ユダの場合

文字数 2,290文字

 最後の夜、昨夜のことです。夕食の席で先生は私達弟子の足を洗いたいと言い出しました。しかし足を洗うという行為は目下の者が目上の者に対してするものです。
 私達は固辞しました。すると先生は
 「私のしていることの意味は今は分からないだろうね。でも後で、きっと分かるようになる」
 とおっしゃいました。
 「はっきり言っておくが、あなたがたのうち一人が私を裏切ろうとしている」
 突然の宣言に、私は心底驚きました。この男は見ぬいている。さっき私がカヤパとした会話を知っている。自分の価値が銀三十枚であったこともきっと察している。
 ―― 面白い。
 と思いました。采は投げられました。もう誰にも止めることはできないのです。
 そうですよ。おっしゃる通り私はあなたを裏切ろうとしています。けれど先生、それを察知しているあなたには、それを回避することもお出来になるということをお忘れなさるな。今日まで、嵐を鎮め、盲人の目を開き、死人を蘇らせ、たった五つのパンと二匹の魚で五千人もの胃袋満たしたあなたには、できないことはないでしょう。もしできないことがあるとしたら、それはあなたが「偽物」だからに他なりません。もしくは最初に掲げた志を失ったからに他なりません。
 私の思いが、どうぞあなたに伝わっていますようにと念じながら、先生に向かって心の声で語りかけました。

 お聞き下さい。あなたが本当に神の子であるならば、この下僕にそれをお示し下さい。
 今宵あなたの元へ祭司長と兵隊を向かわせます。すべての手はずは私が整えました。引き合わせるのも私です。告発の合図は私の接吻です。
 捕らえられたら、あなたはすぐに皇帝の前に引き出され裁判にかけられます。罪状は、勝手に神の名を語ったこと、民衆を騙したこと、そして皇帝に対する背信です。即日処刑が行なわれます。あなたはゴルゴダの丘で十字架の刑に処せられます。両手両足を釘で打たれ、血が流れて躰が乾ききり、命が糸のようになって切れるまで何日でも放置される、極悪人しか処せられない最も残酷で最も苦しみの大きい刑です。
 カヤパが言っていましたよ。
 「万が一生き返ると困るので、わき腹を槍で突いておこうか」
 と。それと茨の冠を作ると言っていました。ユダヤ人の王に相応しい贈り物だと。十字架の上であなたの額には茨の棘が深く刺さるのです。
 群集も集まることでしょう。一週間前歓喜して出迎えた人々は、その同じ口であなたを罵ることでしょう。あなたの着物は引き裂かれ、唾をはかれるかもしれません。
 いかがですか、先生。黙っていれば、確実に訪れる未来でございます。なかなかいい具合でございましょう。
 私は覚悟を決めました。これから先、未来永劫「裏切り者」と罵られても構わない。私は、私の魂に触れたあなたの、「イエス・キリスト」という人物の正体を知りたいのです。それにこれはユダヤ全土の民が、諸国の国王が、時空を越えた代々の人々が、きっと求めてやまないことだと思うのです。
 今は裏切り者かもしれません。けれど、いつか感謝される日が来るでしょう。イスカリオテのユダは、イエス・キリストの信憑性を、自分の全人生と引き替えにして確かめたのだと。
 つきつめれば、誰の為でもなく、自分の為に、私はそうせずにはいられないのです。
 そして、もしあなたが「偽物」であった場合、私は十字架の上のあなたに唾をはくつもりでおります。よくも、よくも、この私をだましてくれたな。大勢の民をペテンにかけてくれたな。思い知れ、この大嘘つきめ!
 罵るつもりでおります。
 もしあなたが「本物」であったら、私は恩師を売った罪で自らを告発するのです。十一人の弟子達に私刑にされるという方法もありますね。もしくは群集に石打ちにされ、道ばたに放り捨てられてもいいでしょう。どうせ私に行き場などありはしないのです。故郷にも帰れません。楽園を築くあなたの姿を、地獄の底から見ています。憧れをもってあなたを仰ぎます。二度と絆が結ばれなくても、私はあなたから目をそらしません。
 私の人生に深く大きく関わった「イエス・キリスト」と、そのお方と共に生きたという過去を支えにして、永久の暗黒を耐えて参ります。
 先生お別れです。お世話になりました。先生、さようなら。
 「はっきり言っておこう。あなたがたのうち一人が私を裏切ろうとしている。私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者がそうだよ。私を裏切るのだ」
 私の手と先生の手が鉢の中でぶつかりました。ちぎったパンの先にオリーブオイルが染みていきます。それを見ている弟子達の顔が凍りつきました。
 先生はパンを浸した手をそのままに、ゆっくり私の方に顔を向けられました。
 「人の子は聖書に書いてあるとおりに去っていく。だが人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方がその者の為に良かった」
 私は先生の目を見つめました。
 「先生、まさか私のことでは……」
 先生は鉢の中の手をそのままに言われました。
 「それはあなたの言ったことだよ」
  ―― そうです、先生。たった今、私が言ったことです。
 私は席をたちました。二度と振り返るつもりはありませんでした。弟子達が口々に何かを言っていましたが、耳に入りませんでした。あの人の目の輝きと、手の甲の温かな感触だけが、私に残っていました。
 さあ、イエス・キリスト。私が放つ罠を逃れてみるがいい。本当にお前が神の子であるのなら、その力を私に見せてみろ。私のこの裏切りに応えてみろ。私だけに、応えてみろ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み