ペトロの場合

文字数 2,157文字

 最後の夜。夕食の席で先生は俺達の足を洗うと言い出された。本当に驚いた。先生が弟子の足を洗うなんて話し、聞いたことがない。第一そもそもは奴隷が主人に対してする仕事なんだ。
 「もったいない、やめてください。俺が洗います。俺に先生の足を洗わせて下さい」
 俺は叫んでいた。すると先生はこうおっしゃったんだ。
 「もし私がお前を洗わなければ、お前と私とは何のか関わりもないことになってしまうんだがね」
 「そんな、先生。だったら足だけでなく、手も頭もお願いします」
 先生は
 「足だけで充分だよ」
 とおっしゃると、優しい仕草で、とても丁寧に俺の足を洗ってくれた。指の一本一本まで丁寧に。
 涙が止まらなかった。
 先生ごめんなさい。バカな俺には先生の意図するところが全くわからないのです。ただひたすら嬉しい、感動していました。先生、あなたの大いなる考えの前に俺の考えなんて無に等しいけれど、どうぞ仲間に入れて下さい。一番小さい者、一番弱い者、一番虐げられている者になりますから。
 先生は最後の夜も変わらず愛のお方だった。
 「先生、俺、誓います。例え皆があなたにつまずいても俺はぜったいつまずきません。俺は、あなたにどこまでもついて行きます。誓います」
 先生は手を止めて俺を見た。いつものまなざしだった。
 「はっきり言っておこう。シモン、お前は今夜鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう」
 不吉な予言だったけど、言葉とは裏腹に表情は慈愛で満ちていた。
 「バカなことを」
 俺は必死で首を振った。
 「例えご一緒に死ななければならなくなっても、俺があなたを知らないなどと言うわけがありません。絶対にそんなこと申しません」
 先生、今にして思えばあなたは全てを見越しておられたのですね。俺の心の弱さを。俺の心の愚かさを。それでも尚足を洗いながら、何かを訴えようとされていた。でも俺にはサッパリ分からなかったんです。

 ユダも戻っていたから、夕食には全員が揃った。ユダは見るからに疲れ果てていた。もしかしたら金策にでも走り回ったのかもしれない。マリヤの香油の一件では感情を爆発させたけれど、あれも突き詰めれば先生や皆のことを考えているからこそだ。
 あの時、俺はそう奴のことを理解したんだ。
 しかし違った。あいつは悪魔の計画をたてて帰って来たところだったんだ。俺は全く気づかなかった。もし気づいていれば、あの場で奴の喉を切り裂いていたのに。
 俺は信じていたんだ。あの場に集まった人間全員が一つの思いで結ばれていると。小さなすれ違いは仕方がないけれど、皆、先生を好きでたまらないんだ、と。だからそれで十分じゃないか、ユダにはユダの苦労があるんだ。そうやってあいつのことを認めたんだ。

 俺たち十二人は、先生を囲んで食卓についた。先生はパンをとって分けると
 「これは私の体だよ。さあ、食べなさい」
 と皆に配った。次に葡萄酒の杯をかざすと
 「これは私の契約の血だ。さあ飲みなさい」
 一口ずつ全員でそれを飲んだ。
 不思議な気分だった。「固めの儀式」とでも言えばいいだろうか。これから始まる楽園建設の為の、重要な儀式だった。

 儀式が終わって、俺達は銘々に配られたパンを鉢の中のオリーブオイルに浸して食べ始めた。二人で一つずつ並べられた鉢なので、俺はトマスと一緒に使った。先生の鉢はイスカリオテのユダが共に使っていた。
 ふと先生がパンを浸したまま手を止めた。目を閉じて、左手を胸に当てて顔を天に向けた。まるで瞑想をしているようだった。
 俺と正面にいたアンデレとは顔を見合わせた。いったい何が始まるのだろう。もしかしたら神が先生のお体に宿って、とてつもない預言が始まるのかもしれないと思ったのだ。しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐに先生は目を開けた。そしてゆっくりと口を開いた。
 「はっきり言っておこう。あなたがたのうち一人が私を裏切ろうとしている。私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者がそうだよ。私を裏切るのだ」
 何だって。それは、ユダのことじゃねえか。俺はユダを見た。奴は今正にパンを鉢に浸したところだった。先生の手の甲とユダの甲が触れ合っている。ユダはまるで死人のように青い顔をして、凍りついたように開かれたままの目は、じっと先生の横顔を見詰めていた。先生はゆっくりとユダの方を見た。
 「人の子は聖書に書いてあるとおりに去っていく。だが人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方がその者の為に良かった」
 蚊の鳴くような声でユダが言った。
 「先生、まさか私のことでは……」
 「それはあなたの言ったことだよ」
  優しい口調だった。まるで子供を寝かしつけるような口ぶりだった。
 俺は戸惑った。この二人はいったい何の話をしているのか。先生とユダの顔つきが全く対照的だったんだ。
 ユダは怯えていた。けれど先生は慈愛に満ちていた。そして二人は裏切りについて話している。もう随分昔から、二人でそのことについて語り合っているような親密さで。
 唐突にユダが立ち上がった。踵を返して出口に向かっていく。俺達は呆気にとられてその背中を見送ったが、奴は一度も振りかえらずに出て行った。
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