給料以外の報酬など考えたこともない。私は私立探偵ではないのだ。しかし欲しいものはある。知りたいこと、と言い直すべきか。いやもっと直截に、単なる好奇心に過ぎなかった。彼らの突飛で拙劣でちぐはぐなドタバタ劇を見届けたい。
 池内夏馬は視線を外した英美里の斜め横を向いた顔を見ていた。その表情が変わって行く様子を期待感をもって――いや当然起こり得るものとして――待っていた。タダでとは言わないと口にしたのは冗談ではなかったが、今この女に自分の助けが必要となるような事案があるとは思っていなかった。彼女の身辺からはそのような匂いがまったくしない。もちろんちょっとした不満や不平や迷いや躓きは日々あるだろう。しかしそれは殊更〈問題〉として取り上げるべき性質のものではない。
 隣りのテーブルでスーツ姿の男がパタンと音をさせてノートパソコンを閉じ、ぐいっとコーヒーを飲み干した。今日一日の勤めが終わったのだろう。伝票を手に立ち上がり、その身動きにふと顔を向けた英美里を見やって、わずかに眼を見開いた。こんなに綺麗な女がすぐ隣りに座っていたというのに、席を立つまでそれに気づかなかった己の不明に驚いたのかもしれない。
 そこで英美里は池内夏馬に顔を戻した。
「君は人目を惹くね」
「仕方ありません」
「いい気分はしない?」
「そうですね。気分がいいとは言えないかな」
「それで、考えはまとまった?」
「はい。もちろんお請けしますよ。でも報酬は要りません。ただひとつ条件があります」
「なんだろう?」
「この物語の全体像を、ときどき話して聞かせてくれませんか? 瑞穂と朱音ちゃんのことは見えますけど、真帆さんのほうは私には見えません。そこを、あなたが補ってくれると約束してください。敢えて言えば、それが報酬です」
「いい条件だね。約束しよう。――さっそくひとつ話がある。この週末に僕らの叔母が織田を訪ねた。彼は賛同してくれたよ。そういえば彼の奥さんは

だそうだ。これがまた色っぽい奥さんでね。思わず生唾をゴクリとやりたくなる」
「品のない表現」
 英美里は蔑むように冷ややかな声で応じた。
「失礼。こういうのはお好みじゃないと。では今後はいくらか(みやび)に行くとしよう」
「それって朱音ちゃんも知ってます?」
「ショックを受けている、とか?」
「ずっと織田先生に恋してたみたいだから。本人は全力で否定すると思うけど」
「どうしてだろうね? 人は同時に複数の恋を抱えることができるはずなのに」
「今泉くんの許婚(いいなずけ)……」
「あれは冗談だよ」
「でも、実在してもおかしくないでしょう?」
「調べてみようか?」
「それはダメ。こう見えて、けっこう気が弱いほうなの」
「そうじゃないかと思ってた」
「そうじゃないかと思ってた、て言うんじゃないかと思った」
「織田の話をしよう。いや、その前に僕らの叔母からだ。とても恐ろしい人だよ。なにしろね――」
 池内夏馬は饒舌だった。眼鼻の周りの皮筋が休みなく動き、大袈裟な身振り手振りを交え、あちらこちらで脱線しては、知らぬ間にまた本線に戻っている。内容も荒唐無稽な話ばかりだった。英美里は何度も声を上げて笑った。お腹の筋肉がよじれ、幾度か話を中断させなければならなかった。
 それでも七時になるとぴたりと話をやめ、二人は井の頭線の上下に別れた。このまま食事に誘われるのだろうと英美里は思っていた。漠然とではなく、そう確信していたし、そのつもりでいた。だから、下北沢の改札口であっさり放り出されたときには、やや呆然としてしまったくらいだ。
 美人だ美人だとあれだけ口にしておきながら、涙がにじむほどにさんざっぱら笑わせておきながら、まさか一人でいつもの電車に乗ることになるとは……。英美里はいくらか自尊心を傷つけられた。はっきりと自覚的にそう感じた。約束を反故にしてやろうとまでは考えなかったけれど。
 家に帰って食事を済ませ、シャワーを浴びて着替えてから、今泉に電話をかけた。生まれ育った街に可愛らしい幼馴染みの女の子がいるのではないか?と詰めてみた。幼馴染みの女の子は実在した。が、英美里とは比べ物にならないくらい貧弱な女の子だと、今泉は汗をかきながら力説した。
 ベッドに入って灯りを消し、薄暗い天井を見上げたとき、ふと、池内夏馬は知っていたのではないか?との疑念が湧いてきた。調べてみようか?と言ったことを思い出す。あれは実在を承知しているからこそ出てきたセリフかもしれない。しかし、問い質してみても冗談だと繰り返すだけだろう。
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