ユダの場合

文字数 1,042文字

 一人でオリーブ山を降りました。そしてその足でカヤパの屋敷に向かいました。屋敷の中央には大きな焚き火が焚かれ、人々が集まっていました。
 物見高い連中は、イエス・キリストが捕らえられたと聞いて、早朝にも関わらず集まってきたのです。反吐が出る思いがしました。

 広間に入るとカヤパがいました。すでに先生をピラト王の元に引き渡した後でした。
 「祭司長」
 呼びかけるとカヤパは口元を歪めて私を見ました。今更お前に用は無い、とでも言いたげな顔つきでした。
 「これをお返しに上がりました」
 昨日受け取った銀貨三十枚です。カヤパは厭らしい笑みを浮かべると
 「何故、今更?」
 と言いました。私は溢れ出る涙を止めることが出来ないまま、床にひざまづいて叫びました。
 「あの人は無罪だからです」
 先生の慈愛に満ちた瞳は、焼き鏝のようでした。痛みをもって、私の魂に印を打たれたのです。
 ―― イスカリオテのユダをイエス・キリストは愛している。
 「私は罪を犯しました。罪の無い人の血を売り渡したのです」
 カヤパは小さく鼻を鳴らすと
 「知ったことではないわ。所詮、それはお前の問題だ」
 と言い残し、部屋を出て行きました。私は銀貨を広間に撒き散らしました。見ていた祭司達は、転がるそばから銀貨を拾い
 「これは血の代価だ。神殿の収入にはできないなあ」
 と言い合っていました。
 私は居たたまれなくなってカヤパの屋敷を飛び出しました。そしてもう二度と、あの人に呼びかけることはすまいと決めました。そんな資格がないからです。
 先生は最初から何一つ変わってはいなかった。先生の目指した楽園は、私の目指すものとは違ったのだ。けれど私はそれが何であっても従えば良かった。その先に破滅があったとしても、従えば良かった。
 己を過信したが為に、サタンにつけこまれたのだ。何と愚かなことだ。私はサタンの道具にされたのだ。
 身の置き場がありませんでした。
 私はゲッセマネの園に向かいました。あの人が最後にいた場所を、私の最後の場所にしたいと思ったからです。
 しかしオリーブ山の入り口に、一本の縄が落ちているのを見た時、これ以上先には進めないと思いました。この縄は先生に掛けられた無数のうちの一本に違いありません。
 私は神の声を聞いた気がしました。
 「お前に相応しいのは、ゲッセマネの園ではなく、この縄である」
 と。
 あの人を銀貨三十枚で売り渡した者への、天からの報酬がこの縄なのです。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み