16:彩愛 やっと悪阻が治まり始めたので、

文字数 3,314文字

 やっと悪阻が治まり始めたので、病院の受付に戻ってから一週間ほどが過ぎたある日、予約リストの中に診察ではなく面会の予定があるのを見つけた。彩愛(あやめ)の知らない名前だった。日高英美里――現れたのは、ぱッと人目を惹く綺麗な女の子だった。女の子という年齢ではないかもしれない。二十代半ばくらい。不思議な瞳の色をしていた。織田の態度から、彼もこの日が初対面であることが窺えた。
 話の内容が事前に読めなかったのか、織田は日高英美里に土曜日の午前中最後の順番を割り当てていた。が、話はちょうど三十分で終わり、彩愛の眼には、日高英美里に心の乱れは感じられなかった。しかし、業者でないことは確かである。日高英美里は小さなポーチひとつを肩から斜めに掛けてやってきた。そんな仕事は少なくとも心療内科にはない。
 当日も、翌日も、織田は日高英美里の話題を口にしなかった。珍しいことではない。診察はもちろん面会であったとしても、言うまでもなく妻という立場であるからと言って、同じ立場にある医師でもない彩愛に話をすることは滅多にない。月浦朱音の一件は、そして彼女に関係するらしい「池内」を名乗る人たちとのやり取りは、例外中の例外だ。
 それがなぜ例外として扱われたのか、彩愛には正直なところわからない。月浦朱音が特別であることは承知している。特別に気を配っているのはよくわかっている。彼女の来院の経緯からも、彩愛は納得して受け入れている。特別であると言っても、織田は表で月浦朱音と会ったりはしていない。そう信じられるし、疑ってみたところで空振りに終わるだろう。
 しかし、だからこそ織田は「池内」を受け入れたのだとも考えられる。彩愛にそれをオープンにしたのは、月浦朱音への関わりが、医師としてのそれを超える可能性があることを、織田が予見していたからだとも。これをもって彩愛としては、織田の誠実さと受け止めることもできるし、月浦朱音を警戒すべく身構えることもできる。――考えているうちに頭が混乱してきた。
 どこから月浦朱音に迷い込んでしまったのだろう……。
「難しい顔をしているね。体調が良くない?」
「うゝん、そんなことない。ちょっと考え事をしてたんだけど、途中で混線してしまいまして……」
(ほど)いてあげようか?」
「きっと説明できないから、もういいの。ハサミでちょきん!」
「今のはこの子に話しかけたわけ?」
 と、織田が彩愛のおなかの上に手を置いた。日曜の夕食を終え、片づけを終え、二人はリビングソファに座っていた。織田がコーヒーを淹れようとして、今日はもう摂取過多になるからダメだと彩愛に言われてしまい、諦めたところだ。
「ああ、そうね。そうかも。――私の頭がこんがらがると、この子も一緒に悩んじゃうと思う?」
「こんがらがり具合に依るんじゃないかなあ。君がそれで焦ってしまって動悸が早くなるとかね。そういうレベルでつながっていると言われれば納得できる。でも、君がちょっと難しい顔をしたからといって、胎児まで眉間にしわを寄せるとは思えない」
「池内さんのことを思い出したのよ」
「どうして池内さん?」
「こないだ綺麗な女の子がきたでしょう?」
「それでヤキモチを焼いているってこと?」
「違います。――診察じゃないんだなあ…て思ったら、池内さんがぽッと出てきたの」
「ああ、そういうことね。――池内さんは、どうしてるのかな、ちょっと俺にもわからない」
「もう連絡とってないの?」
「朱音ちゃんがなにか持ち込んでこない限り、あれはもう池内さんの問題なんだよ」
「彼女の話には出てこないのね?」
「なにかが進行しているのは間違いないと思うんだけど、このところ貝になってしまってね。朱音ちゃん、なにも話してくれなくなった。無理やり聞き出すのもどうかと思うし、日常生活に支障が出ているわけでもないし。医者という立場から踏み込むのは難しい。親族には敵わない」
「本当はもっと踏み込みたい?」
「いや。池内さんにお任せできるのなら、そのほうが有り難い」
「意外な答えだわ……」
「え、まさか、朱音ちゃんに嫉妬してたの?」
「だって、あなたがいちばん大事にしている女の子だから、つい、なんとなく……」
 心底から驚いたという顔で、織田は恥ずかしそうにする彩愛を見守った。織田が黙って見ているせいで、彩愛の体はますます小さくなり、顔が真っ赤になった。やがて織田がニヤッと笑い、彩愛がちょっと嫌な予感を覚えたところで、思いがけない言葉が出てきた。
「敢えて順番をつけろと言われれば、朱音ちゃんは三番目の女の子だよ」
「三番目? え、二番目は? え、二番目がいるの?」
「自分が一番だと決めつけている人間の発言だな」
「ウソ! そこから?」
「いや、そこからじゃないけど」
「じゃあ二番目ってなに? だれ?」
「この子」
 と、織田がふたたび彩愛のおなかの上に手を置いた。その大きな手をじっと見下ろしてから、彩愛は呆れたように織田に視線を向けた。
「女の子なんだ?」
「女の子さ」
「おめでたい人」
「だって、女の子だろう?」
「もし本当に女の子が生まれたら、私は二番目に落ちちゃうんじゃない?」
「それは絶対にない」
「絶対なの?」
「そう、絶対だ」
「そ、そうなのね……」
 織田は日高英美里の話をしなかった。そのことを、彩愛はすっかり忘れた。日高英美里の来訪はその一度きりであり、その後、彩愛が彼女を思い出すことはなかった。
 日高英美里の来訪に関しては、織田も朱音に秘した。そのように求められたからであり、従わない理由はなかった。言うまでもなく、彼女が「池内」の名を口にしたからだ。日高英美里が朱音と瑞穂の同僚であると聞き、織田は安堵した。「池内」は自分たちの親族の都合だけを、一方的に押しつけるような進め方はしていない。織田はそのように受け取った。
 瑞穂の怒りを鎮め、朱音のお尻を蹴っ飛ばすのが、「池内」から自分に求められている役割であると、日高英美里はそう織田に話した。瑞穂のことはわからないが、朱音が真帆の転居という「池内」の手当てを耳にしたとき、腰が引けてしまうと想像するのは容易かった。真帆を追い出してしまった…などという不遜な考え方はしない女の子ではあるけれど、真帆に居心地の悪い思いをさせ、不本意な転居を余儀なくさせた…と考える可能性は充分にある。真帆の行き先が、実家ではないまでも、叔母の家であることは、そうした考えを後押しするだろう。
 朱音は決して難しい人間ではない。自分が家を出ようとしているその先で、真帆が家に戻されてしまう――勝手にそのふたつを結びつけて心痛を抱え込む。もちろん真帆は決して

