ペトロの場合

文字数 2,266文字

 マリヤがとても高価な香油を持って来たとき、俺は「この女はなんて女だろう」と、ほとほと呆れかえった。
 それというのも、ついこの間のことだ。
 マリヤにはマルタという姉がいるのだが、ついこの間、マルタは先生に叱られた。
 マルタはよく働く女だ。四六時中台所で立ち働き、美味い飯やぶどう酒を用意してくれる。それに比べて、この妹のマリヤは気が利かない。たいてい、先生の足元にどっかり座って話を聞いている。そうだ、ゴミ一つ拾わない。杯一つ片付けない。全部姉のマルタがやっている。
 だから、当然のことなのだが、ある日、マルタの堪忍袋の緒が切れた。
 彼女は
 「妹にもっと働くように言って下さい」
 と先生に直訴した。ところが先生は、マルタの方を叱りなさった。
 「マルタ、あなたは多くの事を思い悩んでいるようだが、そんな風に心を乱してはいけない」
 口調は穏やかだったけれど、厳しい目をしていた。まるでマルタの心の中を見透かすような目だった。
 「必要なことはただ一つだけなのだ。あなたの妹は正しい選択をしている。だから君は妹からそれを取り上げてはいけないよ」
 マルタはガックリ肩を落とした。目に涙を一杯ためて、握り締めた手が小刻みに震えていた。悔しかっただろうし、何よりびっくりしたんだろう。
 マルタの陳情を聞いて、俺だって「その通りだ」と思ったんだ。きっと先生は怠け者のマリヤをたしなめるに違いないと思った。そうでなくてもマルタを褒めると思った。だってよ、マルタが本当は誰よりも先生の話しを聞きたいだろうことは、皆分かっていたんだ。ただそもそも働き者だから、つい体が動いちまうんだ。気もいいから俺達をもてなそうと夢中になるんだ。そういう性格だからこそ、妹の怠け振りも鼻につく。先生に泣きついたのは、せめてそんな自分を労って欲しかったからに違いない。ところが労われるどころか、叱られちまった。
 もし俺がマルタだったら、不貞腐れちまったかもしんねえ。でもあいつは違ったんだな。ふてくされなかった。
 そして、今夜、マリアはとてつもなく高価な香油をどこからか調達してきた。
 マルタはそれを許した。
 あの何もしないマリヤが、自ら行動を起こしたことにも俺は驚いた。きっと苦労しただろうに。先生の足を洗いたい一心で、手に入れてきたに違いない。
 マルタはそんなマリヤを黙って眺めていた。だけどそのまなざしは、あの時とは全然違っていた。本当に、別人のように違っていた。
 ああ、そして、先生の表情と言ったら! よっぽど長旅の疲れがたまってたんだろうなあ。足は棒のようだったに違いない。マリヤの油は、芳ばしくて温かくて、きっと先生の足の疲れと痛みを癒したのだろう。
 先生の足は美しいんだ。俺なんかの足とは比べものにならないくらい、本当に美しいんだ。
 いい香りが部屋中に立ち込めて、俺もうっとりしていた。その時、ユダが言った。
 「なんてもったいないことをするのだ。この油を売れば、三百デナリにはなったはずなのに」
 物凄い剣幕だった。怒鳴りつけられたマリヤは体が竦んでしまったように見えた。ユダはマリヤににじりよって上から睨みつけていた。俺は後ろから見ていたけれど、ユダの体は微かに震えていた。腹の底から怒っているようだった。
 あいつは会計係だから、計算高いところがあるのは仕方が無いが、どこか斜に構えているところがあって、俺とは昔から気が合わない。先生が何ておっしゃるかその唇が動くのを待った。
 「いいのだよ。この女は私の葬りのためにこうしてくれているんだからね」
 先生は静かに微笑みながら、そう言われた。ユダは小さく舌を鳴らすと部屋を飛び出して行った。相当、頭に来ていた証拠だ。
 だけど先生、ちょっと俺、よく分からないんです。「葬りのため」ってどういうことですか。まさか先生が死んでしまうなんてことはないですよね。
 飛び出したユダの勢いに負けて、俺は浮かんだ質問を飲み込んだ。でも先生は確かに言った。「葬るための準備」と。
 先生、言っていることの意味が分かりません。これからいったい何が起こるのですか。

 俺は不安な気持ちで見つめることしかできなかった。するとその時先生が俺の方を向いて言った。
 「シモン、シモン、サタンは君達を小麦のようにふるいにかけることを願って、神はそれを聞き入れられたのだ。お前は、やがて立ち直ったら弟子達を力づけてあげなさい」
 「先生?」
 俺は思わず先生のそばに近寄った。
 「何をおっしゃっているのですか? サタンって何です? 立ち直るってどういうことですか。俺に何をしろと言ってるんですか? すみません、俺バカだから分からないんです。教えて下さい。いつもみたいに譬話で教えて下さい」
 先生は衣に触れた俺の手をなぜると、黙って微笑まれるだけだった。温かい手だった。先生からはいい臭いがした。
 先生、俺の心は不安でいっぱいになりました。ずっとあなたのそばにいたいのに、あなたは俺達を置いてどこか遠くに行くつもりでいるのですか。そんな悲しそうな顔をしないで下さい。先生、俺はどうしたらいいですか。先生、見捨てないで下さい。縁起でもないこと言わないで下さい。
 見まわすと、アンデレも、ヨハネもヤコブも、トマスもマタイも皆一様に戸惑っていた。ユダはどこに行ったんだろう。
 俺は先生のそばにいる。そしてもし万が一のことがあったら、全身全霊をかけてお守りする。そう心の中で誓っていた。
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