ペトロの場合

文字数 1,356文字

 それからどこをどう歩いたのか覚えていない。気がついたら俺は、宿屋に戻っていた。そこには既にアンデレも、ヤコブもヨハネもいた。
 「兄さん……」
 アンデレが目に涙をいっぱいためて、俺の元に近づいてきた。
 「先生の処刑が決まったよ。ゴルゴダの丘で十字架につけられるんだ」
 俺は目の前が真っ暗になった。おしまいだ、もうおしまいだ! 俺が腑抜けだったからだ。もっと勇敢に戦っていれば、何が何でも先生をお守りすればこんなことにはならなかったのに。
 先生、聞こえますか。あなたを裏切ったペトロです。シモン・ペトロです。先生、どうぞ俺の叫びに耳を傾けて下さい。
 俺はあなたを裏切りました。予言された通り、鶏が鳴く前に三回もあなたを「知らない」と言ってしまいました。俺は裏切り者です。大事な大事なかけがえの無いあなたを裏切ってしまった。
 先生、ごめんなさい。先生、俺はいったいどうしたらいいですか。俺はもう自分を打ち滅ぼしてしまいたいです。
 先生、どうぞ俺を罰して下さい。俺を罰して下さい。
 先生、今あなたはどこでどうしていますか。先生、どこですか。
 この俺を罰して下さい。呪って下さい。

 悪夢のような時間だった。
 先生はやつらの手にかかって、十字架に張り付けにされたんだ。群集が取り囲んで先生を罵ったり、唾を吐きかけたりした。
 兵士の一人が茨の冠を先生の頭にのせた時、棘が額に食い込んだのだろう、血が幾筋も流れて落ちた。
 先生の着物は競売にかけられた。十字架の天辺には
 「ユダヤ人の王」
 と書かれた札がつけられた。
 釘を打ちつけられた先生の両手と両足からは絶え間無く血が流れ落ちて、気の遠くなるような時間をかけて、段々その体が紫色になっていった。
 それが昼になって、突然世界が暗くなった。真昼間だというのに、まるで夕方なんだ。太陽は空にあるのに、真っ黒く塗りつぶされており、完全に光が失われていた。
 突然、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた。そして先生が声を限りに叫ばれたんだ。
 「お父さん、私の霊をあなたの御手に委ねます」
 がっくりと頭を垂れて、動かなくなった。
 その瞬間、まるで水を打ったような静かさに辺りが包まれた。皆気づいたんだ。あのお方は、本当に神様のお子様だったということに。
 俺の近くにいた百人隊長は、涙をこぼしていた。
 「本当に、この人は正しい人だった」
 馬鹿野郎。だったら何故捕らえたりしたんだ。お前はさっきのさっきまで、先生を罵っていたじゃないか。
 それは俺も同じだ。いや、俺こそ最も罪深い者だ、誰よりも。ユダよりもだ。あいつは首を吊って自らを裁いたけれど、俺はそれすらも出来ずにいる。
 先生、俺はね、まだ信じられないんだ。あなたが死んじまうなんてことが、本当にあるんだろうか。絶対にそんなことはないと思うんだ。確かに死んでなさるけど、でもそれでも、俺はあなたが死んでしまうなんてことないと思うんだ。
 先生、俺を一人にしないで下さい。死なないで下さい。俺は先生がいなくなったらもう、一歩も前に進めません。どうやって生きていいのかも分からないし、どうやって死んでいいのかも分からないんでさあ。
 俺は本当にバカだから。何一つ、自分で決められないんでさあ。
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