わけではない。朱音とは抱えている事情がまったく異なっている。しかし朱音の眼には、それとこれとが同じ座標軸上にあるように見えてしまう。自分が家を出ようとしているから。それも後ろ向きに、家から逃れるために。どこかに行きたいのではなく、なにかを始めたいのでもなく、あるところから離れたいのであり、あるものを終わらせたいだけだから。
 その晩、彩愛がぐっすり眠ってしまったあと、織田は池内常葉にメールを打った。名刺にある職場のアドレスに宛てて、

の状況を尋ねてみた。返信は月曜の昼休みに届いた。東京の拠点(という言い方を先方はした)を中目黒のマンションから移すこと、並びに神崎真帆を転居させ他の親族と一緒にそこで暮らすよう計らうことに、「池内」本家として決めたとあった。神崎真帆に異存はなく、無理強いもしていないと――そんな疑いなど織田からは微塵も匂わせていなかったのに――池内常葉はわざわざ申し開きのように添えていた。
 恐らく池内常葉のやることは――あるいは「池内」本家というところのやり方には――そのような見方がされるのだろう。能力に意志が伴えば、世間の眼は概ねそれを捻じ曲げるものだ。偏屈なひとりの秀才として生きて行くことが許されたのなら、池内常葉だって当然それを選んでいたに違いない。賢い人間はみなそうしている。そうすることで賢い者たちは、生きることの最良の部分を取り逃がして行くのだ。むろんそのことに気がつかないので問題はない。
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